遠くの月を、ぼんやりと眺めているかのような感覚。


視界がかすんで、その上を鈍い光が掠めた。



しっかりと捉えるべきものが分かりかけているのに。



掴みきれない焦燥感がひどく心を震わせる。



捕まえなくてはいけない。



けれど、まだ何かが足りない。



自らを作る大切な一部分がかけていて。



夜空に妖しく浮かぶ月に向かって、自分はまだ飛び立てないでいる。





何が足りないのか。



心の中に浮かんでは消える曖昧なその正体を、


本当は分かっているのかもしれないけれど。



自分を飛び立たせてくれるきっかけが何もなかった。



だから、まだ、俺は飛び立てないでいる。






+孵化







水の中から浮き上がる感覚。


暗い海の底から、泡立つ水面に顔を出すかのように意識がはっきりと浮上してくる。





『手塚はまだ大人になりきれてないんだな』





触れられた額から、どくどくと熱い血が流れ込んでくる気がした。



指で眉間の皺をなぞられて、体がぞくりと疼く。


こんな感触は初めてで、どうしていいのか分からなかった。


ただ、その指が自分の求めているものを与えてくれるような気がして、


手塚はそのまま目の前の人物に視線を移した。



表情が分からないほどの厚いレンズをした眼鏡をかける彼は、

背の高い手塚よりも更に背が高かった。


見上げるようにして、自分を見つめるその瞳に視線を合わせる。



すると意識の底からすっと清浄なものが体中を回り始めた。




ああ、この人間は。






自分がずっとずっと探していたものを教えてくれる人。






欲していて、見つけられなかったものを、簡単に差し出してくれる人。







意識を覚醒させるほどの快感に心を震わせながら、手塚は次の言葉を待った。




『周りにはあんなにも大人だと見られてるのにな』




長くて綺麗な指が手塚の眼鏡を外す。

それに抵抗することなく従って、その間も目の前の人物を見たままだった。

眼鏡を外した手が再び眉間の皺に手を伸ばす。




『お前が大人なら、もっとうまく笑えるはずだよ』




大人ってさ、嫌なときでも笑って見せたり、

辛いときでもそういうそぶりを見せなかったり。

感情をうまく隠して、上手に世の中を渡っていくもんさ。





普段あまり表情を変えない乾が、少し頬を緩めて笑った。



乾の言葉に、そうなのかと心の中で思ってみる。


確かに、大人は。

嫌なことがあったとしても、手塚のようにあからさまに不快な表情をしたり、

辛い時にもそれをうまく笑顔の下に隠して、

何事もなかったかのように。平然と。




『だけど手塚は何があってもそのままだ。・・楽しいこととかある?』




乾はどこか楽しそうにそんな問いを口にした。

真面目に質問に答える手塚を、案外気に入ったのかもしれない。



きっと、面白いことなどたくさんあるのだと思う。



けれども自分にはそれを感じるための何かが欠落していて。


面白い、楽しい、辛い、悲しい、いとおしい。


全ての感覚が煩いものでしかなくなっている。




どうすればいい?




俺はいつまでも、その何かを手に入れられなくて足掻いている。


足に糸が絡まった蛹のように、いつまでも自らの殻から抜け出せない。




逸る焦燥感。




答えを持っているこの人間が、足掻いている俺を早くここから解放してくれないかと、


息を飲んで待っている。




早く、早く。




貴方が持っている答えをください。





『でも、手塚はそのままでいいと思うけどね』





だって笑ってる手塚なんて怖いでしょ。



そう言って、乾は手塚の眉間の皺をひとつ指ではじいた。





薄い膜でできた小さな泡が、弾ける感覚。





何か足りなかったものが心の中に降ってくる。


今すぐにでも腕の中に抱きしめて、熱を与えたいと思うほど、大切な何か。


ふわり、ふわりと柔らかな綿が心を覆っていく。

手塚はその暖かさに思わず目を閉じた。



目を閉じると、小さい頃にいた暖かな場所が


桃色の光を宿した柔らかい、優しい何かが思い出されて


手塚はゆっくりと目を開けた。




ああ、そうか。

そうだったのか。




目を開けると、すでに手塚の前に乾の姿はなく

ロッカーの前で着替えている乾が目に入った。



「手塚?」




気が付くとそこは紛れもなくテニス部の部室だった。


近くには、ぼぉっとした様子で立ちすくんでいる手塚を心配する大石がいた。


「大丈夫?」




今まで、乾以外の人間の姿は視界の中にいなかった。



乾以外見えなかった。





見えていたのはただ、乾だけ。





今まで頼りない羽を携えた自分が



飛びたくて



それでも飛び立てなかった堅い殻に





乾がひびを入れてくれた。






どくどくと体中の血が、戒めを解かれた羽へ向かって流れうとしている。




手塚は再びゆっくりと目を閉じた。


初めて感じる殻の外の空気はあまりにも心地よい。



瞼の裏には、乾の姿だけが思い浮かべられて


それだけで暖かくて、幸せだった。









ただ



自分は



この感情の名を



知らなかった。