弱くなることだけが恋じゃない。 悲しいだけが恋じゃない。 愛してこそ、愛されてこそ。 恋なのだと感じずにはいられない。 +桃色の日常生活・3 寺での仕事を終え、さっぱりするためにと風呂へと浸かり。 大判の白いバスタオルを頭に引っ掛け、おざなりに頭を拭きながら部屋へと戻る。 火照った足に、触れる木の床は冷たく、 これでは風邪を引いてしまうと部屋へと戻る足を速めた。 頭を拭きながら、片手で襖を閉めて、そのまま。 風呂へ行く前にひいたばかりの布団へと飛び込んだ。 暖かいその感触にほっと安堵の息を吐き。 肌に馴染むまでそのままでいようと、ゆっくりと目を閉じた。 じわりじわりと熱を有していく布団の感覚に心地よさを感じながら、 肌を滑る柔らかさを堪能する。 そのまま昼間の疲れが現れてきたのか、睡魔が次第に体を包むようにやってくる。 眠ってしまおうかと思ったのだけれども。 髪は乾かしきっていないし、それに。 佐藤は重くなった瞼を意識的に開くと、 肌の温度に馴染み始めた布団から這い出るように外に出た。 そうして先ほどまで着ていた服のポケットを探り、 目当てのものを抜き出すと、デスクライトをつけた。 今まで暗かった部屋の中はぼんやりと物が認識できるくらいには明るくなる。 デスクライトは元々この部屋にあったもので、 前にここで生活してた人間が置いていったものらしい。 滅多に使わないそれは少々古ぼけてはいたが、 それでも電灯の真っ白い目が眩むような明るさに比べれば、 その落とされた橙色の明かりがひどく心地よかった。 再び布団の上に寝転んで、今度は腹ばいになる。 手にしたものを薄暗い明かりの中に翳して、その存在を確かめる。 服の中に入れていた割にはそんなに痛んでいる風もなく、佐藤は少し安心をした。 毎日、毎日。 写真の中の実物に会っているというのに、 こうして写真を持ち歩いているということを不破が知ったら。 きっと呆れられるか、佐藤の感情を考察されるに違いない。 そう思って佐藤は僅かに笑みを零した。 でも、きっと。 不破がいくら恋心などというものを考察したところで、 はっきりした答えなど出てこないのであろう。 人間が持って生まれた恋心を、全て理解しようなど、到底不可能なことで。 毎日本人に会っているのに、こうして写真の彼を見ては喜んでいるなどという、 矛盾した恋心を、彼のお得意の数式などには変換することなどできないのだから。 ごろり、と。 今度は仰向けに寝転がってその写真を眺めた。 この写真は実は2枚目で。 初めに全員に割り当てられた写真は、部屋の引き出しの中に仕舞ってある。 そしてこれは後からこっそり風祭に貰ったものだ。 風祭にももちろん、部員全員に割り当てられた分の写真があり。 その中の1枚、不破の写真を譲ってもらった。 もちろん、堂々と貰ったというわけではなく。 休み時間にこっそり話をつけたのだ。 風祭のいいところは、そういう話を茶化すようにして他の人間に言うということをしないところだ。 これがもし話し好きな人間だったのであれば、 きっと佐藤の話など部全体に広がっていたに違いない。 写真を貰ったときの、風祭の表情が目に浮かぶ。 彼はひどく嬉しそうな顔で、不破の写真を取り出した。 そうして。 『水野くんからも貰っておきましょうか?』 なんて。 まるで自分が嬉しいかのように笑うから。 気恥ずかしさなどどこかに飛んでいってしまった。 『タツボンに何って言うんや、お前? まさか俺が不破の写真欲しがってるなんて言えへんやろ? それなのにお前が不破の写真なんて欲しがったらタツボンが不審がるやろーが』 風祭の頭を軽く叩くけれども、風祭は未だ嬉しそうな顔を崩さぬまま。 いくら風祭でもそれはおかしいだろうと、佐藤は思わず眉根を寄せる。 『・・お前さっきから何でそないに嬉しそうな顔しとんのや?』 すると、彼はこう言ったのだ。 驚かずには、いられなかった。 『シゲさん、恋してるんですね』 息を飲んで、風祭の顔を見つめる。 何を言われたのかと理解するまで、数秒。 言葉を理解してから、行動に移すまで更に数秒。 けれども数十秒経ってから起こすことができた行動というのは、 間抜けな声を出すということだけであった。 『はぁ?』 『シゲさん、幸せそうです』 それは、今までみたことがないくらい。 とてもとても嬉しそうな顔で笑うから。 佐藤はただ呆然と、その顔を見ていることしかできなかった。 『恋って、すごいです。シゲさんをそんなに幸せにできるんですから』 風祭の言葉が、頭の中を流れていく。 そんな風に見られていたなんて、思いもよらなかったからだ。 恋は、自分を変えたのだろうか。 『シゲさん』 休み時間が終わる寸前。 呆然と、不破の写真を手にしながら立ち尽くす佐藤に、風祭は最後にこう告げた。 『恋って魔法みたいですね』 まるで、どこかの恋愛小説のセリフのような。 けれども確かに風祭が発した現実の言葉は。 佐藤の耳に残って離れなかった。 恋は、魔法。 確かに変わってしまった自分を考えると、そうなのかもしれないな、と。 改めて恋というものの大きさを知ったのだった。 そんな昼間の行動を思い出して、佐藤は静かに笑みを零す。 手にした写真の中の彼は、そんなことがあったなんて露知らず。 今頃小難しい本でも読んでいるのだろう。 不破も、付き合い始めてから佐藤が変わったと思ってくれているのだろうか。 でも不破はそういう感情にはひどく疎いから、もしかしなくても、 何で佐藤が毎日、ひどく幸せそうに過ごしているのか検討もついていないに違いない。 そう簡単に想像できてしまって、佐藤はまた布団の上で密かに笑った。 ぼんやりとした明かりの中で、不破の写真をかざして。 そうして胸の上で軽く抱きしめる。 『おやすみ』 音にはせず、唇だけで紡いだ言葉を写真の中の彼に贈る。 それから。 布団から這い出てデスクライトを消し。 そうしてもし誰かがこの部屋に入ってきて、見られるのは嫌だからと、 写真はそっと枕の下に置く。 なんとなく、軽く枕を叩いて、そうして佐藤は横になり、暗闇の中で今度こそ目を閉じた。 きっと今日も、いい夢を見られるのだろう。 恋は、魔法。 きっと、こんなことをしていると知られたら恥ずかしくて、 穴の中へでも何処へでも逃げたくなるに違いない。 恥ずかしい、と思いながらも。 それでもやめることなどできないのは。 やはり、恋という名の魔法にかかってしまったからなのだろう。 恋という名の魔法。 桃色の、日常生活。 |