春という文字がとても相応しくなってきた四月の初め。

今日は立海で練習試合が行われるために、休日なのですけれども学校へ来ています。

そして私は試合が始まる前に教室へ忘れ物を取りに行きました。

別に無くても困るようなものではないのですが、念には念を、と一人で誰もいない教室に入りました。

自分の机から忘れ物を取り出し、再び廊下へと出ました。


するとそこには驚いたことに、まるで絵本から抜け出たような男の子が立っていたのです。





+比呂士inWonderLand+





ワタシが驚いて彼を凝視していると、彼は大きな蜂蜜色の瞳でこちらを見ていました。

驚きよりも寧ろ不思議だというようにワタシを見上げます。



「・・あの、」



学校内で迷子、というのはおかしいのですが、ワタシは彼を迷子だと思ったのです。

休みの日、誰もいない校舎内を一人、他校の制服を着て歩いているのです。

もしかしたらテニス場を探しているうちに迷ったのかもしれない、そう思ってワタシは彼に声を掛けたのです。

ところが。

彼はワタシの問いかけには答えず、ワタシの腕を掴み、時計を凝視したのです。



「大変!遅刻しちゃう!跡部に怒られる!!」



突然発せられた彼の声にワタシは目を見張りました。



「ありがとね!ばいばい!」



そして彼は急ぐように、ワタシに手を振り、慌てて廊下を走り出しました。



「え、あ、あの!」



突然のことでまだ意識が追い付かず、彼の背中が10mほど離れたところで慌てて彼を追いかけました。



「待ってください!コートはそちらではありませんよ!」



そう告げたはいいのですが、彼は止まる気配を見せませんでした。

また迷子になっても可哀相だとワタシは彼のふわふわとした髪の毛を追いかけ始めました。

彼は廊下内を軽快に走っているのですが、ワタシは廊下は走ってはいけないという決まりを守り、

早歩きで追いかけているため、彼との距離は開いていくばかりです。

しかしワタシは彼の姿を見失わないように必死に追いかけました。

彼はぐんぐんとコートとは反対方向に走っていってしまいます。



「待ってください!」



再び呼び掛けても彼が止まる気配はありません。

ぐんぐんと開いていく差にどうしようかと思っていると、

金色の髪の毛が遠目で玄関から出ていくのが見えました。

幸運です。

外に出てしまえば思い切り走ることが出来るのですから。


玄関から飛び出したワタシは全速力で彼を追いかけ始めました。

しかし彼の足は速く、立海大附属中レギュラーの自分の速度でもなかなか距離は縮まりません。

彼はそのうちどんどんコートとは逆の方向へと走っていき、

そして遂に校舎の角を曲がり、姿が見えなくなりました。

ワタシも勿論その角を曲がったのですが、驚いたことに彼の姿はありませんでした。

ワタシは立ち止まり、呆然と辺りを見回しました。

この先は校舎裏の行き止まりで何処にも行くところなどありません。

昼間からワタシは夢を見ていたとでもいうのでしょうか。

いえ、彼は確かにワタシの目の前にいたのです。


不安になりながらもワタシはゆっくりと辺りを見回しました。

もしかしたら何処かに隠れてしまっているのかもしれません。

歩きながらワタシは一番奥にある木の側に行き、その裏側を覗きました。

すると、彼はそこに小さく膝を抱えながら眠っていたのです。



「あの・・、こんなところで眠っていたら風邪をひきますよ」



ワタシは心配になって声をかけるのですが、彼から聞こえてくるのは安らかな寝息だけです。

今度は彼の肩を叩いてみたのですが、全く反応はありません。

ワタシは困り果てました。

いくら親切心で追いかけてきたとはいえ、迷っている人をここで見捨てていく訳にもいきません。

ワタシはどうしようかと眠っている彼を見ました。



「・・起きてください」



少しだけ強く揺さぶりましたが、起きる気配はありません。

寝たふりをしているのでしょうか、とも思いました。

けれどしゃがんで顔を覗きこむと、すーすーと軽い寝息が聞こえてきたので、本当に眠っているのです。

ワタシはしゃがんだまま、これからどうしようかと考えました。


急がなくてはいけないことは分かっています。

しかし、こんなに気持ち良さそうに眠ってしまった彼を起こすことは何だか悪い事のような気がしてくるのです。


ワタシはすとん、と彼の隣に腰を下ろしました。

少しだけ待ってからもう一度起こそうと思ったのです。

少し仮眠を取れば、彼も起きるかもしれません。

そう思って、ワタシは彼の隣で待つことにしました。


ワタシは木に寄りかかりながら空を見上げます。

抜けるような青い空、穏やかに頬を撫でる風。

どれもこれもが気持ちよく、その中に体を委ねるようにしていると、不意に眠気が襲ってきました。

ここで眠ってはいけない、そう思いはするのですけれども。

隣で気持ち良さそうに眠っている彼と、眠りを誘う陽気につられて、

気がついた時には瞼を閉じてしまっていたのでした。










「・・くん。

 ・・・・比呂くん」





耳に馴染んだ声に、ふわりと意識が覚醒していきます。

ゆっくりと目を開くと、そこには心配そうな顔をした仁王君がいました。



「比呂くん、おらんと思ったらこんなとこにおったんか・・。

 探したじゃろうが」



「・・・!すみません!」



仁王君の言葉に、ワタシはうっかり眠ってしまっていたことに気がつきました。

心配をかけてしまった、ということに心を痛めながら、慌てて頭を下げれば、

仁王君は珍しくふわりと笑いました。

そうして優しく頭を撫でてくれます。



「ええよ、比呂くんが無事なら。

 ただ――」



そこで言葉を途切れさせた仁王君は、不意にワタシの耳の近くに唇を寄せました。



「俺の知らんところでいなくなったらいかんぜよ」



甘く囁かれた言葉にワタシは一瞬で顔を真っ赤にします。

それからここは屋外だということに気がついて、慌てて仁王君から体を離そうとしました。

けれど仁王君がそれを許してくれるはずもなく。

ワタシはその暖かな腕の中にすっぽりと抱き締められました。



「・・また俺の側からいなくなるけん?」



少しだけ淋しそうな声とともに、強く抱き締められました。

その言葉と腕に、思った以上に仁王君を心配させてしまったことに気がついて、

ワタシはすとんとその腕の中に落ち着きました。

すると仁王君は嬉しそうに表情を緩めたので、ワタシも思わずつられて笑顔を零しました。


そしてワタシははっと気づきました。

ワタシがこんなところで眠ってしまった理由です。



「そういえば・・ウサギさんは・・」



「ウサギ?」



仁王君は不思議そうに首を傾げました。

それも当たり前です。

仁王君は今までのいきさつを知らないのですから。



「ええ、そこにウサギさんが・・」



ワタシがひょいと振り返ると、そのウサギさんは誰かに抱き締められているようでした。



「ああ、ウサギってあいつか」



仁王君も納得したようで、一つ頷きました。



「そうです」



ワタシがずっとその姿を見ていると、突然ウサギさんを抱き締めていた人がウサギさんを担ぎ上げました。

突然のことでワタシは思わず呆気にとられてしまいます。



「こいつが迷惑をかけたな」



礼を言う。

不遜な態度でそう言われて、初めて目の前に立っている人間が誰であるかに気づきました。

もちろんその人を知らない人間など、この中学テニス界にはいないというほどの人物でした。

氷帝学園の跡部景吾。

うちの副部長の真田くんと互角に渡り合える力を持つほどの実力者です。

そんな彼が何故、ここに、と思っていると、ワタシを抱き締めていた仁王君がそっと耳元で囁いてくれました。



「あのウサギな、跡部の恋人じゃけん」



その言葉を理解するまでにたっぷり5秒はかかり。

理解をした途端にワタシは顔を真っ赤にしてしまいました。

そんな姿に跡部君は小さく笑ったようでした。

そして今度は仁王君に視線を移しました。



「お前も相方見つかってよかったじゃねーか」



「お互い様じゃ」



ふふん、と仁王君が不敵に笑います。

それから跡部君も僅かに口の端に笑みを浮かべて、あのふわふわな髪をしたウサギさんを抱え直しました。

驚いたことにまだウサギさんは眠ったままで、けれど安心しきった顔をして跡部君の腕の中にいるのです。

そんな光景を見て、ワタシは思わずふわりと笑顔を零しました。


跡部君はウサギさんを抱えて歩き始めました。

その後ろ姿を見ながら、そういえばとワタシは思います。



「・・そういえばあの方のお名前は何というのでしょう・・」



大事なことを聞き忘れた、と仁王君に向き直れば、仁王君は小さく笑いました。



「ウサギ、でいいんじゃけんのう?」



どうせすぐに試合なんじゃから、そんときまでの楽しみにしとったらええ。


そう言われてワタシは頷きました。



「ええ、その通りですね」







こうして、ワタシとウサギさんの不思議な追いかけっこは終わったのでした。