比呂くんは、笑ってるほうがええのう。 そう言った、彼の言葉を忘れられそうにもありませんでした。 +虹 この季節は空の色と共に、気分も少しだけ曇りがちになります。 毎日降り続く雨に、外でまともにボールを打つこともできません。 屋内でももちろん練習はできるのですが、 それでは得ることのできないテニスの楽しみというものが雨によって奪われるので、 じわりじわりと、フラストレーションが灰のように心に降り積もってくるのです。 今日は珍しく雨が降っていませんでした。 けれど晴れている、ということではなく、雨は降っていないという程度。 いつ振り出すか分からない天候に、必死で教室から空を見上げて、雨が降らないようにと祈っていました。 しかしその祈りも虚しく、昼過ぎまで泣き出さずにいた空は、ちょうど部活の始まる時間のすぐ前に、 今まで堪えていた涙を流し始めたのでした。 ワタシは空を見上げ、一つ溜息をつきます。 授業も終わり、これから部活なのですが、きっと伝令に使わされた下級生が、 すぐに部活の中止を伝えにくることでしょう。 いつになったら太陽の下でテニスができるのでしょうか。 雨は嫌いではないはずですのに、このままでは嫌いという部類に入ってしまうかもしれません。 ワタシはぼんやりと、窓の向こうに雨に濡れたテニスコートを眺めました。 「比呂くん・・どうしたん? 元気ないのう」 突然後ろから声が聞こえてきて、それと同時に後ろから伸びてきた腕に抱き締められました。 「元気もなくなります・・」 この天気では。 貴方と一緒にテニスもできないのですから。 そんな意味を込めて言葉を紡げば、ワタシを抱き締める仁王君の腕の力が強まりました。 「そうじゃのう・・こんなんじゃお前とテニスもできん」 「ええ・・」 「・・比呂くんは雨が嫌いか?」 耳元でそう囁かれて、ワタシは頷きます。 「・・嫌いになってしまいそうです」 雨に恨みはないのですけれども、ワタシの一番大切なテニスというものを奪うのでしたら、 やはりそれは憎いものでしかなくなってしまいます。 ワタシがじっと押し黙っていると、仁王君は突然ワタシの頭を撫でました。 「・・ほら、外見てみんしゃい」 促されて校庭を見ると、雨のやまないそこに飛び出していく人間たちの姿が見えて、 ワタシは思わず目を疑いました。 「あいつらもストレス溜まっとんじゃろ。 耐えられなくなって飛び出しとる」 校庭に飛び出していったのは、見知った人達で。 彼らは何日も降り続いた雨でぬかるんだ校庭で、雨が降っているにも関らず駆け回っています。 雨に濡れて、ときには転んで泥まみれになって。 一番好きなテニスを奪われているのは彼らも同じはずですのに、 それを思わせないほど彼らはとても楽しそうでした。 「・・比呂くん、行くぜよ!」 突然、ワタシは仁王君に腕を引っ張られました。 そうして、教室を飛び出て、玄関に向かって。 雨の中の校庭へ飛び出したのでした。 「おーい、仁王!柳生!」 丸井君が向こうから大きな声でワタシたちを呼びながら手を振ります。 するとその丸井君に赤也が走りよっていきます。 赤也が近寄っていくと、丸井君は捕まらないように逃げていきます。 どうやら、鬼ごっこをしているようです。 「来たね。今赤也が鬼なんだけど、必死になってるからそろそろ本気でくるかもよ?」 私たちの側に寄ってきた幸村君が親切にもそう教えてくれました。 「そうですね、負けず嫌いですから・・」 赤也は丸井君が捕まらないと思うと、くるりと方向を変えて、ワタシたちの方へ走ってきます。 「じゃあね、頑張って逃げなよ?」 幸村君は楽しそうに言いながら、手を振ってワタシたちとは反対の方向へと逃げていきました。 「そんじゃ、俺たちも逃げるかのう」 仁王君はワタシの手を離さずに、赤也から逃げ始めました。 赤也は幸村君の方ではなく、こちらに走ってきます。 どうやら目標をワタシたちに定めたようです。 「俺たちに挑戦するなんぞ100年早いわ!」 仁王君がワタシの腕を引っ張りながら、赤也から逃げ回ります。 もちろんワタシたちは立海のレギュラーメンバーなのですから、そう簡単に赤也に捕まったりはしません。 先輩のメンツにかけて、です。 負けん気の強い赤也は必死でワタシたちを追いかけようとします。 ワタシたちも必死で逃げ回ります。 しかし流石に息が切れてきて、辛くなってきます。 僅かにぬかるみに足を取られて転びそうになったワタシを、仁王君が慌てて抱きとめてくれました。 「大丈夫か、比呂くん?」 「ええ・・大丈夫です」 ワタシは大丈夫だったのですが、赤也がぐんぐんとこちらに近づいてきます。 もう捕まってしまうのは時間の問題、と思ったときでした。 「比呂くん、もう少しだけ走れる?」 「・・ええ」 頷くと同時に、仁王君とワタシは再び走り始めました。 目標は・・少しだけ気を抜いていたジャッカル君の方でした。 ジャッカル君は近づいてくるワタシたちに驚いたようでしたが、 仁王君の目論見を知ると、笑って手を挙げました。 そうしてワタシたちがジャッカル君の横を通りすぎるときに、 仁王君とジャッカル君がぱぁんと手を合わせました。 赤也今度のターゲットはジャッカル君へと移りました。 しかしジャッカル君はうちの部で一番の持久力を持つ人です。 今までずっと走り続けていた赤也とジャッカル君では分が悪すぎます。 遊んであげている、という風のジャッカル君に、ワタシは思わず笑みが零れました。 「・・流石に・・疲れたのう」 「・・そうですね」 ちょっと本気になって走りすぎたようです。 先輩の意地、というのもありますが、本気で赤也の力に気圧されそうになったのも事実です。 あそこまで走っていて集中力が途切れない将来の立海のエースを、 頼もしいと思ったことはまだ内緒にしておきましょうか。 「比呂くん、どうじゃ? 雨はまだ嫌いか?」 仁王君の突然の問いかけに、ワタシは目を瞠ります。 そういえば、雨が降っているのも、制服が泥まみれになっているのも、 いつの間にかすっかり忘れていました。 「・・そうですね、前ほどは嫌いじゃなくなったかもしれません」 雨の雫で曇ってしまった眼鏡を拭きながら笑顔で答えると、仁王君も小さく笑いました。 「ああ、やっぱり、比呂くんは、笑ってるほうがええのう」 そのまま校庭の真ん中で仁王君に抱きしめられました。 仁王君は私を元気付けようとしてくれていたようです。 それに気がついたワタシは、仁王君を引き剥がすこともできずに、 仁王君の背中にそっと腕を回しました。 それから少しの沈黙の後、ワタシは口を開きました。 「・・これ、どうしましょうかね?」 遊んでいるうちはよかったものの、こんなにびしょぬれでは家に帰ることはできません。 制服も、靴もどろどろで、もしこのまま家へ帰ったとしても親に卒倒されてしまいそうです。 「その辺は大丈夫じゃろ。 『お母さん』が何とかしてくれるはずじゃけん」 仁王君がそう言った数秒後。 今まで走り回っていた赤也とジャッカル君が急に止まったと思った途端に、 校庭に怒号が響き渡りました。 「お前達、やめんか!!」 そう叫んだのは、真田君でした。 あまりの声の大きさに、ワタシは思わず耳を塞ぎます。 「まぁまぁ、弦一郎。説教は後だ。 こいつらが風邪をひいたら元も子もないだろう?」 その後ろで真田君を宥めていたのは、柳君でした。 「・・うむ」 「ということだ。説教は後で。 皆は・・」 そこで柳君はちらりと真田君を見ました。 すると真田君は諦めたように深い溜息をついたのです。 「お前ら全員うちに来い」 「やったー!」 騒いだのは赤也で、丸井君も幸村君も、お互いにラッキーだと言っていました。 真田君の家は道場をやっていて、お弟子さんがたくさん入れるようにと大きなお風呂があるのです。 そして真田君の家は立海から徒歩で行ける距離にあります。 絶好の雨宿りポイントなのです。 「皆制服は部室で脱いでジャージに着替えておいてくれ。 俺がクリーニングに出しにいくから」 「有難うございます、柳さん!」 赤也の言葉に、柳君が小さく頷きます。 なるほど、『お母さん』とはこのことだったのですねと今更ながらに納得をしてしまいました。 そうしてみんなでぞろぞろと、言われた通りに部室に向かっていると、 突然、丸井君が空を指差して叫びました。 「あ、虹!」 「え?どれどれ?」 幸村君もつられて見上げ、ワタシも思わず顔を上げました。 するとそこには、空に虹がかかっていたのです。 「明日はテニス、できそうじゃな」 「ええ・・」 答えて笑顔を零せば、同じく嬉しそうな顔をした仁王君の顔がありました。 やっぱり仁王君もテニスがしたくてしょうがなかったに違いありません。 きっと明日からまたテニス漬けの毎日が始まります。 だからこそ、雨に、少しばかりの休息をくれて有難う、と。 心の中でそう思ったのです。 |