ワタシの人生の中で今まで一度も見たことのない感情が心の中に根付いて。

息を潜めるかの
く、静かに、じわりじわりと育っていることに、

その時のワタシは気づく術もありませんでした。





+砂漠の花





ワタシはクラスの中で、自然と仁王君の側にいることが多くなっていきました。

きっかけはごく自然なことでした。

朝、登校をしてきた仁王君に、他のクラスメイトに対するのと同じように、おはようと告げたのです。

すると仁王君は少しだけ驚いた顔をして、けれどすぐに小さく笑って、おはようと返してくれたのです。

それからでした。

ワタシと仁王君の間にあったように感じた、透明の薄い壁のようなものが取り除かれたような気がしました。

傍から見たら、性格の違う二人が何故一緒にいるのか不思議に見えたようでしたが、

ワタシには仁王君と一緒にいることが酷く自然な成り行きであるように感じました。

他のクラスメイトと一緒にいるのと、仁王君と一緒にいるのとでは空気がまるで違ったのです。

もちろんワタシには性格も似たような、共通の趣味を持つ友人もいました。

けれども彼らと時間を過ごすより、何故だか性格も趣味も違う仁王君の側にいる方が好きでした。

例え何も会話がなくとも、気詰まりすることのない雰囲気が好きでした。

どうして彼と一緒にいるときにだけこんな感情を覚えるのかは分かりませんでしたが、

同じ時間を過ごすことに安堵を覚えているのはワタシだけではないのは確かでした。


仁王君は男子からも女子からも人気でした。

ワタシなどには見向きもしないだろう人々が、仁王君の周りには近寄ってきます。

もちろんワタシと仁王君が二人でいるときにもそういう人々は仁王君のところへやってきて、

適当に話し掛けては去っていきます。

もちろん仁王君もその時には話し掛けてきたクラスメイトの相手をします。

その時に少しだけワタシは放っておかれることになるのですが、

けれど気まずいと感じたことはほとんどありませんでした。

気づけば仁王君はいつでもワタシを会話の仲間に入れようとしてくれていました。

他の友人と話しながら、適当に相槌をワタシに求めます。

優しい視線をワタシに向けて、目で会話を促してくれます。

その瞳が大丈夫だと、と言ってくれているようでワタシはとても安心しました。

ほっと息を撫で下ろすワタシを見ると、仁王君は安心したように小さく笑みを浮かべてくれます。

そんな仁王君を見て、いつもワタシは、彼が人に愛される理由を知るのでした。




そんな日々が続いたある日のことでした。

次の時間は音楽で、特別教室のある棟へ移動しなくてはなりませんでした。

ワタシはいつも仁王君と教室移動をするのですが、どうしたことか仁王君の姿が教室の中にありませんでした。

どうしたことか、と思い悩んでいるうちに、教室からは段々と人が減っていきました。

音楽の教師は校内でも有名なしっかりとした教師で、

少しでも授業に遅刻しようものならば長いお説教が待っているのです。

教室に戻ってくることのない仁王君に、ワタシは迷いました。

もしかしたら他の生徒に誘われて先に行ってしまったのかもしれません。

仁王君はもてますから、もしかしたらいつものように休み時間に女生徒に呼び出されて、

それからそのまま音楽教室へ向かったのかもしれません。


けれど、ワタシはそのまま教室に残りました。

他の友人の誘いを断り、段々と人が減っていく教室でじっと仁王君の帰りを待ちました。

椅子に座り、じっと仁王君の帰りを待っていたのです。

何故そんな確信があったのかは分かりませんでしたが、

どうしても仁王君がワタシを置いて先に行ってしまうなどということが考えられませんでした。



しかしとうとうワタシは教室に一人取り残されてしまいました。

がらりと空いた教室。

ただ真っ白いカーテンだけがふわりふわりとワタシを嘲笑うかのように揺れていました。

やはり、仁王君は何か用事があり、先に行ってしまったのでしょうか。

ワタシの心を占めていた、何処から沸いて出てきたのか分からない確信は時間とともに薄れていきます。

その確信は、本当に一体何処から来たものなのでしょう。

確かに仁王君は、世間では『詐欺師』などというあだ名で呼ばれています。

けれどワタシに対して仁王君が不誠実であったことなど今までありませんでした。

もちろん、出会ってからそれほど経っていないので、

たまたま彼の詐欺師的な一面を見ていないだけなのかもしれませんが、

ワタシに対する全ての態度が演技だったとは到底思えないのです。



けれど、仁王君が教室に帰ってくる気配はありませんでした。

時計の針は、授業開始まであと一分を指し示すところでした。

これでは本当に、音楽教師に怒鳴られることになってしまいます。

ワタシは一つ溜息をつき、そして誰もいない教室を出ようと椅子から立ち上がりました。


その時です。


がらり、と教室の後ろのドアが開く音がしたので、ワタシが後ろを向くと、

驚いたことに酷く息を切らした仁王君がそこに立っていたのです。



「・・すまん

 遅うなった・・」



激しい息の切れ方に、授業に遅刻してしまうと怒るよりも先に、仁王君のことが心配でたまらなくなりました。



「どうかしたんですか・・?」



恐る恐る仁王君に近づくと、仁王君は顔をあげて口の端で笑いました。



「・・心配せんでもええ。

 俺が悪いんじゃから」



そう言われても何があったのかと心配しない訳にもいかず、

じっと仁王君に物言いたげな視線を送れば、彼は何故か真剣な目をしてワタシを見つめたのです。



「・・すまん」



告げられたのは再び謝罪の言葉で、ワタシは酷く困惑しました。



「ほんとはのう、音楽なんてかったるいけん、サボろうと思ったんじゃ」



仁王君は息を切らしたまま自分の席へ行き、音楽の教科書を手にし、

それから再びワタシの目の前へ戻ってきました。



「けどな、屋上におったらお前が一人、教室に残ってんのが見えたんでのう・・。

 お前、いつまで経っても移動しようとせんから、こりゃああかんと思って急いで戻ってきたんじゃ」



ということは、さっきまでの行動全て、仁王君に見られていたということなのでしょうか。

友人の誘いを断って、誰もいない教室で一人。

時計を見ながら仁王君を待つワタシの姿を。


そう思うとワタシは思わず恥ずかしくなり、俯いてしまいました。



「今度時間までに俺がこんかったら、先行き?」



そう、笑みと共に告げられて、ワタシはただ頷くことしかできませんでした。

返事に満足したのか、仁王君は小さく笑って、それからぎゅっとワタシの手を握りました。

その行動の意味が分からず顔を上げると、手を握ったまま仁王君はワタシを教室の外へと連れ出しました。

そうしてチャイムが鳴り始めた廊下を、二人で全力疾走で走り始めたのです。



「あかん、間に合わんかもしれんな!」



そういう仁王君の背中を見ながら、ワタシは彼に連れられるように走りました。

何処からか教師の注意する声が聞こえましたが、ワタシたちはそれで立ち止まるようなことはしませんでした。

普段ならば絶対にこんなことはしないのですけれども。



仁王君の、触れる手が温かく、ワタシは何故だか手放したくないと強く思ったのです。

本当に、何処から溢れてくるか分からないこの感情の名を。

ワタシはまだ理解することができませんでした。






結局、その後音楽の授業には遅刻をし、教師に怒られたのですが、

何故だか二人で、楽しい、とさえ思ってしまったのです。

怒られた後、二人で顔を見合わせて笑いました。



とても、とても、幸せな時間でした。











この授業以降、仁王君は授業に出ないということはありませんでした。

先に行け、と言われたのですけれども、その後にワタシが一人で教室移動をした日は一回もなかったのです。