+優しい檻+





「手塚くん、・・ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」



それは滅多に話すことのない女生徒からかけられた言葉。

よく知りもしない人間であるのにも関らず、突然かけられた「お願い」という言葉に、

手塚は無意識に眉間に皺を寄せた。
仲が良い人間ならまだしも、こうして親しくない人間からの願いは、

大抵煩わしいものであることを手塚は経験上から知っている。

しかし、それほど親しくない彼女がわざわざ手塚のもとへやってくるのだから何かあるのだろう。

そう考えを結論付けて、手塚は声をかけてきた女生徒に向き合った。



「願いとは・・?」



手塚がそう返事をすると、女生徒は少し躊躇い、視線をあちこちに彷徨わせてみせた。

その行動に手塚は更に眉間に皺を寄せて、女生徒に強い視線を向ける。

そう、あのときも確かこういうシチュエーションだったと思う。


あの時は。


見ず知らずの女生徒に声を掛けられ、何事かと問うと、不二にラブレターを渡してくれという。

もちろん、その女生徒には自分で渡しにいくよう諭し、その要請を断ったが、確かに後味は悪かった。

どうして渡してくれないのだと訴える女生徒の強い瞳が今でも印象に残ってもいる。

まさか、と手塚は悪い予感に駆られる。

もしかしたら今回もその手の願いなのではないか。

そう思わせるほど前回のケースと今回のケースは似通っている。

手塚は内心思わず心構えた。



しかし、どうやらその心配は杞憂だったようだ。

女生徒は彷徨わせていた視線を手塚に移し、意を決したように口を開いた。



「・・手塚くん、文化祭のMrコンテストに出てほしいんだけど、どうかな?」







「それで?手塚はそれをOKしたわけ?」



乾のどこか楽しげな声に、手塚は眉を顰め、強い視線で乾を睨んだ。



「OKする訳がないだろう。皆の前で晒し者にされる訳にはいかない」



どこか拗ねたような手塚の口調に、乾は自然と笑顔を浮かべる。



「別に皆に笑われるって訳じゃないんだからいいじゃない。

 手塚が出れば女の子たちからの歓声がすごいよ、きっと。失神する人も出たりして」



茶化すような言葉の中に、それでもどこか文化祭に出ればいいと諭すような口調もあって、

手塚の心がほんの少しだけ揺れる。



「俺はそういうのに向いていないというんだ。

 特に愛想を振り撒ける訳でもないのにそういう場に出るのが不釣合いなんだ。

 俺じゃなくて不二や菊丸の方が向いているだろう」



言っていることは本音であり、事実であろうことなのだが、

知らず知らずのうちに口調が厳しくなっていて、それに気づいた手塚は

少しだけ自分の子供じみた感情を反省する。



別に、乾のことを怒っているわけではない。

ただ乾が『出るな』と言ってくれないことに少しだけ理不尽さを覚えていた。

いつもならば手塚の嫌いなことはする必要はないのだと、

柔らかい布で包み込むように手塚を甘やかしてくれるのに、今回はそうではない。



手塚は心のうちにもやもやとした言い切れない感情が湧き出してくるのを感じた。

しかしいつもの通りに顔には表さないようにしながら、その正体を突き止めようとする。

手塚はふと視線をあげ、自分より少し高い位置にある乾の表情を見た。

すると乾はそれに気がついたように手塚を見て、ふっと表情を緩めた。

きっと厚いレンズの奥の瞳も和らいでいるのだろうと容易に想像することができる。

見上げていると、乾はそっと手塚の頭に腕を伸ばした。

そしてぽんぽんと優しく頭を叩いた。


まるで、分かっているよ、とでも言いたげに。



「手塚は好んで前に出ようとはしないじゃない。だからさ、たまには思い切って前に出てみたら?

 手塚は色んな可能性を持っているから、チャンスを潰さずに色々チャレンジした方がいいと思うんだ。」



乾は自分に優しさをくれないのではない。

手塚が気がつかない範囲の中で、けれども確実に自分を包んでくれている。

呼吸ができるほどの薄い膜の中、目にはっきりとは見えない形で乾はそれを与えてくれるのだ。

ほどよい圧迫感と温かさはどれだけ手塚を楽にしたのだろう。


手塚は、自分が無意識のうちに乾に甘えていたのだと気づく。

乾が甘やかしてくれるものとばかり思っていたのだが、実は自分が乾に甘えを見せていて、

それを敏感に察知した乾がすっと手を差し伸べてくれていたのだ。


乾はいつでも手塚のことを第一に考えてくれている。

だから今回も、乾は手塚にとって最良の方向になるように言葉を選んでくれた。

そういう公の場に出ることを頭から否定するのではなく、手塚のためになるのならばと。


乾はそういう優しさを持っているのだ。


普段はあまり使われていない、心の奥の感情が溢れてきてしまいそうで、

手塚は手を握り締めることできゅっとそれに耐えた。

いつからか、完璧だった感情を抑えるための壁が、乾の前では脆くなっていた。

大丈夫なのだという安心感。

それが手塚の中に芽生えてきて、乾の前では感情を隠すことがひどく不得意になったと思う。

下を向いて、なぜか震える手を握り締めながら手塚は小さく呟いた。



「・・馬鹿だな・・」



それが聞こえたのか知らないが、乾は俯いた手塚の頭を優しく撫でて穏やかな空気を纏ったままこう呟いた。



「まあ、本音としては手塚をみんなの前に見せるなんて嫌なこと極まりないけどね」



その言葉に手塚はふっと表情を緩めた。

優しさの中にこうしてたまに見せてくれる独占欲。

それがひどく愛しかった。


やっぱりこうして本音を言ってくれたほうがいい。

自分だってみんなの前に出たいだなどと思っていなかった。

皆のものでなどなくていい。

ただ乾だけの一番になれれば、それでよかった。

乾は手塚のことを考えてくれていたのだけれども、

手塚にとって何よりも大切なことがこれなのだから、譲る気はない。


手塚は顔を上げて乾と視線を合わせた。


いつもならば、抱きしめてほしいと思うときには決まって乾の腕が降りてくるのだけれども。


今日は少しだけ自分から行動してみようかと思った。


指先まで、乾に触れてほしいという衝動に震えていて、自らが欲するままに腕を伸ばすと、

乾の腕に優しく抱きこまれた。


あたたかい。


乾の肩の上に額を乗せて、そっとその感触を味わうように目を閉じた。



「俺はお前だけ・・。お前だけ俺のことを見ていてくれればそれでいい」



くすり、と笑った気配がした。

こめかみに唇を寄せ、そっと囁く乾の声が心地よい。



「最高の殺し文句だよ、それ」