貴方だけを、愛しています。



 運命、なんて信じてはいないけれども。

  貴方に会った時に、永遠を感じました。

   遠い、遠い、今まで見えなかったような未来が。


貴方に会ったことで、光にも似た永遠が、私の中に。







+恋の匂い





放課後の、そろそろ夕暮れも迫ってくるかという時、佐藤はまだ学校の中にいた。

今日は幸運なことに部活もなく、さっさと家に帰ろうとしていた。

しかしその矢先。

突然音楽教師に呼び出されたのだった。


理由は別段大したものでもなく。

この前受け損ねた歌のテストというものをするために、教師に捕まえられたのだ。

佐藤がテストを受けなかったのはもちろん、身体的な理由でも何でもない。

ただ、歌いたくなかっただけなのだ。

歌が嫌いなわけでも、人より歌唱力が劣るという訳でもない。


だけれども、課題曲として出された歌は、歌えないと思った。


課題曲で出された歌は、この歌を作った作曲家が、愛する人にその思いを綴った歌だった。

中学生に何という歌を歌わせるのだろうかとは思ったが、

佐藤以外の生徒たちにはとても人気の歌であるらしく、

生徒たちは皆、その美しいメロディと情熱的な詩に感動するものが多かった。

しかし佐藤はこれを素直に歌い上げることなどできなかった。


この歌の詩が、重すぎた。

歌の中に読まれている詩と自身の感情がシンクロしすぎてしまって、

これを歌ってしまったときに、自分はどうなるのだろうかと。

そう、思うと人前で歌うことなど到底できなかった。


怖い、と思ったわけではない。

ただ自分でも分からないこの気持ちから逃げたかっただけだと分かっている。

だからといって素直に歌うことができるほど、この詩と同調する感情が軽い訳ではないから、


この歌は自分には重すぎて歌えない、と思った。



しかし歌のテストから逃げようと、さっさと帰宅をしようとしていたところに運悪く教師が登場し、

そのまま音楽室へと連行、という事態になってしまった。

逃げようにも二人っきりの教室から逃げられるわけもない。

それに今逃げようとも教師はどんな手を使ってでも佐藤に試験を受けさせようとするだろう。

もう、諦めるほかにない、と佐藤は僅かに溜息をついた。



「佐藤くん、次こそ歌うわよ!」



音楽教師はもう何度目かしれない、課題曲の伴奏を弾き始める。

けれども佐藤が声を発しないから、その伴奏の全てが無駄になっていた。

今回こそは、と佐藤も諦めない教師を目の前にして思うのだが、

声を出そうとするところでいつも躊躇う。


ほんの少しの勇気が、出ないのだ。



そして今回も、空しく音楽室に伴奏だけが流れた。

教師は僅かに悲しそうな顔をして、けれども教師特有の根気強い笑みを浮かべた。



「佐藤くん、どんなに下手でもいいの。

 この音楽室の中には私と佐藤くんしかいないんだから。

 思いっきり歌ってごらんなさい」



違う。

問題としているのはそんなことではなく。

この歌の内容が、酷く佐藤の気に障るのだ。

自意識過剰。

そう片付けてしまってもいい。

だけれども、そう簡単に認められるほど佐藤も強い人間ではなかった。


そんな佐藤を教師はじっと見詰めていた。

その視線に気づいて視線を返せば、その音楽教師は僅かに笑みを零した。

伴奏を止めた手はピアノの上に柔らかく置かれている。

空はオレンジ色を濃くし、そろそろ夕闇も近づいてこようという時間。

けれども音楽教師は責める訳でもなく、ただ穏やかに佐藤を眺めていた。



「・・・佐藤くん、好きな子がいるんでしょ?」



突然。

図星を指された言葉に、佐藤は僅かに息を呑む。

そんなに分かりやすい態度をしていたのだろうか、自分は。

確かにこの歌に対する戸惑いを隠しきれているとは思わなかったけれども、

それでもこの歌を歌うことができない理由が、歌うことによって思い出される誰かの存在のせいだと、

教師に気づかせてしまったのは自分の失態以外の何物でもない、と、

佐藤は僅かに視線を伏せて表情を曇らせる。


「あら、当たっちゃった?

 あまりにも苦しそうだったから、そうなのかなって思って」


彼女は伴奏を弾く手を休め、膝の上に軽く手を置いた。

その仕草は女性特有の、しかし酷く柔らかな仕草で、

音楽を知っている人だからこそ奏でられる動きなのではないかと思わされる。

その流れるような動きに似た柔らかい声で教師は告げる。


「この歌を歌うコツを教えてあげる」


教師は慈しむように目を閉じて、歌に体を預けるかのような穏やかな表情を浮かべた。

これから彼女の口からどんな言葉が出るのか、ただ気になった。

新しい答えが出てくるような気がして、彼女の言葉に惹きつけられる。


「心を曝け出すことが、想いを告げることが恥ずかしい、とかそういう感情じゃなくって」


教師は僅かに浮かべていた笑みを僅かに幸せの表情に変え、

いくつも年の離れた、未だ子供から抜け出せない年令にいる佐藤に、

彼女なりの歌の解釈を。

子供だからと突き放すのではなく、対等の人間として扱うように、教師は佐藤に教えてくれた。





「ただ素直に。

 『貴方だけを心から愛してる』って歌えばいいの」





『貴方だけを心から愛してる』





そんな言葉に僅かに眩暈がした。

純粋に、ただ心が歌うがままに。

歌えばいいのだと教師は言った。


そう、確かに。

素直にそう歌ってしまえばいいのだ。


心が歌うままに。

素直に、欲求のままに。

例え脳が認識していなくとも、感情は自分のそれを知っている。

愛だとか、大切だとか、永遠だとか。

抽象的な概念すぎて理解できてはいない全ての想いは、

考えることを逸脱した場所に存在している。



「さっきも言ったけど、ここには私と佐藤くんの二人だけ。

 貴方の愛する人には聞かれないんだから、歌ってごらんなさい」


さぁ、行くわよ。


心の準備もできぬままに、教師は再び伴奏を弾き始める。

佐藤は慌てたけれども、教師の先ほどの言葉が頭をよぎり、一つ深呼吸をして心を決めた。



『貴方だけを心から愛してる』



そう、歌ってみようと。

心が歌うままに。






――気づけばいつしか教師の伴奏は終わっていた。


「上手いじゃない、佐藤くん!

 これでやっと点数がつけられるわ」


なんて教師が酷く嬉しそうに微笑むので、佐藤もやっと内心で安堵の溜息を漏らす。


「おおきに」


僅かに呆然とした気持ちのまま、彼女に笑みを返した。


「じゃあ、これで終わり。

 私は職員室に戻るわね」


そういうと、彼女は楽譜を揃え始めた。

佐藤も帰ろうかと、椅子に置いてあった鞄を手にしたとき、教師は突然思いもよらぬことを告げた。



「他のクラスにね、貴方と同じくらい綺麗にこの歌を歌ってみせた子がいたわ」



彼女は酷く楽しそうにそう告げる。

佐藤は何気なく、その言葉に聞き入った。



「その子、さっきから教室の外で君のことを待ってるみたいだけど・・」



どこか含みのある、何かを察したらしい聡い教師の言葉に、佐藤は全ての思考能力を停止させた。

自分をこんな時間まで待っている人間。


――それは・・。


教師はじゃあね、と言ってガラリとドアを開けた。

そして入れ替わりに教室に入ってきた、見慣れた三白眼の男。



「おま・・!!何で・・!」



顔中に熱が上がってくるのを感じる。

聞かれたのか、と。

あの歌を聴かれたのかと思うと、もうあまりにも恥ずかしくてこの場にいられないような気さえした。

逃げ出したい衝動を覚えたけれども、ドアの前には不破が立っている。

音楽室は三階で窓からは逃げられない。

恥ずかしさは頂点を極め、佐藤は赤い顔を隠すように俯いた。 


「佐藤が歌のテストを受けているとクラスメイトから聞いたから待っていた」


不破の。

硬質感のある、だけれども耳に心地よい声が聞こえる。

そうして、不破は佐藤に手を伸ばした。

もう佐藤には動く気力も言い返すような気力もなかった。

自分よりも一回り大きな不破の腕の中に抱き込まれるのに、抵抗一つしなかった。

あの教師に。

騙された、とは思わないけれども、謀られたような気分が拭えないのは、

教師があまりにも純粋に、そして真剣に自分に愛の歌を教えてくれたからだ。

上手である、と評価された自分の歌は、愛するこの人間にどのように聞こえたのだろうか。

抱き締められた腕の中で、佐藤は僅かに目を伏せる。

咎めるように制服の裾を僅かに掴むと、不破は更に強く佐藤を抱き締めた。


そうして。

耳元でこんな言葉を囁かれる。



『お前だけを心から愛してる』



どうやら。

告げるのに少しだけ勇気が足りなかった自分の思いは、しっかりと不破に受け止められていたようだ。



「・・おおきに」





聞こえるか、聞こえないかの声でそう告げると、不破が僅かに笑う気配がした。