『別れてください』




そう告げたのは、まだ夏の気配も見せない、肌寒い
の日でした。





+溺愛ロジック+





きっかけは酷く日常に溢れた些細な出来事でした。

ワタシは休み時間に用事があったため、たまたま仁王君のクラスの近くを通り掛かりました。

そして折角だから仁王君の姿を一目見ようと彼のクラスの中を覗いたのです。



もちろん、その時までのワタシは彼と別れようなどとは微塵も思っていませんでした。

いつもワタシがふと仁王君のクラスを覗くと、彼はどんなときでもワタシに気付いてくれました。

ちらりと一瞬彼の姿を見ただけで通りすぎたとしても、

仁王君は必ずワタシに気付いて追い掛けて来てくれるのです。



だから今日も。

きっと仁王君が私のことに気付いてくれて、それから幸せな時を過ごすのだと、

信じて疑いもしなかったのです。



ワタシは通り掛かりに仁王君のクラスを覗きました。

しかしワタシの目には常と違う光景が飛び込んできたのです。

仁王君はクラスの女子達に囲まれていました。

そして常ならばあまり見せることのない顔で笑っていました。



勿論クラスメイトと話すことはワタシもありますし、それが異様なことだと言いたい訳ではありません。

ただ。

ワタシの心の中に拭い切れないほどの黒い塊が吹き出してきたのです。


ワタシはそんな自分に耐えられなくなり、足早に仁王君のクラスの前から立ち去りました。

仁王君が後ろから追いかけてくる気配がありましたが、

ワタシはそれを振り切るかのように歩き出したのです。









『別れてください』





そう切り出したのは、部活の後、部室にちょうど二人きりになったときでした。

着替え終わったワタシに、仁王君はいつものように帰ろうと手を伸ばしてきてくれました。

しかしワタシはその手を取ることなく、仁王君の瞳を真っ直ぐに見つめました。



そうして、一言。



それだけを告げて、雨の降り出した外へ一人駆け出したのです。

後ろは振り返りませんでした。

遠くの方でワタシの名を呼ぶ声がありましたが、振り返りませんでした。



ワタシはあの言葉を告げたときの、酷く傷ついた顔をした仁王君が、

心の底にこびりついて離れませんでした。



ワタシが仁王君に別れを切り出したのは突然の行動ではありましたが、

前々から考えていなかったことではありませんでした。

仁王君は酷く人に好かれる人間です。

自分が自覚していないだけで、好意を向けてくる人は沢山いるのです。

その中でワタシだけが彼のことを独占していいものなのかと疑問でした。

あんなに人に好かれる彼を自分だけが、

しかも男の自分が独占してよいものなのかと酷く疑問だったのです。



そして今日彼の姿を見たとき、ワタシの疑問は明確な答えとなって現れました。

女生徒と話している仁王君が、酷く自然に見えたのです。



嗚呼。



ワタシなんかが側にいない方が、彼の人生にとってはいいに違いないと。


そう確信したのです。



ワタシは雨の降る街を傘もささずに、闇雲に走っていました。

仁王君と別れるのだという事実に痛む胸を押さえながら、

けれど彼にとってはこれが最善のことなのだと、

泣きたくなるような悲しみを胸の中に押さえ込みました。

既に先ほどから零れ出している涙は、雨なのだと、

涙ではないなのだと言い聞かせるように雨の中を走りました。



傘もささずに学生が雨の中を必死に走っている図は、

周りの人にさぞかし奇妙な目で映ったことでしょう。

けれどワタシはそんなことにも気付かないくらいに、自分のことで一杯でした。



ワタシは気付けば知らない場所に来ていました。

見たこともない町並み、それに気付いたとき、ワタシは少し笑みを零しました。

ワタシを知っているものが何もないということに少し気が軽くなったのです。

微かに笑みを浮かべながらワタシは街中を歩きました。

もはやどこを歩いているのかすら分からず、次第に強くなる雨脚に負けて、

ワタシは足元がふらついてその場に倒れ込みました。


運悪くそこは水溜まりで、しかしワタシの制服はもう濡れていない箇所の方が少なかったので、

気にする気も起きませんでした。

ワタシは小さな海のような水溜まりに座り込んで、そのまま小さな笑みを零しました。

恋に破れた男にはちょうどよい末路ではないか、と。

じわりじわりと痛んでやまない心を押さえながら、これが自分が望んだ結末なのだと、

だからこんなみっともない姿を曝すのはこれで最後なのだと言い聞かせるように、

雨にも紛れることのない大粒の涙を流しました。

ここに彼への想いは全て捨てていく決心をして涙を流したのです。

知らない街の、小さな水溜りの中へ。

今までの仁王君への想いを全て、捨てていく決意で。



・・しかしそれから、幾時も経たないうちでした。

聞き慣れた足音がワタシにゆっくりと近づいてくることに気付いたのです。

ワタシがぼんやりと働かない頭で顔を上げるとそこには見慣れた顔がありました。



「・・仁王君」



呼び掛けてからワタシは、仁王君もずぶ濡れなことに気がつきました。

きっと部室からワタシを追って来てくれたのでしょう。

それに気付いてワタシは胸が引き裂かれるような思いに駆られました。

ワタシの目に映る仁王君の顔は無表情で何を考えているのか分かりませんでした。

けれど真っ直ぐにワタシの顔を見て、視線を逸らそうとはしませんでした。

そんな強い仁王君の視線に捕まえられるように、私も彼を真っ直ぐに見つめました。

すると驚いたことに仁王君は突然ワタシの目の前に座り込んで、手をついたのです。



「・・比呂士」



名を呼ばれてワタシは身動きができなくなりました。

愛する人に名前を呼ばれることがこんなにも効力を持つだなんて今まで知りませんでした。


ワタシの前に手をついた仁王君は、そのまま思い切り頭を下げました。

突然の出来事に、ワタシは初め、何が起こったのか理解することができませんでした。



「お願いじゃけん・・。

 俺と別れるなんて言わんでくれ・・。

 俺はお前がおらんと生きていかれん。

 お前の気に食わんところがあったなら直す・・

 じゃから・・」



もう、頭が水溜りの中につきそうになるくらい、頭を下げた仁王君に、ワタシはただ慌てました。



「・・!

 やめてください、仁王君!

 ワタシなんかのためにこんなこと・・!」



ワタシが必死に仁王君の顔を上げさせようとしましたが、仁王君は頭を上げようとはしませんでした。

ワタシの前でただひたすら手をついて、頭を下げ、搾り出すような声で言ったのです。



「俺は・・、

 お前がおらんと駄目なのじゃ・・。

 お前しか好いとらん。比呂くんのことしか好きになれんのじゃ・・。

 俺は比呂くんのことしか要らん。

 だから・・」




俺の側から離れんでくれ。





「・・仁王君・・!」



顔を上げない仁王君にどうしてよいのか分からず。

ワタシはただ、雨に濡れた冷たい腕で仁王君を抱き締めることしかできませんでした。


いつも飄々としている仁王君の、こんな姿を見るのは初めてでした。

けれど、ワタシはこの時に、自分がどれほど愚かな行為をしでかしたのか、

そしてこの人のことをどれだけ傷つけてしまったのかを知りました。


ワタシのこの冷たい腕の中で、少しでも傷ついた仁王君が癒されてくれればいいと、

そう願ったのです。










土砂降りの雨の中で、ずぶぬれの中学生が二人。

水溜りの中で抱き締めあっているということがどれだけ現実離れをしていたことか。



それに気が付いたのは、土砂降りの雨の中、

知らない街を二人で手を繋いで、

一緒に仁王君の家へ向かっていたときのことでした。


ワタシは恥ずかしさに顔を真っ赤にして、仁王君は少しだけ笑っていました。




それでも、繋いでいた手だけは、離すことがありませんでした。