今日も子供たちは庭で元気よく遊んでいる。

しかし、さくら組担当不破大地の心は上の空。

雲一つない青い空を見上げながら、一つ溜息をついた。

昨日から、あの綺麗な人のことが忘れられない。

視界を染める甘い金の色が、ふわりと不破の心を擽る。

忘れようと努めても、気を抜くとすぐに浮かんでくる彼の笑顔が、不破の心を捕らえて離さない。

一体自分はどうしてしまったのだろうと、空の向こうにいるはずの神様に問い掛ける。

しかし神様に問い掛けるつもりで空を見上げていたはずであるのに、

いつしか心の中に浮かんでいたのは佐藤成樹と名乗った彼の顔で。

ああ、重症だと。

不破は重いけれどどこか甘さのある溜息を一つついた。





+愛情、黒須幼稚園・2+





「不〜破!何溜息なんかついてるんだよ?」


突然背を叩かれ、不破は宙に向いていた意識を慌てて隣に来た人物に向ける。


「椎名か・・」


隣に来たのは、ゆり組担任の椎名翼であった。

彼は園の中で、子供からも親たちからも人気が高い。

その愛らしいルックスとそれにそぐわないはっきりとした性格が

人の心を掴んで離さないらしい。

不破はそんな椎名を一瞥すると、再びぼんやりと空を見上げた。


それに驚いたのは椎名の方で。

いつもは無口な不破の、上の空になるほど深く考え事をしている姿を見たことがなかったのだ。

そんな不破の常ならぬ態度に、椎名は不安になって顔を覗き込む。


「お前・・本当にどうしたんだ!?」


しかし椎名が問うても不破はしっかりとした反応を返さない。

まるで椎名の声が不破に届いていないかのようだ。


「おい!?」



もう一度、心配になって声をかける。

これ以上様子がおかしいようならば、保健医の水野のところへぶちこんでやろうと心に決めて。




「ふ・・」

「忘れられない人間がいるんだ」




不破の言葉に、あまりにも反応がないために殴ろうかとしていた腕を空中で止める。




「・・は?」




目を数回瞬かせては不破を見る。

不破の口から出る言葉にしては随分と人間味のあるものではなかっただろうか。

余りにも普段の不破とは違う言葉に、不謹慎にもそう思ってしまう。



「昨日、出会った人間がいるのだ。

 とても綺麗な人間で、昨日からそいつの顔が頭の中から離れない。

 こんな事態は初めてで、上手く対処することができないんだ・・。

 一体どうすればいい?」



不破の言葉に、椎名はただ開いた口を塞ぐこともできずに不破を見た。

出会ってからこの方、この男が自分の心情を語ったことがあっただろうか。


驚いている椎名をよそに、不破は再び空を見上げはじめる。

どうやら重症のようだと、椎名は一つ溜息をつく。



「お前な〜。それは恋ってもんだろ」



椎名は呆れながら、不破を横目で見遣る。



「気になって忘れられませんだなんて、恋の常套文句じゃないかよ」



椎名の言葉に驚いたのはどうやら不破の方のようで。

目を見開いて椎名を見る不破に、こいつを育てた親の顔が見てみたいと心底思った。




「恋・・だと?」




「そうだ。こ・い!」




まだ信じきってはいない様子の不破に椎名は大声でそう言ってやる。

まるで子供に諭しているようだと椎名は思う。




「お前はそいつのことが好きで好きで仕方がないんだ。

だから忘れられないし、こうやって仕事に支障が出るほどなんだろ?」




まるで一言も逃しはしないという風に不破は真っ直ぐに椎名を見つめている。

そんな不破の目の前に人差し指を立ててみれば、不破の視線も指へと動く。



「だからそれを解決する方法は簡単。

 今度会ったときに、食事にでも誘え。

 デートだ。

 それで好反応だったら、あなたのことが好きですっていうんだぞ」




いつから自分は不破の恋愛指南役になったのだとは思ったが、

不破が真剣なのは手に取るように分かったから、今回は愚痴を零すことは止めてみた。




「そうか・・分かった」




真剣に頷く不破を見て、椎名は園でも大人気の明るい笑顔を零したのだ。









今日も黒須幼稚園は日課を終え、帰りの時間となる。

支度を終え、帰る時間となった子供たちを、不破は今日も見送った。

大半の子供たちが帰り終えたところで、不破はクラスの中を見回す。

そこにはやはり誠二が残っており。

今日も、彼が。

佐藤成樹が迎えにくるのだという確信が深まる。

不破は先程椎名に言われた言葉を思い返す。

どのように誘おうかなど、先程からずっと考えていたから決めてはいる。

けれど彼がそれに応じてくれるかは彼のみが知ることだ。

不破は壁にかかる時計を睨むように見つめ、やってくる決戦の時を焦れるように待った。



結局最後までクラスに残ったのは今日も誠二であった。

誠二と二人、お迎えにくる彼の姿を待つ。

昨日ほど不安そうな顔をしてはいない誠二に母親の容態を尋ねれば、

至って元気であると答えた。


「ちょっと気持ちが悪いだけだって、亮ママがゆってた」


笑顔で答える誠二に、不破もほっと、安堵に肩を落とす。

やはり子供たちは皆、笑っていてくれるのが一番いいと思わずにはいられなかった。



時計の針は刻々と進み。

ただ待っているだけなのは退屈だと、

不破は誠二と二人、サッカーボールを持ち出して、遊びだした。

誠二の蹴り返すボールの強さを確かめ、日に日に上達していっていることを実感する。

ボールを誠二に返し、思いがけず上手いところに蹴ってくる誠二のボールを止める。

何度もやっているうちに、不破も次第に熱中をしてくる。

ボールに触れ、ゴールの前に立っていると、目の前のサッカーボールしか見えなくなるのは、

やはり不破がサッカーを愛していることの証明なのだろう。


何度目かの誠二のシュートを止めた際に、不意に近くで笑う気配がして、

不破は視線を巡らせた。

そこには。



「アンタ、随分と付き合いええんやなぁ」



不破が忘れようと思っても忘れられない彼がいた。

誠二はその姿を見て、彼に駆け寄っていく。



「・・佐藤」



思わず名を呼んでしまっていた。

鼓動は常よりも随分と早い鼓動を刻んでいる。

体の熱は上昇を続け、呼吸が上手くできない。

なるほど、これが恋なのかと。

椎名の言葉を思い浮かべて改めて納得をした。



「遅うなって悪かったな。今日も迎えは俺や」



佐藤は、不破の忘れられない、昨日と同じ綺麗な笑顔を浮かべる。

その笑顔から視線を逸らすことができずに、不破はしばしの間立ちすくむ。

これほどまでに捕らわれてしまっているなんて気づかなかった。

昨日までの自分であれば、一目惚れなどある訳がないと、

そんな話を一蹴してしまっていたに違いない。

けれど。

今の自分はどうだろう。

まるで一瞬で魔法にかかってしまったかのように、佐藤から目を離すことができない。

今日佐藤がやってきたら、どう動こうかと色々考えていたはずであるのに。

それさえも上手く思い出すことができない。

不破の思考回路は他の人間とも比べて、性能はよいと思っていたはずであるのに。

肝心なときに役に立たない頭に、僅かに苛立ちさえ覚える。



「ああ・・よろしく頼む」



ようやく搾り出された言葉は、当り障りもないそんなもので。

不破は自分の不甲斐なさに思わず歯噛みをしそうになる。

何かもっと言わなくてはならない言葉があるはずなのに、

回転をやめてしまった思考回路は、上手く働いてくれない。



「じゃあ、今日も有難うな」



不破の好きな綺麗な笑顔を、浮かべ。

そうこうしているうちに、佐藤は不破に挨拶をし、誠二の手を引き、帰路へとつく。

くるり、と。

背を向けた佐藤を見て、不破は思わず声を出していた。

それは本当に衝動的な行動で。



「・・佐藤」



呼び止められた佐藤は、不思議そうに不破を振り返る。



「何や、不破センセ?」



その表情でさえも綺麗だと、思ってしまう自分は相当重症のようだった。

呼び止めてしまったのだから、必然的に言葉を発さないわけにはいかず。

けれども真っ白も同然な頭の中で、

用意していた言葉を上手く言葉にすることなど到底できるわけがなかった。

それでも。

こんな言葉を紡ぐことができたのは、奇跡に近いだろう。




「今度・・」



「今度?」





「食事にでも行かないか」







発した言葉は、100点とはいえないが、それでも上出来な方の言葉で。

とりあえず伝えなくてはならなかった言葉は伝えることができたので、

ただ安堵にも似た気持ちが襲う。

しかし。

言葉を紡いだ後に佐藤の顔を見れば、彼はひどく驚いた顔をしていた。

・・考えてみれば当たり前なことで。

昨日会ったばかりの人間に、突然食事に誘われても戸惑うばかりであろう。

不破はそこまで考えて、表情を曇らせた。

まだ早かっただろうか、だとか。

もう少し違う方法で誘えばよかっただろうか、だとか。

不破にしては珍しいくらいに弱気な考え方が頭の中に次々と浮かぶ。


そして、

きっと断られるのだろうと、頭の中では予想をしていた。


断られてしまっても、また次誘えばいい、などと、随分先のことを想像しながら。







「・・ええで」







返ってきたのは、思いもかけない言葉で。

今度驚いたのは不破の方だった。

佐藤の言葉は聞き間違えではないのかと、思わず佐藤の顔を凝視してしまう。




「センセが連れてってくれるんやろ?」




やはりどうやら聞き間違えではないらしく、佐藤はひどく楽しそうな笑顔を不破に向けた。




「楽しみにしとるわ」




そう、言って。

佐藤は不破の肩に優しく触れる。


触れられた、肩が熱を持ったように熱く。

思わず不破はその場所を手で押さえた。

至近距離にまで近づいた彼の姿が頭から離れない。

やはりひどく綺麗に笑っていた彼と視線が合ったとき、

ただ心が締め付けられるように、胸が高鳴った。







『楽しみにしとるわ』






佐藤の。

そんな言葉が頭から離れずに、不破はその場でずっと佐藤の後ろ姿を見送っていた。

彼の姿が消えてもずっと、その場に立ち尽くし。

気がつけば呆れた顔を満面に湛えた椎名が、不破の横に立っていた。




「あれがお前の好きなやつ?」




椎名の問いに頷き返してから、不破は気づいたように椎名に向かった。




「・・食事に誘ったのはいいが、どういう所が好まれるんだ?」




不破の問いに、椎名はただ頭を抱える。





「・・お前のハトコに人気レストランでも押さえてもらえ」








そう告げて。


素直に頷く不破に、椎名は心から頭痛を覚えたのだった。