いつかは別れの時が来ることなど、百も承知していた。

けれどもたった一時離れるというだけで、

こんなにも淋しく辛い思いをするものだとは思ってもみなかった。





+光





乾という存在の大きさを感じるようになったのは、療養のためにこっちに来てからだ。

普段、何の疑いもなく自分の側にいてくれた乾は、今は自分の周りの何処を探してもいない。

遠い地で、手塚がいなくなったために空いてしまった穴を埋めるために、

他の三年たちと悪戦苦闘をしている毎日なのだろうと思う。

ベッドに横たわり、真っ白な天井を見上げながら、手塚は静かに思いを巡らせた。

あと、何日。

待てば乾に会えるのだろうか。

乾に会って、強く強く抱き締めて貰って、ずっと手塚の側にいるよと言って貰いたかった。

それがいくら現実感のない言葉だとしても、何か自分を縛り付ける言葉が欲しい。

もう一人でいるには耐えられないほどの時間を一人で過ごした。

ほんの僅かな間、短い日々ではないかと自分に言い聞かせるにはもう限界だった。

一人で眠るこのベッドは、いつもよりも随分と広く感じる。

何もかもをかなぐり捨てて乾のもとへ行ってしまいたいのだけれども、

手塚に残ったほんの僅かな理性がその実行を押し留めた。

今自分が帰ったとしてもみんなの足手まといにしかならず、乾にも迷惑がかかってしまう。

そうして自分のテニス人生もここで終わってしまいかねない。

ほんの僅かに残るそんな思いが手塚をこの真っ白なベッドに縛り付ける。

あと、何日。

手塚は目の前に手を翳して、指を静かに折っていく。

一日、二日・・。

以前に会ったのはいつの日だったか。

思い出してしまうと気が狂ってしまいそうで、いつしか数えるのをやめた。

真っ白なこのベッドの上、毎日肩が治ることを祈りながら、

そうして早く乾に会わせてくださいと泣きそうになって祈りながら、

動力の切れた人形のように横たわる。


決して知らなかった訳ではない。

近すぎてその存在が当たり前になっていただけだ。

だからこそ、離れてみて初めてその存在の大きさを知る。

側にいない。

ただそれだけで気が触れそうな自分がいる。

自分はこれほどまでに貪欲だっただろうかと思う。

ただ一人、自分の側にいないというだけで弱ってしまうほど、

こんなに一人の人間に依存してしまっているような人間だったのだろうか。

気づかないうちに乾は手塚の奥深くに息づいて、

今では側にいないというだけでこれほどまでに手塚を苦しめる。


側にいる、と。

言ったではないか。手塚に。

いつでもお前の側にいるよと、手塚を抱き締めながら何度もそう言ってくれたではないか。


理不尽だ、とは分かっているけれども、言わなければ壊れてしまいそうな自分を知っていたから、

手塚は目を閉じて、心の中にいる乾にそう問い詰める。

すると彼はいつも優しい笑顔を浮かべてその大きな手で手塚を抱き締めてくれる。

その度に手塚は、ただ言いようのない悲しみを心の中に浮かべるのだった。

自分の記憶の中に存在している乾だけではなく、


本物の乾に会いたかった。


会って、抱き締めて貰って、何度も何度も好きだと言ってほしかった。


酷く長く感じる時計が時を刻む音を聞きながら、手塚は薄っすらと熱の篭る携帯電話を握り締めた。

東京にいる時は、普段ろくに視界に入れることさえせずに、寧ろ煩わしいとまで思っていたそれを、

今では酷く大事な宝物のように、ずっと手塚の側に置いていた。

いつ連絡が来ても、1つとして逃すことなく受け取れるように。

乾に心配をかけることなく、短いコール音で電話を取ることができるように。

携帯電話に依存をしている人々を心のどこかで嘲笑っていたのは、いつのことだったろうか。

今では手塚も立派にこの小さな電子的な箱に依存してしまっている。


手塚は手にした携帯電話を胸に抱きこむようにして、ベッドの上で体を丸めた。

早くこの電話が着信を示してくれるように、と。

乾限定にした着信音が手塚の鼓膜を震わせてくれるように、と。

手塚は祈るような気持ちで、ちっとも進まない時間を感じながらベッドの上に横たわった。


いつからこんなに弱い人間になってしまったのだろう。

一人でいるときには淋しさなど感じなかったのに。

乾を、愛さなければ。

愛さなければずっと、色の無い世界の中、

何も感じず、何も見ず、何も聞かずに過ごしてきたというのに。

愛など知らなければそれに付随する淋しさなんて全く分からなかったに違いない。

けれど、手塚は知ってしまった。

人を愛するということを。

愛することの嬉しさを。

想われる喜びを。

それまで見ていた世界は手塚の目の前で変貌を遂げ。

今までの世界は、何と色がなかったことだろうと思うばかりだ。


自分を小さな枠の中に押し込めていた。

何も知らなければ、その小さな世界の中で傷つかずに上手く立ち回っていけるだろうと。

そう思ってはひどく狭い空間に自分を閉じ込めた。

けれど、そこに差し込んだ一筋の光。

その光は手塚の狭い世界の隅々を照らし、その世界から抜け出す術を教えてくれた。


今では。

愛を知った。

愛されることを知った。

嬉しさも、淋しさも。

人並みな弱さも、知ることができた。


こんな自分がいたのだろうかと、驚かされるほど。

手塚の世界は色を変えた。


胸に抱き込んだ携帯電話の熱を感じながら、手塚は僅かに視線を上げた。

時計の針はそろそろ6時を指そうとしていた。

そろそろ、乾が電話をかけてくる頃だ。

部活が終わり、丁度家に帰った頃に乾は毎日律儀にも同じ時間帯に電話をしてくる。

あまり遅くなると手塚に迷惑がかかるだろうかとその時間帯を選んでくれたのだが、

手塚にしてみれば一刻も早く乾から電話をしてほしいと望んでいるのだから、

部活が終わった瞬間にでも何もかもを投げ捨てて、電話をしてくれればいいと思うのだ。


今か今かと待ち受けるけれども着信音は鳴らず。

一秒一秒を刻む時計の音がやけにゆっくりに感じられて、もどかしさが募る。


早く、早く。

と、急かす気持ちが通じたのだろうか。

手塚の腕の中で、乾専用の着信音が鳴り始めた。

ぴくりと体を震わせて、手塚は一つ息を吸う。

呼吸を落ち着かせるためだ。

上ずった声では流石に、乾を心配させてしまうだろう。

僅かに震える指先で、手塚は通話ボタンを押した。


『もしもし、手塚?』


受話器に耳を当て、聞こえてくるのは聞きなれた、けれども距離を感じずには得ない、

ノイズの入った乾の声。

その距離感に思わず涙が出そうになるのだけれども、ただ平然を装って言葉を口にする。

昔から、表情を変えないことだけは他の子供より群を抜いて秀でていた。


「ああ・・乾」


お互い電話をしている相手を分かりきっているはずなのに、

まるで儀式のように名前を呼んでしまう。


『どう?そっちは・・変わりない?』


「ああ・・特に変わったことはない。

 肩の調子もそれほど悪くはないしな。

 ・・そっちはどうだ?何か変わったことでもあったか?」


『こっちも特にないよ。

 みんな一生懸命練習してる』


乾の僅かに優しくなった声音に、手塚は安心をした。

泣きそうな手塚のことは、乾に気づかれてはいないようだ。

優しい乾のことだから、もしそんな手塚に気づこうものならすぐに心配をして、

手塚に気遣う素振りをみせるだろう。


気づかれてはいけない。

そう思う心とは裏腹に、どこかで気づいてほしいという心があるのも事実だ。

乾に心配をかけてはいけない。

いけないとは思うのだが、そんな強い衝動を押さえきれるほど、

手塚はまだ大人になりきれてはいなかった。


隠さなくてはならないという心と、気づいてほしいという弱い心が相反して、

手塚の心を苦しめるのだ。

思わず手塚はぎゅ、っと強く携帯電話を握りしめる。

まるでそれが最後の、唯一の救いであるかのように握り締めた。


『・・手塚?

 具合悪いのかい』


突然途切れた会話に流石に不審に思ったのだろう乾が尋ねてきた。


「いや、なんでもない」


まるで自分に言い聞かせるかのように、その言葉を紡いだ。

何でもない。

そう、自分は何でもないのだと、心の中で念じるようにその言葉を繰り返した。

そうでもしなければ、今にも弱い自分が飛び出してきて、乾に縋ってしまいそうだったから。



「・・何でも、ないんだ」



搾り出すように紡いだ声に、返ってきたのは乾の沈黙の言葉だけだった。

けれど手塚はそんな乾のサインに気づくことができなかった。

自分の感情だけで手一杯だったからだ。



『手塚』



しばしの沈黙の後に返ってきた言葉に、手塚は思わず自分の愚かさを知った。



『・・俺が何も気づかないとでも思ってるの?

 いつまでもそんな辛そうな声で話すだけで、でも俺には辛いだとか苦しいだとか、

 一言も言ってくれたことがない。

 そんなに俺は頼りない、手塚?』



いつもとは違う、少し怒気の混じった声音に、手塚は思わず震え、自らの体を抱き締めた。

違う。

そんなことのために、自分は今まで我慢していた訳ではない。



「・・ちが・・」



こんなときに上手く言葉の出ない自分がもどかしい。

いくら口下手だとはいえ、こんな時に使えなくては言葉の意味がない。



『何が違うの?手塚。

 俺はお前のことが好きだから隠さないで全部を見せてほしかった。

 けれどお前はいつも『大丈夫だ』の一点張りだ。

 ・・そんなに強くいることが大事?』


「・・!違う!!」


いつもは優しく耳に馴染む乾の声が、今は酷く痛い。

こんな風にしてしまったのは自分のせいなのだと、そんな愚かさに泣きそうになった。



「乾・・違う・・!!」



携帯電話の前で必死に首を振る。

相手に自分の行動など見えるはずもないのに、まるで目の前に乾がいるかのように、

甘えた仕草をしてしまうのは、もう自分の中に染み付いた習性のようなものだろう。


「違・・う・・。

 お前・・に・・しんぱ・・いを・・かけ・・・いけな・・と・・おも・・」


我ながら、酷い声だと思った。

大粒の涙が頬を流れて、けれどもそれを拭う余裕もないまま、携帯電話に話し掛けた。

文も単語も、途切れ途切れで、ちゃんと言葉になっているのかすら危うかった。

けれど、これが、自分の、手塚国光のできる最大の表現方法だった。


「ほんと・・は・・おまえ・・・・に・・あいた・・

 ・・おま・・え・・そばに・・いるって・・いった・・のに」


張り詰めていた全ての糸が切れるかのようだった。

耐えて、張り詰めて、我慢していたものを、全て。

伝えきってしまって、その後に残ったものは後悔ではなく、ある種の清清しさだった。


「・・よくできました」


自分の愛した男は例え、手塚が思っていることの全てを伝えても、

そんなことで倒れてしまうような弱い男ではないのだ。

深い信念と強い意志を持った、手塚が選んだ男なのだから。


耳に触れた乾の言葉は、いつもと同じく優しくて、手塚はほっと息を撫で下ろした。

全てが肩の荷から降りた感じだ。

もう泣き声すら隠そうとする気はなかった。



『・・ごめんね。手塚。

 実は』



再び喋り始めた乾の声が、宥めるように手塚の耳に入ってくる。



「・・お前の、家の前にいるんだ」



聞かされた言葉に、手塚は愕然とした。

思わず携帯電話を取り落としそうになるほどに。


まさか。

まさか。


そんな都合のいいことがあるはずはない・・。



『俺も凄い手塚に会いたくて・・。

 邪魔かとも思ったんだけど、来ちゃったよ』



手塚は携帯電話を握り締めたまま、慌ててベッドから降りた。

パジャマ姿であるにも関らず、そのまま玄関へと走った。



『・・開けてくれる、手塚?』



扉一枚向こうに、思い焦がれていた人がいる。

そう思うだけで、手が震えた。

扉の向こうから微かに聞こえてきた乾の声に、その現実感が増す。


急いで開けたい、早く会いたい、そんな想いが募るたびに、体が上手く動かない。

鍵を回して開けるだけなのに、どうしてだろう、手が上手く動かないのだ。


震える手でやっとのこと鍵を開ける。

すると自分が開けるよりも早く、乾がそのドアを開けた。


突然のことで、手塚はひゅっと息を飲んだ。

何も心の準備などしていないのに、こんな涙でぐしゃぐしゃの顔で、

パジャマ姿の弱々しい姿で、乾がこんな姿を見たらどんな反応をするだろうと心の片隅で思った。



けれど、そんな些細なこと全て吹き飛んでしまうくらいに、

目の前に乾貞治がいたことに心と体が歓喜した。



「・・・乾!!」



そのまま躊躇うことなく乾の腕の中に飛び込んだ。

乾の腕が手塚を抱き締めるのと、玄関のドアが閉まるのと、ほぼ同時。

それから、これ以上ない熱い抱擁に出迎えられたのはその数秒後。





手塚にとってはその全てがただただ愛しかった。



















その夜、二人で手を繋いでベッドに横になりながら、明日の話をした。

もう厳密に言うと明日ではなかったのだけれども、

明日は何処にデートに行こうか、などと他愛もない話をした。


愛する人と共に過ごすことのできる明日があることに喜びながら、

けれど、また離れていかなくてはならない日を憂いながら、

こうして。


自分たちは二人で手を繋いで、そのまた次に出会ったときのことを話すのだ。



「・・次に来るときはちゃんと連絡してから来い。

 そうしたら、温泉にでも行くぞ。

 九州は名湯がたくさんあるんだ」



少し涙を滲ませた声でそう告げれば、繋いでいた手が強く握り返され、

そうして乾の腕の中に抱き込まれた。

乾の心音が聞こえる。

この時だけは、自分は一人ではないということを実感できた。

手塚は乾の腕の中でゆっくりと目を閉じる。



「そうだな。

 今度、来るときは温泉にでも行こうか」






目を閉じるとそこに、柔らかくて大きな光が見えた。

普段よりもずっと気分は軽く、今日は眠りながら幸せな夢が見られそうだと思った。