それはまだ僅かに寒さの残る、春の日の出来事だった。





+I don't cry.





うららかな春の日差しに、つい気を緩ませてしまったのがそもそもの始まりだった。

暖かな日の光に、今日は暖かいからジャージの上は洗濯をしてしまおう、と。

母親に託し、そうして半そでシャツ一枚を持って部活に出かけた。


けれど春の光はまだそこまでの熱を有するものではなく。

授業後、部活に出た越前はジャージを家に置いてきてしまったことを酷く後悔したのだ。

もちろん、テニスをしている間は動いているのだからそれほど寒さは気にならない。

けれど、今日は生憎、部員同士の練習試合だった。

使えるコートがそんなにたくさんある訳ではなく、越前には必然的に待ち時間が生じた。


いつもだったら他人の試合を見ることはそんなに苦にはならない。

青学には面白いと思えるプレイヤーがたくさんいるからだ。

自分と互角、いやそれ以上かと思える人間もいる。

だからこそ試合を見ることは自分の糧となるのだが、今日は他人の試合もただ苦にしかならなかった。

眉間に皺を寄せ、まるで親の敵のように試合を見つめる。


同級生が怯えたようにこちらを見ていたが、それどころではなかった。

寒い、のだ。

半そでのシャツ一枚では到底過ごせる陽気ではない。

次に試合が控えているのだからウォーミングアップでもしようかと思うのだが、

それすらも億劫になるほどに寒さを感じた。


寒さで身を捩じらせている自分も、何故だか機嫌が悪い、としか受け取ってもらえないらしい。

それに、寒いから上着を貸して欲しい、などと頼めるような性格でもなかった。

だからこそ、シャツ一枚のままひたすらに耐えていたのだった。


流石に体も冷え切った頃、突然、ふわりと何かが越前の上に落ちてきた。



「・・うわ!?」



小さく声を上げてしまってから、目の前を覆ってしまった物を手に取る。

それは青学のレギュラージャージであった。


しかしもちろん、洗濯に出してしまった自分のものではなく、

自分のものよりも随分大きな、そして今まで着ていたかのような温もりを持ったジャージだった。



「寒いなら、それ着てていいよ」



少し笑みの混じった、低い声。

その声の主を知ったとき、越前は思わずジャージを握って驚いて彼を見た。



驚いたのは、その行為に、ではなく。


彼が、『彼のジャージ』を自分に貸してくれたということ。



「・・これ」


「寒いんでしょ?

 着てなさい」



確かに、本当に寒かったのだ。

だから断る理由もないのだけれども。

普段このジャージが誰の肩へかけられるものなのかを知っていたからこそ、

渡されたことに酷く驚き、そして素直に受け取ってもいいものなのかと不安に思ったのだ。


ジャージを握り締めたまま、目の前に立つ乾を見上げる。

すると乾は、小さく首を傾げて越前を見た。



「どうした・・?」


「・・乾先輩は?」


そう問うと、彼は滅多に見せることのない、屈託のない笑顔を浮かべた。


「いいよ、俺は寒くないから」


「・・じゃあ、お借りするっす」



このジャージを。

着てもいいものかと思ったのだが、乾が何も言わないのだからと、

恐る恐る、サイズの全く異なる乾のジャージに袖を通す。

着るとやはり、自分ではワンピースのようになってしまった。

その事実はもちろん越前を落ち着かなくさせたのだが、越前を落ち着かせなくするもう一つの理由があった。


越前は、顔を上げて、チラリと試合をしているコートの中に視線をやる。

そう、いつもならば。

いつもならば乾に、肩と肘を冷やさないために、とこのジャージをかけられる人物がいるのだ。


その人物が試合をしているからこそ、このジャージは奇跡的にも越前のもとにやってきた。

越前はその人物を視線で捉えて、じっと眺めた。

彼はこの部の中でも格段に強い、青学テニス部の部長だった。

自分が彼と試合をして、勝てるかどうかはとても危ういと思える人だった。


彼が、いつも乾のジャージを独占している人だった。

・・独占する権利を有する人、なのだ。


乾と手塚はお互いに思いを寄せ合っている。

乾は手塚のことをとても大事にしているし、手塚も乾のことがとても好きなのだと、態度に表れていた。

とても幸せそうな二人だと思う。


そんな乾は、いつも、手塚に自分のジャージを手渡す。

肩を冷やさないように、肘を悪くしないように、と過保護にも思える気遣いを手塚に見せるのだ。

手塚ももちろん、そんな優しさを無碍にすることはなく、当然のように受け取っている。


そんな、乾の優しさと愛情に満ちたジャージが、今は越前の上に。


もちろん、手塚と同等の愛情が越前にも施されているのかといえば、そうではない。

分かってはいるのだが、それでも。



いつもは遠くで思うだけの優しい先輩から、気まぐれでもいいから優しさを分けてもらえることが酷く嬉しかった。



乾のジャージに包まれながら、越前はふと、向けられている視線を感じてその視線の主を探す。

すると、越前が予想していた通りの人間がこちらを見ていた。


手塚が。

眉間に皺を寄せて、試合中にも関らず、時折こちらを見ているのだ。

きっと、手塚に渡されるはずのジャージが越前に渡されたことが、不安で不安でしょうがないのだろう。


大丈夫。

乾先輩は、貴方のことしかみていないから。


そう、心の中で思って。

それを改めて自覚して、心の中で自分を嘲笑った。


そう、貴方しか見てはいないのだ。

いつも、いつも。



自分のことは、きっと視界にも入ってないのだろうから。



だから、ほんの少しだけでいいから。

幸せな時間を自分だけのものにしてもいいでしょう?




体を包む温もりを感じながら、コートの中で試合が終わるのを待つ。

手塚の試合の後は、越前の試合だ。



コート内の試合は、圧倒的な手塚の勝利で終わりそうだった。


それを見届けてから、越前は名残惜しげに乾のジャージを脱いだ。



「・・有難うございました。

 次、試合なんで」



乾はジャージを受け取って、そうしてやはり、普段は見せない柔らかな表情で笑ってみせた。



「そう、頑張ってね」






いつか、乾の視界に無視できないほどの存在感で入り込んでやるんだと誓いながら、

越前は乾に背を向け、コートへと向かった。