あいつのことを気にしだすようになったのは、ほんの小さな頃からだ。

幼い時の俺は、隣に住んでいるジローを。


天使だと信じていた。





+隣の天使





子供の頃は誰だって一度は童話を手にすることがあるだろう。

俺の家は母親がそういうものが好きで、家に沢山の童話の本があった関係で、

小さな頃はよくそれらを読み聞かせられていた。

本当に小さな頃は母親に読んでもらうだけであったが、

ひらがなくらいは解読できるようになってからは一人で本を紐解くことも多かった。

本の中に広がる、夢の世界。

その中にはいつも、主人公たちが幸せになるためのエッセンスが混じっている。

それは姫を助けだす王子様であったり、不幸な少女を守る魔女であったり。

いつもそんな存在に憧れ、いつか自分のもとにもそんな幸せがやってくるのだと、

幼い心ながらにそう思っていたある日。


事件は突然俺のもとへとやってきた。


幼稚園の送迎バスに送られて、俺が帰宅したその日。

母親に出迎えられて、そのまま一人二階にある自分の部屋へと戻った。

幼稚園ながらにして今から思えば随分と出来た子供だっただろう。

幼稚園の帽子を脱ぎ、鞄をクローゼットの中に掛ける。

ちゃんとしつけられたことをやりこなし、自分に満足をして、

それではさて制服を着替えようと思ったときに、俺は部屋がいつもと違うことに気が付いた。

何か違和感がするのである。

おかしい、と思った俺は部屋の中をぐるりと見渡して、

――とあることに気が付いて、ふと息を飲んだ。


ベッドの上に、誰かが眠っているのである。

それも、自分の知らない誰かが。

不審者か、と俺は瞬間的に警戒をしながらベッドを見た。

ベッドで眠る人間は未だ起きる気配はなく、今のうちに誰かに知らせようと思った。

けれども僅かにベッドに近づいて、その姿を視界に捉えるうちに、

更にどこかおかしいことに気が付いた。


ベッドで眠っているのは――自分と変わらないくらいの子供だったのである。

一体誰なのかは分からないが、体は自分と同じくらいか、一回り小さいくらいかの子供。

それに気が付いて、俺は警戒心など忘れ、興味本位にベッドに近づいていった。

開かれた窓の下に置かれたベッドの上。

時々白いカーテンがベッドの上にふわり、ふわりとかかり、その顔は未だ見えない。

静かに起こさぬように、ゆっくりと近づいていき、そして。


俺は思わず目を瞠り、息を飲んだ。


そこに眠っていたのは、まさに天使だった。

真っ白いワンピースを着て、甘い蜂蜜のような髪をした子供。

晴れた日に、真っ白いベッドの上でひどく幸せそうに眠っていた。

俺はその姿から目を離すことなどできなくて、一体何分見とれていたかなど分からないくらいだった。


とうとう自分のところにも幸せが来たのだと。

これから俺の生きるこの世界でも、本の中でしか見たことのなかったような幸せが訪れるのだと。

この世では見たことのないほど綺麗な生き物を目の前にして、そう思った。

そうして俺は静かに、天使を起こさぬように手を伸ばした。

伸ばした手が緊張で僅かに震えていたけれども、そんなことに気づいている暇はなかった。

柔らかく、甘そうな金色の髪に指先で触れる。

その手触りのよさにいたく感動しながら、跡部はそのまま白い頬に触れた。

温かさは心地よく、そのまま抱き締めたい衝動に駆られたが、それでは天使を驚かしてしまう、と、

俺は名残惜しそうに手を引いた。


眠る姿はまさに天使だった。

童話の中に描かれる、天の使い、そのままの姿で。

人々に幸せをもたらしてくれる天使が、俺のもとへ降り立ったのだと、信じて疑いもしなかった。


触れた手がじわりと熱を持つ。

込みあがってくる幸せを抑えることなどできずに、思わず口元に笑みを零す。


起きたらどんな瞳をしているのだろう。

どんな声をしているのだろう。

そんな想像をするだけで気分は高鳴った。


けれど天使はまだ目を覚ます気配はない。

無理に起こしてしまうことはひどく可哀想なことであると思い、

俺はそのまま静かに天使から遠ざかり、それから天使を起こさぬように部屋を出た。


その時俺はその後とても後悔することになるのだけれども、

俺はただ純粋に母親に知らせようとしたのだ。

母親が俺に読ませた童話から、天使が来たのだと、そう知らせたかったのだ。


「母様!」


リビングでゆったりとくつろいている母親に、俺は普段は見せることのない勢いで駆けていった。


「あら、どうしたの?景吾さん」


勢いよく駆けていった俺に、けれどもいつもの笑顔で母親は俺に向かった。


「天使が俺のベッドで寝ています!」


なんて、今の俺が聞いたら頭を抱え込みそうなことを、母親に告げたのだ。


「まぁ、天使?」


それでも母親は笑うことなどなく、俺の話を聞いてくれる。


「とても綺麗な天使なんです!俺のところに・・!」


もう既に何を言っているのか自分でも分からなくなってきて、

とりあえずは母親に見てもらうのが一番だと、彼女の手を取り、自分の部屋まで導いた。


自分の部屋の前まで辿りつき、それから俺は一つ深呼吸をした。

またあの天使を見られるのだと思うと、自然と緊張をしたからだ。

それから母親に合図を送り、そぉっと部屋のドアを開ける。


――けれども。

そこはもぬけの殻で、さっき確かに手に触れたはずの天使の姿はそこになかったのだ。





母親に天使を見せられなかったことも確かに悲しかったが、

俺のもとから天使がいなくなってしまったことが一番悲しかった。

さっきは触れられる場所にいたのに。

あんなに、あんなに綺麗な存在を、今までに見たことが無かったから。

子供ながらにひどくがっかりした。

一人で部屋の中を隅から隅まで調べて、どこかに隠れていないかと必死に探しまわった。

けれども結果は同じで、何処にも天使の姿はなかった。


俺はさっきまで確かに天使の眠っていたベッドの前に立ち、そうして。

シーツに手を這わすと確かに、先ほど触れたような柔らかい熱がそこに残っていた。


それを確かめてから、跡部は開け放たれたままのドアを見つめる。

きっと用事があって帰っていったのだ。

そう、納得をしたけれども、結局一日中、天使が自分のもとへ帰ってくるのを待つかのように、

開いたドアの下の、真っ白なベッドの上に座り込んでいた。






天使の。

正体が分かったのは意外にも、その日の夕方だった。

家のチャイムが鳴らされ、母親が玄関に向かう。

そうしたら母親から玄関に来るように呼び出された。

なんでも、隣の家に家族が引っ越してきて、挨拶に来たのだという。

けれども俺はそんなことに気は回らなく、今もいなくなった天使のことで頭がいっぱいだったから、

僅かに不機嫌そうな顔をして玄関に向かった。



そうして。

俺は今日二度目の驚きを覚えたのである。



「こんにちは!

 俺、芥川ジローです」



なんて元気な挨拶をしたのは、他でもない。

今日俺のベッドの上で眠っていた天使だった。



「お前・・!

 天使・・!」



思わず指をさして、言い募ると、ジローと名乗った子供はきょとんという顔をした。

訳が分からないというような顔をするジローに、俺の母親は納得したように笑った。


「天使ってジローちゃんのことだったのね」


凄い剣幕の俺に気圧されたのか、ジローは母親の背中に隠れて、僅かにこちらを伺っている。

けれども、そんな姿も。


天使のようだと思ってしまって。


俺は僅かに慌てて、教え込まれた体裁を繕った。

生まれてこの方したことなどなかったけれども、出来る限りの愛想を尽くして、

天使のもとへと歩いていく。



「初めまして。

 俺は跡部景吾といいます。

 ・・よろしく」



差し出した手を天使は少しだけ困ったように見つめたけれども、

それでも直ぐに、世界中の誰もを幸せにするような笑顔を浮かべて、俺の手を握った。



「うん、よろしくね!」












なんてことがあったのは5歳の頃。

今から10年前の出来事だ。

けれども天使のジローは今でも、俺のベッドの上で幸せそうに眠っている。

あの頃ももちろん可愛かったが、それに勝るような美しさを兼ね備えてきたジローは、

まさに天使というにふさわしい。


そんなことを思いながら、俺はあの時のように眠るジローの頬に触れる。

変わらない温かな体温を楽しみながら、俺は静かに、

あの時に触れることのできなかった唇に柔らかいキスを落とした。


















愛してるよ、俺の天使。