+夜風







サンダルを履いた足の指先に触れる風が、もうすぐ終わる夏を告げていた。








近くに広い公園があった。

川の傍に作られている公園は街中にあるにしては珍しく広く。

この近くに住んでいる人の憩いの場となっていた。

昼間は絶え間なく子供たちが遊ぶ声が聞こえ、母親たちの楽しそうな話し声が聞こえる。


乾と手塚は今日、部活の帰り道に、ここへ来る約束をした。

帰り道に遠回りをしてこの公園の前を通ったことがきっかけだった。

自分たちが小学生だった頃には、そこには古ぼけた怪獣が立っていたり、

色あせた遊具があっただけだった。

しかし、久し振りにその公園の前を通ったときには、昔の面影はすっかりなくなり、

近代的な色使いの新しい遊具が並んでいた。

古ぼけた怪獣は色を塗り直されたくましくなり、

色あせた遊具は全て子供たちが好みそうな鮮やかな色使いのものへと変わっていた。

あまりに変わってしまった光景に手塚は小さく眉間に皺を寄せた。

確かに自分たちの場所であったあの公園はなくなり、

今は自分たちとは違う子供たちが、公園で我が物顔で遊んでいる。



もう自分たちの遊び場であったあの公園はないのかと。

子供の頃に持っていた基地が、他の子供に奪われてしまうような悔しさ。



そんな思いに胸が少し痛んだ。

もちろん、今の手塚はそれを取り戻そうなどとは思わないのだけれども。



何かを思案しているような手塚に気づいたのか、

乾も立ち止まって変わり果ててしまった公園に目を向けた。


「ずいぶんと変わったもんだな・・」


右へ、左へと首を巡らして乾は公園の様子を見渡す。

頭の中のデータと照らし合わせて、

変わってしまったところを一つずつ探しているのかもしれない。


「そうだな・・」


時はいつも動いているということを忘れているわけではない。

古くなったものはいつしかなくなってしまうのは当たり前のことなのだ。

けれども、不意にそれを強く思い返される。

例えば自分が人生の節目にいるとき。

これまでの自分の思い出を振り返り、あの時はこうだったなとそう思い返す。


時は流れ、戻らない。


突然、乾に腕を取られた。

驚いた拍子に乾を見上げると、眼鏡の奥で少しだけ笑っていた。


「今日の夜、ここに遊びに来ない?」


手塚は子供たちが無邪気に遊ぶ公園を見つめた。

今日くらいは、かつて自分たちの基地だったこの公園を取り戻してもいいのだろうか。

夜の誰もいない公園を思い浮かべて、少しだけ頬を緩めた。


「そうだな・・」


今日の夜、ここが自分たちだけのものになる。












8時に公園の入り口で乾と待ち合わせた。

時間の5分前に公園に到着すると、もうそこに乾がいて、少し早足で乾のもとまで歩いた。


「早かったな」


「いや、俺も今きたとこ」


行くか、と促されて二人並んで公園の中へ入っていく。

昼間とは違い公園の中は薄暗く、広いからこそ一種の静けさを有していた。

二人はどんどん公園の奥へと足を踏み入れていく。

目的の場所は水の流れるプール。

この公園には夏場、子供たちが水遊びを出来るようにと

浅い池のような遊び場があるのだ。


さすがに夜になってそこで遊ぶ子供たちはいないだろうと、

そこへ向かうことに決めたのだ。

二人の視界に小ぶりな水遊び場が入ってくる。


「ここも変わってしまったな」


「そうだね」


自分たちが記憶しているこの場所は、やはり古ぼけていて、

思い出すのは塗料の剥げた水色のプールだけだった。

しかし今はコンクリートでしっかりと作られた滝のような物が設置され、

中は川の水辺のように石が敷き詰められたように見える底をしていた。

ただ、昔と変わらない周りの景色だけが、

ここで自分たちが遊んだのだという記憶を呼び起こさせてくれる。


「ちょっと入ってみようか」


乾はそう言うと、ためらいもなくプールの前でサンダルを脱ぎ捨て、

ズボンの裾を軽くめくった。

水の中に乾が足をつける。

すると子供たちが溺れないように作られたそのプールは15cm程の水深しかなく、

乾のくるぶしの少し上くらいを濡らす程度だった。


「手塚もおいで」


どこか楽しそうに手招きをする乾に手塚は少しだけ躊躇った。

けれども、こんな夜でなくては堂々と入れないだろうと思い、乾に頷いてみせた。

ズボンの裾をたくし上げ、履いていたサンダルを乾のサンダルの横に並べる。

微かに乾が笑った気がしたが、気にしないことにした。

右足からそろそろと水につける。

夏の暑さに包まれた水が、肌を脅かさない程度の温度で指先に絡みつく。

両足を入れて、そのままざぶざぶと音を立てて歩いてみる。

昔の滑らかだった底の感触とは違う、ざらざらとした岩の感触。

それがどこか気持ち悪かった。

新しく作られたのだろう、滝の近くに寄って、手塚はそれを眺める。

夜ということもあり、今はその水は止まってしまっている。

水が流れ出してくるのだろう空間が、今はぽっかりと暗い闇の口を空けていた。

子供たちが夜に滝のこの姿を見れば、きっと怖がるのだろう。

そう思いながら手塚は後ろを振り返った。

乾は周りの景色を懐かしげに見渡していた。

きっと手塚と同じようにかつてこの場所で遊んだことを思い出しているのだろう。


突然、ぎゅっと心臓が締め付けられた。

暑いはずなのにどこか寒くて、

一人で立っていられるはずの場所で、何かに縋りつきたくなるそんな感覚。

自分で歩いたくせに、乾に手を伸ばしても届かない距離にいることがひどくもどかしい。

手塚は服の上から左胸を押さえると、乾のもとへと歩きだした。


しかし2、3歩、歩いたところで手塚は眉をしかめた。

右足の親指に突然走ったチクリという感触。

何事かと思えば、どうやら水の中にあった小石に足を引っ掛けてしまったようだ。

右足を水の中から出してみると、じわじわと赤い血液が染み出してくる。

手塚はそれを珍しいものでも見るかのようにじっと眺めていた。


「何?怪我したの、手塚?」


ひょいと上から覗き込んでくる乾に、手塚は頷いた。


「どうやら、そのようだ」


「そう・・」


乾はしばし考えてみせたあと、手塚の膝の裏と背中に手を回し、そのまま抱き上げた。


「ちょっと大人しくしてるんだよ、手塚。暴れたらいくら俺でも落とすから」


何が起こったのか頭の中で理解する前に、乾に言葉を封じられた。

自分が暴れれば確かにこの状態から抜け出すことはできるが、

すごい勢いで落ちかねない。

怪我があるから仕方がないのだと、

手塚はそう納得して自分の状況を考えることをやめた。


乾はサンダルを履いて、すぐ近くのベンチまで歩きそこで手塚を下ろした。

それから再び戻って、手塚のサンダルを持ってきてくれた。

左の足だけ手塚に履かせて、右足は乾が掴んでいる。


「小さな傷にしては結構深くまで綺麗に切れてるな」


乾は傷に触れないようにしてその程度を確かめる。

手塚は下を向いて乾のそんな様子を眺めていたが、

突然乾が顔を上げ、手塚と視線を合わせてきた。


ずくんと、体の中に重い衝撃が走る。

乾を捕まえようとして必死に水の中を歩いた。

けれども今も乾は遠い。

足を伸ばして傷口を見てもらっているから、足の長さの分だけ乾は遠くにいる。

手を伸ばしても届かない。

体を懸命に伸ばしても届くかどうか分からない。

サンダルを履いている素足が水に濡れていて、敏感に夏の風を感じ取る。

水に濡れた足に吹く風は冷たく、手塚の足にひんやりと触れた。


「痛い?手塚」


乾の眼鏡の奥が微かに心配そうに揺れる。

傷は大して痛くはなかったけれども、血がどくんどくんと不快な音をたてていて、心が痛い。


怪我の痛みなんて関係ない。

けれど、もっと傍にいてほしい。


「大丈夫だ、痛くはない・・」


そうか・・と乾が呟いて、どこから出したのかバンソウコウを傷口に貼ってくれた。

テープの巻き具合を確かめて、乾は右足にサンダルを履かせてくれる。

その行為をただ手塚は上から眺めていた。

近くにいるはずなのに焦点が合っていないかのようにどこかぼんやりとしていた。


「痛い?手塚」


もう一度投げられた同じ問い。

さっき自分は痛くないと答えたはずだ。

頭の中でそう思い返していると、ふわりと乾の腕が背に回った。


「イタイ?」


ああ、この人物は。

ちゃんと自分の願いを分かっていたのだとそう気づいた。

乾が尋ねている意味は傷の痛みなんかじゃない。


心の中にある、寂しさに似た痛み。


背中に回された乾の腕にそっと自分の手を重ねて、ぎゅっと握る。




「痛い・・。いたい・・」




そう、言葉にすることが不思議な気がした。

そういえば、最近痛いなどと口にすることなどなかった。

怪我をして肘を痛めたときも、痛みは心の中に仕舞って、外に出すことなどなかった。


乾が手塚の頭をぽんぽんと叩く。


「よくできました」


乾の腕の中は温かい。

手塚はそっと目を閉じた。


「そういう手塚も好きだけどさ、何も言わなかったら俺のいる意味ないでしょ。

ちゃんと言ってごらん。手塚がどう思ってるのか。

言ってくれなきゃ分からないこともあるしな」






















時は流れ、新しいものを手に入れる。













けれど。















いつか、この時も流れて。









過去の思い出だと、笑うのだろうか。