倫理も、道徳も、法律も、そして、自然でさえも。 全てが崩れ去った世界の中で、 人々は皆、緑の蝶を探していた。 +楽園の緑蝶 人と人が争い、自分たちの住む地球のほとんどが壊れかけていることに気づいたとき、 もう遅すぎることであるのだと、誰もが悟った。 空、というものが通常有していた青は既に変色し、青とも橙とも言いがたい、 まるで人々の心を映しているかのような斑点が浮かんでいた。 風は穏やかに吹くものではなくなり、踏みしめる土は何度も揺れ人々を脅かした。 もうすでに国という定義はなくなってしまったこの星で、 それでも未だに覇権というものにこだわる一国が、唯一繋がる地上波で、 全世界の人々に伝えた言葉は、なんとも味気のない一言であった。 『地球はこのままでは太陽に引きずられ、消滅をする』 と。 地球上に僅かに残った人々は、ただそれを静かに受け入れた。 彼らにはもう戦う意志も、生き延びる意志もなかった。 多くの人々が死に、これ以上の発展も求められない世界で、 他の星に逃げようと考える人間も稀であった。 ただ、人の欲を映したような空を見上げ、怒るように震える土を踏みしめるたびに、 人間はただ、自分たちが犯してきた罪を思うのだ。 そんな人々の中に、一つの噂とも、流れ話ともつかない話が広まっていた。 『緑の蝶を見つければ、幸せに生きられる』 のだと。 まるで昔の童話の青い鳥のように。 地球を死の星としてしまった人々は、 幸せに生きるなどということが、現実に起こりうるものだとは思ってもいなかったのだけれども。 荒れ果ててしまった森を、干からびてしまった海を。 色を失った空を見上げながら。 人々は静かに思うのだ。 緑の蝶が目の前に現れてくれればいいと。 二人で手を取り合って逃げた。 どうせ長く生きられないのであれば、二人だけで静かに暮らそうと。 既に車など使いものにはならない世界で、ただ自分の足だけを頼りに、 二人だけで暮らせる場所を求めて歩いた。 たどり着いたのは、地方都市にほど近い山裾で。 なんだ都心を過ぎればこんなにもまだ緑が残っているのではないかと、 手を繋ぎあったまま、顔を見合わせて笑った。 けれども既に、飲み込みきれないほどの二酸化炭素を放出された大気は悲鳴をあげていて、 懸命に二酸化炭素を飲み込もうとする木々は哀れにも、目に見えて弱っていた。 失われていく命を守るには自分たちは余りにも無力で。 どうせ失われいく命であれば、何かを守りながら眠りにつきたいと。 そう願わずにはいられなかった。 山裾にある小さなログハウスで生活を送った。 二人だけで過ごしたいと願った割りにはけれども簡単に命を捨てることなどできなく。 僅かな人々が寄り集まって生活の場としている場所からほど遠くない場所に腰を据えた。 震える土の慟哭を感じ、ジリジリと焼き削れる地球の音を聞きながら、 全ての空間が、時間が、存在が、消え行く日を思った。 太陽の光など、もう見ることもなくなった世界で。 曇り空の向こう僅かに差す光で生活することに慣れてしまった。 部屋の中、揺れる視界に存在するのはただ相手だけだった。 そもそもこの世界で、もう、時間という概念すらなくなってしまったのだけれども。 けれども街に出ることで知る情報から、今日が年の終わりだということを知っていた。 二人で柔らかい布団の中、包まっていることが多くなった。 日が昇る度、そして日が海の彼方に沈む度に、遠くで泣く地球の声を聞きながら、 体を寄せ合って眠る。 まるで世界にお互いしかいないのだと、離すことなどできない大切なものであるのだと。 日に日に募っていく感情は、心に焼き付いて、身を焦がしていく。 まるで壊れていくこの地球のようだと。 空気を通して響く地球の声と、この身体を焼き尽くす音を聞きながら、 目を閉じ、瞼の裏に映る、金色にも似た眩しい太陽の光を思い出す。 「なぁ、不破?」 名を呼んで、胸に預けていた顔を上げれば、覗き込んでくる大きな黒目と目があった。 「・・なんだ?」 言葉を交わすときは、目を離さず。 二人だけの世界を作るを、不破は随分と好んだ。 惚れた弱みだろうか、覗きこんでくる不破がこころからいとおしく。 不破は佐藤の首に甘えるように手を回した。 「今日、誕生日なんやろ?」 問えば、不破は眉を顰め、一つ唸った後、そうかと一つ呟いた。 「そういえばそうだったな」 今気がついたかのように言う不破に、相変わらずやな、と笑った。 「何か欲しいもんとかないん?」 この男の答えそうなことなどは、考えなくても分かるのだけれども。 もしかしたら、1000分の1の確率で、違う答えをくれるかもしれないと思ったからだ。 「・・?俺には欲しいものなど別にないが」 期待しただけ無駄だったのであろう。 想像通りの答えが不破から返ってきて、そういえばこいつはデータを好む人間だったなと。 そんな人間がデータを越える返事をするなど、本当に滅多にないことなのだと思い出した。 「そうか・・。しかし想像通りのやつやな。お前ならそう言う思っとったわ」 大げさに溜息をついてみせて、肩を落とす。 すると、突然。 不破の顔が耳元に近づいてきたと思ったら、思いがけないことを囁かれた。 「俺の欲しいものはないが・・お前が欲しいものは一体何だ?」 不破の問いに、佐藤はただ瞬いて不破を見返す。 「俺の欲しいもん・・?」 「そうだ。お前の欲しいものだ」 欲しいもの。 自分が欲しているものがない訳ではないのだけれども。 けれどもそれは、この地球で生きている人間皆、誰も思っているけれども、 誰も口にしてはいないことで。 自分だけがただ軽々しく口にするものではないと思うのだ。 「・・そんなの聞いてどないすんの?」 お前の誕生日やのに。 と。僅かに掠れる声音で言ったら、不破は滅多に崩さない表情を微かに緩めた。 「お前の望んでいることが叶えられたら、俺はそれで満足だ」 そう、まるで何でもないことのように言うから。 望んでもいいのだろうかと思ってしまう。 止まったままの時計。 破られることのないまま壁にかけられたカレンダー。 泣き声をあげる地球。 もう、権利だとか自由だとかを主張できない世界になってしまっているのに。 ただささやかな幸せを望むのは罪なのだろうか。 この手に抱えきれないほどの幸せなどいらないから、 じわりじわりと襲い来る恐怖と戦う術を。 大切な者を守って眠れる強さを。 ください。 「・・なぁ、不破、知っとる?」 願いなど口にできない。 叫んでどうにかなることであれば、とっくに空に向かって泣き叫んでいる。 「街のモンが言っとったんや」 佐藤は指先でふわりと宙をなぞる。 「緑の蝶を見つけたら、幸せに生きられるんやって」 不破の目の前に蝶の形を描くと、佐藤の指を追って不破の目も動いた。 「緑の蝶か・・それは珍しいな」 「滅多に見られるもんやないからこそ、そんな話になっとんやろ?」 緑のほとんど見られなくなったこの世界で、蝶というものが存在していることがそもそも稀で。 その中から、緑色の蝶が見つかることなど、奇跡に等しいのではないかと思う。 そんな、夢物語のような話は、一体どこの誰が作り上げたのだろう。 やはり崩れ行く世界に夢を持てなくなった人間が作りだした、架空の話なのかもしれない。 「そうかもしれないが・・」 不破は窓の外に目をやり、薄曇りの空の下、まるでいもしない、緑の蝶を探すかのように。 「蝶が再び存在するような世界になったら、 このまま生きのびられるかもしれないという、願いかもしれないな」 悲痛な、悲痛な、人間の叫び。 生きていきたいなどと声に出すこともできず。 ただ緑の蝶に思いを馳せる。 乾いていく大地を、汚れていく空を、枯れていく木々を。 止める術はどこにもないのに。 こうしてまだ、どこかで生存を信じずにはいられないのは、 太古の地球が作り出した、生物の生存本能なのかもしれない。 「なぁ、不破・・」 望んでしまうのが怖くて、けれども口に出さずにはいられず。 不破に抱きつくように、胸に顔を埋めた。 弱くあろうとは願わないのに、体が意に反するのは意思の弱さなのだろうか。 「お前と、未来が見たかったんや」 望んでも仕方のない話。 もうすでに、地球は壊れはじめている。 この、生物の源である母なる地球の崩壊を、ちっぽけな人間が一人。 どう頑張ったとしても止めることなどできない。 だけれども、ただ、少し先の未来を。 抱えきれないほどの幸せなどいらない。 ただ少し。 少しでいいから、不破と未来を歩いてみたかった。 不破の腕が佐藤の背に回る。 守るように抱き締めるそれに、かなわないと思わされたことが何度あったことだろう。 「俺が、見せてやろう。お前が望むならば、必ず」 確かにそう言った不破の言葉が、脳に達する前に心に触れて。 不覚にも泣きそうになって、不破のシャツをぎゅっと握り締めた。 不破は確証がないことに、必ずという言葉など使わない。 ならば、信じてもいいのだろうか。 遠い未来、手を繋ぎ、君と笑って歩いていけることを。 「嘘ついたら承知せぇへんで」 「ああ・・お前に嘘などつかない」 手を繋ぎ、太陽の沈む音を聞きながら目を閉じる。 体を震わす、地球の悲鳴が耳に触れる。 強く手を握れば、返ってくる力強さが心強くて、体を寄せて、額を合わせる。 触れる熱とともに、 ふわりと浮かぶ緑の蝶の姿が、見えた気がした。 Happy Birthday 不破大地! |