錆び付いた記憶。 白いベランダと、開け放たれた窓。 いつ変化したのかも分からない、 たった数十センチの、窓と窓の距離。 +月の記憶 月がオレンジ色に燃えていた。 地平線に近づきそうなそれは、 まるで泣いているかのように赤く、怒っているかのようにも悲しく。 常よりもひどく複雑で膨大な感情に影響されてしまったかのように。 月は、たくさんの思いを映して、ひどく感傷的に見えた。 赤い月の引力に惑わされて、人は正気を失う。 なんて、そんな話を聞いたことがあるのだけれども。 寧ろそんな話は真っ赤な嘘で、 月に魅入られた人々が様々な色彩の感情を月に馳せたから、 月がその感情の重みに耐えられなくなって、色を変えてしまったのだと、 そう思えてならない。 月は太陽の光を反射して、自分の存在を映す。 いつか、月って鏡みたいだね、と笑ってみせたら、 そうだなと、いつになく優しい笑みが返ってきたのを覚えてる。 月はかんしょうてきなんだと、跡部は言った。 傷つきやすいんだって。 そう、言ってた。 色んな人の思いを、宇宙の真ん中にある太陽の思いでさえも受け止めるから、 とてもこころがやさしくて、でもとても傷つきやすいんだって。 ベッドに座り、窓の外をぼんやりと見上げる。 暗い空の中にはっきりと、まるで涙を流しそうな赤い月は、たった一人空に浮かんで。 とてもとても、悲しそうに見えた。 一人は誰でも淋しいよね、と。 電気もつけずに真っ暗な部屋の中で、月と自分だけがそこに存在しているかのように。 ただ赤い月を見上げていた。 俺がいるよ。 だから、泣かないで。 そう思うのだけれども、赤い月はいつまでも、 その悲しい色を湛えるのをやめようとはしなかった。 月から、視線を逸らして、正面にある隣の家の窓を見た。 そこにぼんやりと映る、赤い月。 不透明な硝子というものに映されても、月から伝わってくる悲しみが薄らぐことはない。 跡部の部屋の窓は閉まっている。 カーテンが閉まっていて、電気も漏れていなくって。 まだ、帰ってきていないのかそれとも、もう寝てしまったのかは分からない。 たった、数十センチのベランダと窓の距離。 小さい頃はそんな距離、いくらだって飛び越えて・飛び越えてくれたのに。 お母さんに怒られて、跡部のお母さんにも怒られて。 でも、見つからなければそんなこと、全然気にせず。 ベランダから見える、地上までの距離数メートル。 子供ながらのどこから来るのか分からない変な自信に駆られて、 堕ちるなんてこと、考えもせずに隣の窓にダイブした。 けれど。 いつだったか隣の窓に飛び込むのを失敗して、ベランダから堕ちそうになったことがあった。 初めて感じた、遠い遠い数十センチの距離。 体の下に広がる、何もない空間。 怖い、なんて思わなかったけど、 いつも冷静な跡部が、必死な顔をして、手を差し伸べてくれていたのを覚えてる。 それを跡部に言ったら、忘れろ、と頭を叩かれたのだけれども。 それからだった。 跡部の部屋の窓と、こっちのベランダからの移動が全面的に禁止になってしまったのは。 今は使われてはいない、けれど昔は何よりも大切だった移動経路。 これからも使われることはないのかなと思ったら、泣きたいような気分になってきた。 もう、あの時より随分と大人になって。 勢いをつけて飛び込まなくてはならないような距離ではなくなったのだけれども。 小さい頃はいつも鍵なんかかけていなかったその窓は、いつしか。 まるで全てを拒むかのように閉じられていることが多くなった。 赤い月が、跡部の部屋の窓に映って、時折小さく揺れる。 あ。 気が付いて、今度は空に浮かぶ本物の月を見上げた。 月がいつまでも悲しそうなのは、俺のせいなんだね。 俺がずっと、月を見ながらこんなこと、思っていたから。 ごめんなさい、と、月にあやまってから、顔を隠すようにゆっくりと布団に包まった。 悲しそうな月を見ないように。 もう月が俺をみて、悲しくならないように。 月明かりの中、目を閉じた。 ねぇ、跡部。 こんな日に、ひとりでねるのはさみしいよ。 目を閉じて、どれくらいの時間が経ったのだろう。 意識の奥底から呼び起こす、それでいて全然煩くない熱が、意識を揺らした。 何かあたたかいものが、体に触れてる。 春の風のように頬を撫でられて、慈しむように髪に触れられる。 瞼をひらくと、綺麗な綺麗な跡部の顔。 目が合うと、まるで羽根のように柔らかい口づけがふってきた。 ちゅ、と音を立てた唇を思わず視線で追うと、跡部はふっ、と。 口の端を上げて笑った。 「起きたか」 サラリと髪を撫でられる。 いつの間にか跡部は、俺のベッドの上に座っていた。 跡部の後ろの窓はぜんぶ開いていて。 風に吹かれたカーテンが、小さく揺れてた。 「・・どうして?」 俺の、夢なのかな。 でもほんとうに俺の夢だったら、きっと跡部はもう少しかっこいい格好で出てくるはず。 今目の前にいる跡部は、いつものパジャマで、足は裸足だった。 じゃあ、なんで跡部は俺の目の前にいるの? 「王子様は眠り姫を起こしに来るのが定番だろ?」 歯の浮くようなセリフに、思わず布団に顔を埋めた。 「・・ゆってて恥ずかしくないの、跡部?」 そう言ったら、ぺしんと頭を叩かれた。 やさしい王子様はこんなこと、しないよ。 でも、そんなことをされて。 俺の顔は赤くなってるかもしれなかった。 そんなこと、教えてあげないけど。 「・・跡部のばか。」 やつあたり。 ほんとうは来てくれてありがとう、なんだけど。 素直じゃない俺はこんなことを言う。 「アーン?」 言ったら今度はほっぺたをつねられた。 跡部、こういうところは本気だからおとなげない。 俺はつねられたほっぺたをなでながら、跡部を軽くにらんだ。 けれど跡部はどうってことないという顔をして、俺を見てまた笑った。 「どうやってきたの?」 「分かってるくせに聞くんじゃねーよ」 跡部はすこし赤い顔をして、視線を逸らした。 見ている方向には、俺の部屋のベランダと、跡部の部屋の窓があって。 いつもは閉められている跡部の部屋の窓が、今は珍しく、開いていることに気がついた。 跡部は、飛び越えて、来たのかな。 子供の頃は大変だったその距離を。 今は軽々と飛び越えて。 変わってしまったと思っていたのは、案外俺だけだったのかもしれないね。 なんだか嬉しくなって、笑顔で跡部に腕を伸ばせば、 跡部は優しく抱き締めてくれた。 跡部の後ろに見えた窓の外。 地平線の近くにいた月はいつしか、空の天辺で青く綺麗に輝いていた。 |