+絶対零度。




考えるまでもなく。

自分たちはサッカー選手である前に、ただの中学生で。

サッカーという競技をすることの前提として、勉強をしなければならないのだ。

今日の日直が怠ったのか、少しだけ真っ白になった黒板の前で、

教師が世界のルールについてを語る。



この世界に起こる出来事全てに正しい理由なんてつけられる訳がないのに。

学校というところは、そうなるからそうなのだ、と。

それだけで終わらせてはくれない。

何故そういう結果に至ったのか、過程とともに延々と教師が述べるのだ。

一体それが何の役に立つのか、まだ10数年しか生きていない自分たちは知らず。

昔の大人たちが作った社会のルールに従い、当然のように自分たちは学校へと通う。


今日の科目は理科。

目の前で楽しそうに自然現象を語る教師の言葉は余り耳へと入っては来ず。

窓の外の、遠く広がった青い空を見ながら、何と絶好のサッカー日和であるのだろうと。

ただぼんやりとそう思った。

頭の中に今日の天気図を思い浮かべ、当分は晴れるということを思い起こし、

そうして英士は軽くため息をつく。

明日も、明後日も。

気持ちのよいくらいに青く晴れた空を見ながら、ため息をつくことになるのだろうと。

そんな自分が容易に想像できて、英士は少しだけ、青い空が憎く思えた。


もちろん。

雨が降っていたら降っていたで、授業後にサッカーができないことを、

ひどく憎むことになるのだろうけれども。


ぼんやりと空を眺めていた英士の耳に、ふと、教師の言葉が入ってきた。




「水の温度は、マイナス273度までしか、下がりません。

 この温度を、絶対零度と言います。」




どうして、水はその温度までしか下がらないのだろうかと。

考えていたら不意に、遠い空の向こうにいる従兄弟の顔を思い出した。


潤なら。

潤なら水の温度くらい下がらなくしてしまいそうだと。

そう思ったら少しだけ顔に笑みが零れた。


一馬と結人にこのことを告げたらきっと同意してもらえるだろうな。

あの従兄弟が、不可能そうに見える事柄を可能に変え、

自分の手の中に掴んでいっているのを目の前で見ているから。

潤なら、できてしまうのではないかと。

そう思えてしまうのだ。



まるで彼はマジシャンのように、水の温度の低下など、難なく止めてしまうのだろう。



思い出すのは潤の手。

一つ上の潤慶の手に、自分は何度助けられたことだろう。

潤が、英士の頭を優しく撫でる。

大丈夫だよと、少し高い目線で笑う。

どれだけその手に助けられたことだろうと思い返していると、何故だか。

潤の優しいその手によって、英士の体に熱を灯されたことまで思い出してしまって。

窓の外の青空を見ながら、英士は少し頬を染めた。


潤の手は魔法の手だ。

自分の心を穏やかに沈め、また、巧みに動いては英士の体に熱を灯す。

潤の手は、自分たちと同じく、たった2本であるはずなのに、

まるでたくさんの手を持っているかのように、たくさんのものを掴んでいく。

彼のその手は、まるで魔法のように。

たくさんのものを引き寄せては、それが当然であるかのように、

引き寄せられたものはその場に収まっているのだ。

韓国代表の座。

スペイン行きの切符。

たくさんのものは、全て。

潤の下に集うのだ。


やはり。

潤はマジシャンのようなのだと改めて思わずにはいられなかった。


英士は目の前で行われている授業に意識を戻した。

どうして自分はただ、理科の授業を受けているだけであるのに、

遠く遠く、海の向こうにいる愛する従兄弟のことを思い出さなくてはならないのだろうと。

突然理不尽なものを感じ始めた。


今、自分は勉強をしていればいいはずであるのに、どうして。

従兄弟のことを思い出さなくてはならないのだろうか。

英士は、黒板の前で、大して面白みもない授業を続ける教師を見て、僅かにため息をついた。


従兄弟を思い出してしまう、理由。

そんなもの、考えなくても分かっているから。






高い空を見上げながら、英士は軽く、言葉を唇に乗せた。

声は、発さず。

微かに空気を震わせるような軽さで、唇を動かす。

その行為は、まるで、キスの時の柔らかさを有しているような。

そんな感覚を覚える。


ユン


地球上の国々は、空気というものは全て同じだ。

今自分の周りにある空気がどこまでも繋がっているというのなら、きっと。

今紡いだ言葉もいつか彼の元へ届くのだろうと。

そう、願いを込めて声を発した。





























いつ、向こうに届くだろうと考えて。

潤のことを思っていた時。









届くはずもないのに。











何故だか、潤の声が聞こえたような気がして。














「英士」














英士は思わず頬を染めた。

聞こえるはずなど、ないのに。

一瞬で声の届くほど近くに、彼がいる訳はないのに。






きっと、潤は。

英士が潤を呼ぶ、ずっとずっと前に。

自分へと声が届くように、英士の名を風に乗せていたのだと。

そう思うことにした。



やっぱり潤はマジシャンのようだと。

まだ上がり続けたままの体温を鎮めようと努めながら、

西の大陸の方向の空を見上げた。