人を愛することを恋と呼ぶのであれば、 人から愛されることを、一体、何という言葉で表現すればよいのだろうか。 愛するという感情は時にひたすら甘く。 時々不覚にも泣きそうになる。 泣き笑いのような表情を浮かべる自分を、彼はどんな想いで見ているのだろうか。 今度、こっそり不破に尋ねてみるのもいいかもしれない。 桃色の日常生活・4 不破の機嫌が悪い。 それもあきらかにそれと分かるくらいに。 普段不破は自分の感情を素直に表に出すことなどしない。 それは素直に出ないというだけで、感情が全く表にでないということではないのだが。 いつもならば佐藤にだけ分かるような些細な変化であるのに、 今日は随分はっきりと顔に不機嫌だと書いてあるのだ。 だからこそ普段は不破の感情の変化に滅多に気付くことのないサッカー部員たちが こぞって不破にどうしたのだと尋ねていく。 『不破は苦手』とはっきり言い放った水野でさえもあまりに不思議に思ったのだろうか、 部活後不破にどうかしたのかと尋ねていたほどだ。 しかし不破はどの部員たちにも何も変わったことはないと同じことを繰り返すばかりで。 部員たちはみな頭を傾げていたのだけれども、皆の視線は自然と佐藤の方へと向いた。 「何したんだ佐藤?」 と、高井は、不破を心配しているとは思わないくらい楽しげに近づいてきた。 喧嘩でもしたと思ったのだろうか。 高井は目を輝かせてこちらを見ている。 それに引っ張られるようにしてその場にいる風祭が、可愛そうだと思わずにはいられない。 「・・別に何もないで」 佐藤は素直に答えを述べる。 本当に自分は何も知らないのだ。 別に喧嘩をしたということでも、擦れ違いがあったということでもない。 昨日まではいつもと全く変わらない日常をすごしていたというのに。 佐藤はぼんやりと天井に視線を向け、不破の態度を思い出す。 確か朝に会ったときにはいつもと変わりはなかったはずだった。 しかし昼休みに廊下で擦れ違ったときにはもう、 不破は顔に不機嫌という文字を貼りつけていた。 何かがあったとすれば、朝から昼の間。 しかしその間に佐藤は不破と会ってはいないのだ。 だからこそ原因は自分ではないと考えるのだが。 しかしよくよく考えてみると、不破が目に見えて感情を表に出す原因を作るのは、 自惚れではないのだけれども、いつも佐藤のなのである。 喜怒哀楽。 不破の感情のほとんどの起因となるのは、自分だ。 だったら、と佐藤は頭を悩ませる。 自分は不破と会ってはいないのに、どうやったら彼を不機嫌にできるのか。 考えられるのはただ一つ。 佐藤は気づかなかったが、不破は自分の姿を何処かで見たということ。 そして、不破はそれを見て不機嫌になったのだ。 そう考えるのが一番自然である。 佐藤は思わず一つ溜息をつく。 何をしたかなんて覚えている訳がないし。 不破が不機嫌になるような行動がどういうものかも検討がつかない。 やはり、不破に直接尋ねるのが正しいのかと、佐藤は鞄を肩にかけ、部室を出ていった。 夕暮れの街中を歩く。 その足取りは少しだけ重く。 けれどもそれは決して不快ではなかった。 感情を滅多に表に出すことのない彼が、たまに見せる我侭のような表情に、 ひどく安堵する自分がいる。 まるで、自分にだけ甘えられているかのような感覚に、笑みさえ零れそうになるのだ。 空を見上げ、赤く焼けた空を見る。 他の人間であったならば鬱陶しいと思ってしまうようなことも、全て。 幸せだと思えてしまうのは、惚れた弱みというものなのだろうか。 佐藤は、今、 部屋の中で僅かに不機嫌そうな顔をして本にでも向っているであろう不破の姿を想像して。 やはり少し笑みを零してみせたのだった。 玄関はいつもの通り、開いていて。 やはり怒っているのではなく、ただ拗ねているのだということが分かる。 佐藤は勝手知ったる家の中、靴を脱ぎ階段を上がり、不破の部屋の前で立ち止まる。 一応珍しく、部屋のドアをノックしてみたりして。 コンコンと小さく二回、乾いた音が響く。 それでもしっかり不破は聞きとめてくれたようで。 いや、不破はきっと、自分が家に来るのを待っていてくれたはずなのだから、 もしかしたらドアがノックされるのを心待ちにしていたのかもしれないのだが。 そんなことを思っていると、ドアが開いて、 やはり少し不機嫌そうな不破が佐藤を中に招きいれてくれた。 相変わらず不破の部屋は不要なものは何もなく、殺風景な部屋であった。 不破は無言で部屋の真ん中に立ち、じっと視線だけで不破を見る。 その視線にやはり少しだけ不穏なものが混じっていて、佐藤は心の奥底で首を傾げた。 一体いつ自分は、そこまで不破の機嫌を損ねるようなことをしたというのだろうか。 身に覚えがないのだから、何のフォローの仕様がなく。 それに悪いことをした覚えなんて更々ないのだから謝る気もない。 お互いの、視線だけが部屋の中で絡んで。 言葉はないのだけれども、そこに明確な意思が存在している。 しかしそれが息苦しいかといえば、嘘であると答えるしかない。 交じり合う視線の中だけにある、甘さが。 不破の部屋の中に満ちていくようで、ひどく心地よかった。 ふと、不破が動く。 佐藤の目の前まやってきた彼は、佐藤の腕を掴み、体を引き寄せる。 それに逆らうことなく、不破の体に抱きとめられた佐藤は、 体に回される不破の温かい腕を感じながら、近づいてくる不破に、ゆっくりと目を閉じた。 触れる熱は、いつもより僅かに温く。 それでもいとおしげに口づけてくる不破の仕草は変わらなかった。 下唇を甘噛され、するりと舌が口内に侵入してくる。 佐藤を傷つける意図など全く感じさせず、普段と同じ熱を持つそれに、次第に夢中になる。 抱き締められたまま、壁に押し付けるように口づけをされて。 貪るように味わわれて、あっという間に、正常な思考回路が蕩かされていく。 だから気がつかなかったのだ。 不破の、思惑に。 悪戯な不破の指先が、佐藤の背中をなぞる。 背骨をつぅっと撫でられて、体が震える。 その間も口づけは止まず、鼓動が跳ね上がるように音を発する。 不破の手が、佐藤の胸の辺りにまで上がってくる。 なぞるその手は優しく、まるで壊れ物でも扱うかのような仕草に、 佐藤は目を閉じてその快感をやり過ごす。 しかし。 カサリ、と。 不破の手が胸ポケットにあるものに触れたとき。 佐藤は一瞬で目の覚めるような思いがした。 まずい と。 思ったときには既に時は遅く。 不破の手は器用にも写真を抜き取っていた。 「不破!」 慌てて名を呼ぶのだけれども、 不破は大して気にも留めていないかのように、その写真を見ようとする。 けれども佐藤はその写真を持つ腕を捕まえて、不破の目には映らないように抱き締める。 すると不破は、明らかに不機嫌だという表情を顔中に貼り付けた。 「・・佐藤」 不機嫌な不破が、諌めるように佐藤の名を呼ぶのだけれども。 この写真だけは、不破に見られてはならない。 見られたら、恥ずかしくて仕方がない。 佐藤は顔を上げ、挑むように不破と視線を合わせる。 「あかん・・これだけは・・!」 しかしそんな言葉だけでは不破は納得するはずもなく。 更に不機嫌そうに佐藤に言い募る。 「どうしてだ・・?」 「どうしてもこうしてもや!」 咄嗟によい言い訳も思い浮かばず、駄々を捏ねる子供のようなセリフを言ってしまう。 それほど、動揺しているのだ。 もし、この写真を見られたら。 不破は何と言うのだろうか。 案外、無感動なのかもしれないけれども。 きっと、表情を変えずにそれでも喜ぶだろう不破の顔を想像したら、 やはり恥ずかしくてこの写真を見せられないと思った。 しかしそんな佐藤の思惑など知らない不破は。 僅かに悲しそうな色を浮かべて、佐藤を見る。 「・・最近」 紡がれる言葉に、佐藤は驚かずにはいられなかった。 「お前は、ずっとこの写真のことを気にかけていただろう・・?」 どうして、不破が知っているのかと問うように不破を見つめる。 写真を制服の胸ポケットに入れているなどということは誰も知らない。 誰にも言った覚えがないからだ。 それなのにどうして、不破は気づいたのだろうか。 「お前を見かけると、よく、嬉しそうにその写真を眺めていた。 そして、笑っていた。 ・・一体この写真は何なんだ?」 ああ、と。 佐藤は不破の言っていることを理解して、どうして不破が突然不機嫌になったのかを悟った。 不破はどうやら、佐藤がこの写真を眺めているところを見てしまったらしい。 そして。 何度もこの写真に微笑みかける佐藤に、不安になったのだろう。 いわゆる、写真に対する嫉妬という訳だ。 それに気づいた途端、佐藤は思わず笑わずにはいられなかった。 「・・何がおかしい?」 笑われて更に機嫌を損ねた不破は、ムッと眉を顰める。 「ああ、すまんすまん」 それでも笑いは止まらず。 笑いすぎで涙の滲んできた視界で、不破と視線を合わせた。 「アホやなぁ・・」 自分で自分に嫉妬しとるなんて。 佐藤は僅かに背伸びをして、不破の唇に羽のような口づけを落とす。 それから、捕まえていた不破の腕を放してやる。 やはり、少しだけ恥ずかしかったのであるが、不破もこうして嫉妬してくれていたことであるし。 今回は特別や、と。 僅かに照れる心を、胸のうちに隠した。 解放された腕を見つめ、不破はゆっくりと手の中にあった写真を眼前へと持ってくる。 そうして驚いたように目を見開いた。 「・・これは」 よほど想像していなかった事態なのだろう。 不破の視線は宙を泳ぎ、そうして再び写真へと止まる。 「そういうこと、や」 視線を合わせて笑えば、不破の頬が赤く染まった。 「・・分かった」 まだ動揺しているのであろう不破の、声は僅かに上ずっていて。 可愛いやつやな、なんて思わずにはいられなかった。 不破の手が伸びて、再び腕の中に抱き締められる。 体中を抱き締められるような感覚が酷く心地よかった。 仲直りのキスは、お互いの熱の中に溶けた。 今日も幸せ。 桃色の、日常生活。 |