+コトノハ





遠くで水野が休憩を伝える声をあげる。

それとともに部員たちは疲れた疲れたと口々にいいながら、水分補給へと向かっていった。

しかし。

自分だけは何処へも向かおうとはせず。

ただ、この部に入ってから守り続けている桜上水のゴールの前で

ずっと立ち尽くしていた。


はて、と。

言葉とは何とも便利で、そして何とも厄介なものであるのだろうと。

確かに使ってしまえば便利なものであるのだろうけれども、

肝心の言葉が口から出てこなければ何の役にもたちはしない。

時と場所と場合に合わせた言葉を考え、それを発す。

しかしどんなに真剣に考えたとしても、それに適合する言葉がなければ発しようがない。

何とも、厄介な人間の能力だ。


じりじりと、フライパンで目玉焼きが焼けそうなほど暑い太陽の日差しが降り注ぐ。

この太陽の日差しから、

何分で玉子が焼き上がるかどうかなどと無用な計算までしてしまっているとき、

夏の太陽に似た、息を飲まんばかりに美しい金色が、目の前に現れる。

突然のことに驚きつつ目を瞠っていると、ひょこっと下から楽しそうに笑った佐藤が顔を出す。


「もう休憩やさかい。何しとんねん?」


そう佐藤が口にするたびに柔らかそうな金色が揺れる。

思わずそれに目を奪われながら、

いつもよりも随分とぼんやりした頭で佐藤の問いに対する答えを探していた。


ーー答えを、探す。


やはり。

自分の意思のまま思い通りに言葉は出ず。

人は何と厄介な能力を持っているのだろうと思わずにはいられない。

上手い言葉が見つからず、宙を見上げひたすらに適合する言葉を探していると、

焦れたのだろう佐藤に軽く額を小突かれた。


「お前ほんまに何考えてんのや?しゃべるくらいできへんの?」


呆れたように不破を見る佐藤に、今まで考えて、考え抜いた末に見つけた言葉を口にした。


「・・分からない」


「はぁ?」


不破の言葉を大層訝しげに思ったのだろう佐藤は、

不破の額と佐藤の額に交互に手を当ててしきりに首を傾げた。


「うーん。

熱はないみたいなんやけどな・・。

まあ不破がおかしいなんていつものことなんやろうけど・・」


佐藤はまた2回ほど、首を傾げてみせた。


「だから、一体どんな言葉を言ってよいのか分からないと言っている」


そう言うと。

佐藤はぱちくりぱちくり二回ほどまばたきをした。


「面白いこと言うんやな」


驚いたように見開かれる瞳。

いつもは不敵な色を浮かべているそれが無防備に曝されている姿は随分と綺麗だ。


「面白いことなのかどうかは分からない。ただ今言うべき言葉が見つからない」


素直にそう言うと、佐藤が目の前にびしっと一本、人差し指をたてた。

あまりにも目の前に佐藤の指があるものだから、不破は反射的にその指を追ってしまう。


「不〜破」


珍しく、自分の名を呼ぶ佐藤の声。

滅多に聞くことのないそれは、脳髄に甘く触れる。


「言葉なんて案外あてにならへんもんなんやで?」


思いがけない言葉に、

不破は目の前に突き立てられている指の向こうに見える佐藤の顔を見つめた。


「何故だ?」


当然のように言い切る佐藤にその理由を尋ねてみることにした。

どんなことでも理由をつけたがるのは不破の性格上に過ぎないとは知っているが、

さっきから悩んでいるこの問題に際しては、

ただ「言葉はあてにならない」という答えだけでは満足しきれない気がしたのだ。


「不粋やなあ・・」


くすりと不破を見て笑ってみせて、そうして佐藤には珍しく、不破のように解説を始めた。


「言葉、なんて自分の心を表すためのもんやろ?

感情にはやたらたくさんの、しかも厄介にも複雑な思いがある。

それに対応するだけの単語数は言葉にはない。

そうやろ?」


佐藤の問い掛けに、不破は一つ頷いた。

「言葉で感情の全てを表しきることなんてできへんのや。

例え全ての感情を言葉で表せたとしてもや、

相手と自分が持っている言葉の意味が違っとったらそんなの全く意味はなくなる」


不破の目の前にビシリと立てた人差し指で、佐藤は軽く不破の額を小突いた。


「要は言葉なんぞに躍らされるんやのうて、自分の思うままに言えばいいんや。

いいたくないんやったら何も言わなければええ。

言葉なんて結局、相手とコミュニケーションが取れてると錯覚する自己満足の産物なんやから」


珍しく不破に雄弁に語る佐藤をみながら、不破は一つ頷いた


「・・そうかもしれんな」


言うと佐藤は口の端を少し上げて、「そうやろ?」と笑った。


「・・今日は随分と語るのだな」


「お前よりちょーっと長く生きてるさかい、人生の教訓ってとこやな」


そう言って笑う佐藤は何故だか少し淋しそうに見えた。


「・・佐藤」


呼び掛けて、何か過去にあったのかと問おうと試みたのだが、

それは佐藤の声に遮られ、それ以上は問えなかった。


「話がついたならいつまでもこんなとこぼさっと突っ立ってないではよ休憩し?」


「ああ・・」

半ば強引に佐藤に引きずられ始めた不破だったのだが、

佐藤が不意に気がついたようにこちらを向いた。

僅かに見開かれた瞳は、太陽の光を含み、ほんのりと潤んでいる。

不破は僅かに息を飲む。


「なあ、結局、あんな校庭の真ん中に突っ立って悩むほど言いたかった言葉って何やったの?」


佐藤に問われて、不破はああ、と一つ頷いた。


いまなら説明できるであろう。

人間の感情の中では飛び抜けて純粋な、けれども複雑で繊細な思いだ。

言葉を自由に紡いでよいのならば、本当に思いのままに告げてみようか。


不破は視線を僅か下、佐藤のところまで落とした。


「好きだ」


告げると佐藤は片眉を上げ、驚いたような顔をしてみせた。


「・・はぃ?」


間の抜けたような返事。

どうやら佐藤には言葉の意味がわからないようだ。

やはり言葉は厄介であると、記憶にしっかりと刻んでおこう。


「だから、愛していると言っている」


言葉を伝えて数秒。

佐藤からは何の反応もない。

また分からなかったのであろうかと、次に伝えるべき言葉を頭に浮かべ、

言う順序を考察している際に、ついに佐藤からの反応があった。


「・・お前・・ずっとそんなこと考えてたん?」


言った佐藤の声は僅かに震え、下を向き、不破の方を見ようとしなかった。

しかし不破は佐藤の問いに答えるべく、言葉を続けた。


「ああそうだ。

自分の中の、お前を愛しているという感情をどんな言葉で伝えたらよいのかと、

そればかり考えていた。

お前への感情は、『好きだ』だけでは足りない。

だから、どんな言葉で伝えればいいのかずっと考えていた。

しかし、やはりそれに見合うだけの言葉はない。

だからお前の言うように、思うままに言ってみたつもりだが・・」


そこまで言うと。

今まで下を向いていた佐藤が、突然、両手で不破の口を押さえた。

言葉を紡ぎ出せなくなった不破が、そんな佐藤の顔を見つめる。

すると、珍しく、佐藤の顔は赤くなっていた。

頬を僅かに赤くした佐藤は、それでも不破の目を覗き込んだ。


「お前・・恥ずかしいっちゅーねん・・」


思うままに言えと言ったのはお前だろう、と。

反論を試みようと思ったのだが、口を塞がれていては何も言えず。

とりあえず自由になる視線だけで不満を訴えた。

そんな視線を受け止めた佐藤が。

視線を僅かに逸らし、そうして再び不破に合わせて、

今まで不破の口を押さえていた両手をそっと離した。


「・・あんな、不破」


まだ赤い顔をした佐藤は、けれども太陽のように明るい笑顔を浮かべた。


「自分の感情を表現する手段なんて、言葉だけやないんやで?」


初めは、その言葉の意を理解することができなかった。

けれど、目の前で綺麗に笑う佐藤の姿を見て、その全てを理解した。


なるほど。

言葉だけでは伝えきれない感情は、他の手段で伝えることができるのか。


思いのまま、自然に動く腕と、指。

気づくとグラウンドの真ん中で佐藤を抱き締めていた。

非難の言葉が不破に向けられると思ったのだが、それはなく。

ただ佐藤は不破の腕の中で身動きすらしなかった。

頬に触れ、柔らかいその肌をなぞる。

目を閉じた佐藤の、穏やかなけれど上気した顔を見て、不破は静かに口づけた。


太陽の下、佐藤の唇は酷く心地よかった。






遠くから、桜上水メンバーの、冷やかすような声と。

水野の怒声が聞こえてきたのは言うまでもないことであった。