全ては愛する、貴方のために。





+青春じゃない?





遠くから聞こえる鳥の鳴き声に、手塚は徐々に意識を覚醒させていく。

うっすらと瞼を開いていけば、窓から穏やかな朝の光が差し込んでいることに気づく。

手塚はそれに気がついて勢いよく体を起こす。

テーブルに突っ伏して眠っていたために、節々が痛い。

普段であればこんなことは絶対にしないのだが、今日は特別だ。

なんせ、ほんの数時間前まで、ここで懸命に作業をしていたのだから。


手塚は慌てて壁にある時計を探し、今の時刻を確認する。

時計の針はもう少しで6時を指すというところだった。

どうやらそんなに時は経っていないらしく、手塚は安堵の溜息をつく。

それでもゆっくりなどしている暇はない。

手塚は同じく、向かい側でテーブルに突っ伏して、泥のように眠っている菊丸の体を揺らした。


「菊丸」


2度ほど体を揺すってみるが、返答はない。

それもそうだろう。

ずっと手塚に付き合って、明け方までチョコの作り方を伝授してくれていたのだから。


実をいえばここは、菊丸家のキッチンで。

バレンタインが近づいてくるにつれ、今年は乾にどんなチョコを渡そうか考えていたのだが、

丁度その時、菊丸が一緒にチョコを作ろうと誘ってくれたのだ。

中学三年生の冬、もう部活はとっくに引退し、朝練もない。

だったらたまには手作りのチョコレートもよいだろうと、

手塚は、すぐにその誘いに頷き、

13日の夜から、菊丸の家に泊まりこんでの作業となったのだ。


料理が得意だということもあり、菊丸の作業は手馴れていた。

どんどんと自分の分のチョコレートを作っていく。

大して手塚は、そもそも厨房に入ったことが数えることしかない。

祖父が古い人間で、男は台所に入ってはいけないと、よく言われていたからだ。

だからこそ、手塚の手つきは不慣れで、何度も失敗をしてしまった。

・・それはもう菊丸が呆れてしまうほどに。

それでも菊丸は根気よく、諦めずに手塚に指南をしてくれた。

それがなかったら絶対に手作りチョコなどできなかったであろう。

初心者の手塚を伴ってのチョコ作りは結局、深夜にまで及び。

ラッピングにまでこだわって、菊丸と、これは違うだとか、これがいいだとか話していたら、

結局片付け終わるまで明け方までかかってしまったのだ。


朝まであと少しであるから、少し休んでから行こうということになったのだが、

テーブルに座って休んでいたら、二人共、

慣れないことに疲れてうとうとと、眠ってしまっていたのだ。


菊丸は、自分の分を作りながら、初心者も初心者の手塚にチョコ作りを教え。

手塚は触ったこともないような器具と悪戦苦闘しながら、初めてチョコを作り。

二人とも、全てが終わったときにはくたくただったのだけれども、

それでも、愛しいあの人のため、彼の喜ぶ顔が見られるのだと思うと、

慣れない作業も随分と楽しかった。


あとはこのできあがったチョコを、渡すだけ。

きっと予想もしていないだろう彼が、どんな顔をしてくれるのだろうか。

想像するだけで、心がふわりと、甘い幸せで満たされる。


「菊丸」


手塚は再度、菊丸の肩を揺する。

けれども菊丸はやはり反応をせず、手塚は眉間に皺を寄せた。

ここで菊丸が起きなければ折角の計画が無駄になってしまう。

それはまずいだろうと、手塚はなんとか菊丸が起きる方法はないだろうかと思考をめぐらせる。


思いついたのは、たった一つのことで。

少し半信半疑ではあったのだが、これで起きればいいなというくらいの気持ちで、

手塚は、菊丸英二の大好きな、たった一人の名前を口にしてみた。


「・・大石」


すると。


「大石?」


がばり、と。

本当に瞬間的に起き上がり、辺りを見回す菊丸の姿に、

手塚は呆れるような思いを抱かずにはいられなかった。

きっと、無意識的な行動なのだろうが、もし自分も他の誰かに乾の名を呼ばれ、

同じような行動をしたら恥ずかしいなと、少しだけ思ってみた。


「大石は?」


尋ねる菊丸に、手塚は一つ溜息をつく。


「いるわけがないだろう。ここはお前の家だ。今から行くんだろう。

 だから早く用意をしろ」


起き抜けの菊丸に、それだけを告げ、手塚は一人さっさと洗面所に向かう。

するとやっと目が覚めたのであろう菊丸が、時計を見て、悲鳴のような声をあげた。


「急がなきゃ、先こされるにゃ〜!」


その通りだと思った。





洗顔をすまし、着替え、菊丸お手製の朝食をご馳走になり、急いで家を出る。

まだ菊丸家は活動を始めてはおらず、泊めてくれたお礼をしようと思っていた手塚は、

無言で家を出るのを少々渋ったが、

『そんなのはいつでもいいよ!バレンタインデーは今日しかないんだかんね!』

という菊丸の言葉に押されて、二人で急いで家を出た。

もちろん、手にした鞄の中には、二人懸命に作ったチョコを入れて。


途中の道までともに、走るように歩いて、そうしてとある分かれ道で立ち止まる。


「じゃあね、俺こっちだから!」


もう既に駆け出そうとしている菊丸が、手塚に満面の笑みを浮かべて手を振る。


「分かった。・・頑張れよ」


頷いて、柄にもない言葉を紡いだのは、

ともにチョコを作り、戦友のような気持ちを菊丸に抱いていたからであろうか。


「手塚こそ!乾によろしく〜!」


今度こそ道の向こうへ走り出していった菊丸を見ながら、

手塚も自分が進むべき道に向き直る。

そうして、今度は菊丸に負けないくらいのスピードで、

まだ起きだしてはいない朝の街を走り出す。

こんなところを後輩たちに見られたら恥だとは思ったが、

止まってはいられなかった。

例え見られたとしても、今なら上手い言い訳が思いつくだろうと、変な自信さえあった。


手塚はただ、愛しい人の待つ家まで、周りも見ずに走り抜けた。





目の前に、見慣れたマンションが現れる。

着いたときには息があがっていて、これでは自分が懸命に走ってきたことがばれてしまうと、

少しだけ呼吸を整えた。

しかしそんな時間さえも惜しく思えて、

手塚はエントランスで、乾の部屋番号のボタンをプッシュする。

きっと乾はまだ寝ているのだろう、一回のチャイムでは起きないようであったから、

もう一度、部屋番号のボタンを押した。


すると数十秒経ったのち、寝ぼけたような乾の声が聞こえてきた。


「はい・・?」


「俺だ。今から行く。鍵を開けておけ」


「手塚・・!?」


驚いたような声と、自動ドアが開くのは同時で。

乾の呼びかけには答えず、手塚は開いたドアの向こうに飛び込んでいった。

走るようにエレベーターへと向かい、丁度1階に止まっていたものに乗り込み、

手早くドアを閉め、最上階のボタンを押す。


きっと、今頃。

乾は慌てているに違いない。

けれど、手塚が来るということを聞き、きちんとドアの鍵を開けて待っているのだろう。

早く、着け。

そんな思いを抱きながら、手塚は増えていく電光掲示板の階数表示を睨むように見つめた。


穏やかにエレベーターは止まり。

開いたドアと同時に、手塚は乾の部屋へと走り出していく。

何個かのドアを横目で見ながら、乾の部屋のドアの前へと辿りつく。

手塚はその勢いのままドアを手前に引けば、鍵は閉まってはおらず、

ドアは素直に開いた。

そこに、乾がいて。

手塚はその胸に飛び込むように、乾に抱きついた。

あまり見ることのない手塚の行動に、乾は驚いた様子で。

それでも。


ちゃんと手塚のことを抱きとめてくれた。


「どうしたの、手塚?こんな朝早くに・・」


抱き締めてくれる腕は温かく。

乾は優しく手塚の髪を撫でた。


「まだ誰も来ていないのか?」


「?手塚以外誰も来てないけど」


「・・それなら、いい」


ぎゅ、っと。

手塚は再び乾に抱きつけば、彼は口元に僅かに笑みを浮かべた。


「ここじゃなんだから、部屋においで」


手塚は、ただ促されるままに、乾の部屋へと向かった。


・・その間も、繋いだ手は離さずに。





乾の部屋に着くと、そのままベッドの上に腰を下ろした。

乾もその横へと座る。


あまりに近いその距離に手塚は少し躊躇ったが、

分かれ道での菊丸の言葉を思い出し、手塚は鞄を開け、チョコを取り出した。


「・・やる」


ぶっきらぼうに差し出したそれに、乾は心底驚いたようだ。

まさか自分がチョコを持ってくるなど思ってもみなかったのであろう。


「これ・・貰ってもいいの?」


「他の誰にやるというんだ」


もう乾の顔を見ていられずに、視線を逸らしてそう言う。

乾は、手塚の持っているチョコに手を伸ばし、それを受け取った。

僅かに触れた乾の指先が熱く、手塚は微かに震えた。


「・・有難う、手塚」


耳に触れる声はひどく甘く。

幸せそうなその声に、心が満たされる。

やはり作ってよかったと、思う瞬間だ。


「これ・・もしかして手作り?」


市販のものではないラッピングの仕方に、乾は気づいたようだった。


「・・そうだ」


頷けば、乾はこれ以上ないというほど、幸せそうな表情で、笑った。

思いがけずその表情を間近で見てしまった手塚も、頬を赤らめた。

見なければよかったと、少しだけ後悔をする。


「嬉しいよ」


長い指先でラッピングを解いていき、手塚の作ったチョコを一つ口に含む。

味見はしたし、菊丸英二という信頼できる先生がついていたのだから、

美味しくないはずはないのであるが、乾から言葉を貰うまではただ不安であった。


「・・どうだ?」


探るように尋ねれば、乾のひどく柔らかい声音が返ってくる。


「美味しいよ、手塚」


ね?

と。

囁きながら、唇に一つキスをくれる。

触れる唇の甘さに、手塚は眩暈がしそうになる。

思いがけず長くなったそれに、手塚は再び乾にぎゅっと抱きつく。

乾も察してくれたようで、手塚を強く抱き締め返してくれる。

温かな腕と、満たされた心。

ただ、幸せで。

手塚は無意識のうちに瞼が落ちてくるのに逆らえなかった。


「乾・・眠い」


夜通しチョコを作っていたのだ。

気が抜けたら、眠くなるのも当たり前。


「学校は?どうするの?」


そう聞きながらも、乾は手塚の体をベッドに横たえてくれている。


「休む」


前々からそう考えてはいたのだ。

中学三年ということもあり、

手塚のもとにはきっとたくさんの生徒がチョコを渡しにくるのだろう。

けれど。


「お前がチョコを貰う姿なんてみたくない」


これは、本音で。

いつからこんなに心が狭くなったのかは知らないが、

やはり乾に他の誰かがチョコを渡すのを見るのは、ひどく心が痛んだ。

だからこうして、朝一番に乾の元へやってきたのだし。


手塚の言葉を聞いた乾は、ふと目元を緩める。


「今日は随分素直だね」


「うるさい」


落ちてくる瞼に逆らうことができずに、うとうとしながら、乾の柔らかい声を聞く。


「だったら俺も休もうかな」


言った言葉は、手塚が言わなくとも期待をしていた言葉で。


「当然だ」


と返したら、乾が瞼に一つキスをくれた。


「一番貰いたい人からは、もう貰ったしね」


そう、耳元で囁かれて、手塚は僅かに身じろぎをする。

そうしてぼんやりとした視界のまま、乾に手を伸ばせば、

乾もその手を取って、手塚の隣にもぐりこんでくる。


「・・お前も寝ろ。まだ早い」


僅かに残った意識の中で、そう告げる。


「そうだね」







意識が途切れる瞬間に聞こえたのは、乾の、こんな言葉で。


















「・・おやすみ、手塚。


   愛してるよ」














温かい腕に包まれながら、手塚は、幸せな眠りにおちた。