真白い紙に思いを込めて。

余計な言葉は必要ない。

短い言葉ただ一つに、思いの丈を書き留める。


手に収まるくらい小さなカードには、ただ一言。


『I LOVE YOU』


瞼を閉じて、愛しい人にこの思いが通じるように願いを込める。



手塚は小さな小さな白いカードに一つ、翼のようなキスをおとした。





+バレンタインデー・キッス+





行動は計画的で。

何度も何度も頭の中でシュミレーションを繰り返した。

データを取るのは恋人の得意とする分野であったはずなのに、

ここまで用意周到になっている自分に軽く呆れそうになる。


1組の体育の時間は5時間目。

となるとお昼休みに乾のクラスにジャージを借りにいけばよいのだ。

そこまで考えて、手塚は黒板の上に掛かっている時計を見上げた。

時計の針は9時を指し、決戦の時間まではまだ程遠いことを知らせる。

手塚は一つ息を吸って軽く吐いた。

まだまだ時間はあるというのにこの自分の緊張の仕方は何だろうと思う。


やはり慣れないことはするものではないのかもしれないという不安に駆られながら、

手塚は心を落ち着けるかのように、ぎゅっと瞼を下ろした



前もって決めていた計画通りに、昼休みに乾にジャージを借りにいった。

もちろん、本当に忘れたわけではない。

昨日のうちにジャージは家で鞄から抜いておいて、タンスへと丁寧にしまった。


1組から11組までの道のりにいつもはひどく不快な気分にさせられる。

どうしてこんなにも遠いのだろうかと。

どうして近くにいられないのかと。

けれども今日はその長い道のりが救いのように思えた。


一歩歩くごとに心を落ち着けようと、必死で理性を総動員する。

ジャージを借りにいくだけでこれでは、目的を達成するときにはきっと

平常心なんかではいられない。


クラスに向かい、乾を呼ぶ。

その呼ぶ声に気づいた乾が手塚に近づいてくる。

手塚にはまるでその乾の一動作一動作がスローモーションのようにゆっくりと見えた。

一つの動作ごとに高まってくる鼓動を手塚は必死で抑えようとする。


気づかれてはいけない。

まだ計画は始まったばかりなのだから。



『ジャージを忘れたんだ。貸してくれないか?』


近づいてくる乾にそう告げる。


声は震えていなかっただろうか。

頭の中で繰り返す自分の声はどこか不安げで、手塚はそんな自分に眉を顰めた。


『手塚が忘れ物するなんて珍しいね』


その声から、きっと乾は驚いているのだろうと分かる。

けれども乾の瞳は厚いレンズに覆われていて分からない。

だからこそ手塚は、もしかしたら見透かされているのかも、という不安が拭えないでいる。

『俺も忘れ物くらいする』


そう言葉を返すと乾は少し笑って、『ついておいで』とロッカーまで案内してくれた。


ジャージを手渡されて、手塚は乾に簡単にお礼を言って教室まで戻った。

腕の中の緑色をしたジャージを見て、

手塚はできるだけ気づかれないようにジャージを両腕で抱きしめた。



作戦、決行。



体育が終わり、手塚は素早く着替えを終え、乾から借りたジャージを手早く畳んだ。

そして深く息を吸って、穏やかに吐く。


誰にも見られていないことを確認するために手塚はあたりを見回してみた。

するとクラスのメンバーは自分の着替えを優先しているため、

あまり周りのことは気にしていないようだった。

そのことに少しだけ安堵を覚えて、

鞄の中から取り出した小さな小さな包みを乾のジャージのポケットへ入れた。


乾は気がついてくれないかもしれない。

けれども、

どうにか思いが伝わりますように。


手塚はそう思いながら、ジャージの上からそっと包みに触れた。


ジャージを返しに行く時は、借りにいくとき以上に緊張した。

11組の教室まではまだ道のりは遠いはずで、

早くその教室に向かわなくてはいけないのにどこか足取りは重かった。


6組の教室の前を通るときに不二と菊丸に会うことだけは避けたかった。

会って話が長引いたらこのジャージを渡しにいくことができないからだ。

折角、今渡しにいくと心を決めたのにそれができなかったらまた決心が揺らいでしまう。

歩みを進めて、無事に6組の前を通りすぎることができたのを確認したとき、

手塚は少しだけ肩を撫で下ろした。


ここから先は11組に向かうだけだ。

腕の中のジャージに想いを託す。

体中の血液の流れが聞こえてきそうなほど、緊張しているのがわかる。

こういうとき、人は逃げ出したくなるのは何故だろう。

目的を達成したいはずなのに羞恥心が込み上げてきて。

その先には望むべきものが見えているのに、

目の前に立ちはだかる壁に戸惑いを感じるのだ。


手塚は手にしたジャージを軽く握る。


彼は。

この緑色のジャージにどんな思いを寄せているのだろうか。

ほとんどレギュラー落ちをすることがなかった彼が、

ずいぶんと長い間このジャージを着ていた時期があった。

それは時間にすればほんの僅かな時間でしかなかったはずなのに、

手塚の中にはしっかりとした記憶として頭の中に残っている。

コートの中に乾の姿はなく、いつもいるはずの隣には、

古ぼけて青い色をしたベンチがあるだけだった。


乾は金網の外、一人ノートを片手にデータを取る。

その姿に心がキシキシと嫌な音を立てて歪んだ。

決して乾への同情などでも、悲しみなどでもない。

重なりあっていた歯車が何かの拍子でかみ合わなくなってしまった。

そんな感覚。

歯が互いに擦り合い、その摩擦で滑車は動きを止めてしまう。

その時の自分も、まるで潤滑油のなくなった歯車のようだった。


手塚は11組の直前まで来て、その足を止めた。


結局、自分は乾のことを愛してやまないのだと思う。


その結果、自分はここにいるのだから。

教室のドアを開けて、乾の姿を視界に映す。

11組は、次は移動教室であるのかほとんど人はおらず、

乾の姿を見つけるのはひどく容易だった。

手塚が乾を呼ぼうとしたその前に、乾がこちらに気づいて手塚のもとへやってきた。


ぱたぱた、と手塚の横を数人の生徒が駆けながら教室を出ていく。

どうやら休み時間の残りはそれほどないらしく、

彼らは急いで特別教室の方へと向かっていった。

それとは対照的に悠々とした足取りで自分の前に歩いてくる乾を、手塚は見上げる。


「お前は行かなくていいのか?」


足早に去っていく11組の生徒を横目で見ながら、乾へと視線を移す。

彼は、静かに笑っていた。


「手塚がジャージを返しにくると思ってね」


言外にお前のことを待っていたのだと言われたようで、手塚は僅かに眉を顰めた。

乾に迷惑をかけるのならば、もっと早く返しにくればよかったと後悔する。


「すまない」


持っていたジャージを乾に手渡す。

ここで受け渡しに失敗をして、乾がジャージを落としてしまったらと

嫌な予感が頭の中をよぎったが、無用な心配になったようだ。


手塚が腕に持っていたジャージは、今は乾の腕の中に収まっている。

手塚は悟られないように心の中で安堵のため息を漏らした。


後は、乾が気づくかどうかは運を天に任すしかない。

渡してしまったという事実が、後はなるにしかならないという感覚を手塚に抱かせて、心が安堵で満たされていく。

もし乾が手塚のプレゼントを見つけたとしても、

手塚の目の前で見られるということがないという確信も手塚を安心させていた。


「じゃあな」


くるりと後ろを向いて、乾に背を向ける。

目的は達成できたのだから、早々に去るのがよいだろう。

そう思ったのだが、手塚は後ろから伸びてきた手にそれを阻まれた。


「手塚。ちょっと教室、寄って行ってよ」


何のために、と聞く暇もなかった。

軽く腕を引っ張られて教室の中へ連れていかれる。


特に断る理由も思い浮かばずに、手塚はそのまま乾の後ろへついていった。

教室の中に入るとそこにはすでに誰もいないため音はなく、

電気さえも消されていて、ぎこちない違和感を感じる。

二人の歩く音が乾いた床に反響して、やけに大きく聞こえた。


乾は手塚を自分の席へと導いた。

自らの机に軽く腰かけて、乾はジャージを机の上に置く。

それと同時に手塚は乾に引き寄せられた。

体勢を崩して、自然と体は乾に寄りかかる形になる。


「手塚」


名前を呼ばれて、耳の付け根に温かく触れてくる唇があった。

その感触に咎めるように乾を見上げると、そこには手の平に乗るほどの小さな箱があって。


手塚は瞬間全ての動きを止めた。


目を瞠って乾と白い小さな箱を見つめる。

乾は、もしかしたら何もかもお見通しであったのかもしれない。


「これありがとね」


乾の手に収まる箱を見て、手塚は思わず視線を逸らす。

まさかこんなに早く、しかも目の前で気づかれるとは思ってもいなかった。

少々、この男を侮りすぎてしまっていたようだ。

乾と、恥ずかしさゆえに視線を合わせることができない。


白い小さな箱には、同じく真っ白なカードが添えられている。

プレゼントだけではなく、添えたカードには一言、愛のメッセージ。

自分の前で見られることなどないと思ったからこそ書けたものだったのに。


そのカードに書かれている文字を認めて、乾は満足げに微笑んだ。


「・・分かっていたのか?」


「大体ね。だってまず手塚が忘れものするなんておかしいじゃない。

それに、期待してなかった訳でもないし」


手のひらで手塚の渡した箱を弄んで、乾はそれに軽く口付けた。


その仕草に、ぞくりと背から腰まで通るような感覚が手塚を襲う。


カードに想いを込めて。

言葉を書くときに手塚が落とした小さなキス。


手塚がカードにキスをするイメージと、今の乾の姿が重なって

体の中に浮かされるような熱が回ってくる。

間接キス という言葉が頭の中に浮かんで少々慌てた。

もうそんな幼いような思いに恥じるような関係ではないというのに。

考えないようにしようと思うほど、心の中を占める思いに手塚は眉間の皺を深くする。


「手塚」


抱きしめられて、鼓動が高鳴る。

その想いに気づかれないように必死で湧き上がる心を抑えて、思わず手塚は下を向く。

しかしそれを阻むように伸びてきた手によって手塚は上向かされ、

口唇に温かい感触が触れた。



チャイムが鳴るまでの一分四十秒の間、二人で貪るように口付け合った。

誰もいないのをいいことに、深く唇を合わせてお互いの熱を感じる。

体に絡みつく腕と、お互いの呼吸で体の中に更なる熱が降り積もっていく。



チャイムの合図と同時に、二人は体を離した。

名残惜しい空気が流れるのはどうしても否めない。

三秒、瞳を見つめ合って、その五秒後に手塚は教室のドアへときびすを返した。

乾の腕に抱きしめられた腰が、妙に甘い疼きを孕んでいる。


「帰ってゆっくり中身を見るよ。お返しは何がいい?」


かけられた声に振り向く。

呑気にそう問う乾に、手塚は去り際に簡単に、こう答えた。


「お前。」


11組のドアを閉めて、足早に1組へと戻る。

誰もいない教室に一人残った乾が、手塚の言葉に驚いて、

どういう意味で手塚がそう言葉を発したのか考えている姿を想像すると、

何故だかとても。 幸せな気分になった。






来月に一体、乾はどんなお返しをしてくれるのか。


少しだけ、期待してみてもいいだろうか。