許されるのであれば。 貴方ごと全て。 俺にください。 俺は海堂が大切に握り締めている物の正体を知っていた。 それは俺が欲しいと心から願っていた物で。 しっかりと離さないように握り締めて、幸せそうに笑う海堂が何とも妬ましかった。 +絶望+ それはある秋の日だった。 テニス部を引退した手塚は、元部長ということもあり、 放課後後輩たちがどんな風に部活をしているのか見学に行った。 もちろん、弛んでいたら気合を入れさせなければならない。 そう思ってコートに足を運ぶと、そこに見慣れた長身がいることに気がついた。 確認しなくても後姿だけで分かる、特徴的な彼の姿が。 どくん、 一つ心臓が大きく鳴った。 こんなところで会えるなどとは全く期待していなかった。 だからこそ、不意に会うことがどれだけ心を乱すことだろう。 歩む足は思わず止まり、息を詰めるようにしてその後ろ姿を見つめていた。 乾がそこにいることは何の不思議もない。 部活の先輩でもあるし、データを好む人間だから、 自分が後輩たちに与えたデータがどのように活用されているのか気になるのだろう。 それに。 テニス部にはまだ乾の最愛の恋人が残っている。 3年がいなくなり、後輩をまとめていかなくてはならない立場になった恋人に、 世話好きの乾がかまわないはずはない。 そう頻繁でないにしろ、こうして部活を見学に来ることはよくあることなのだろう。 手塚はフェンスの近くで練習風景を静かに眺める乾をただひたすらに見つめ続けていた。 もしかしたら誰かに会うかもしれない、と思っていなかった訳ではない。 けれども、自分の願望が、乾と会えるかもしれないということが実現するなどという、 そんなうまい話がそうそうあってはならい。 そう、頭の中で切り捨てて。 だけれども、こうして乾はいる。 引退してから、部の仲間と会う機会は滅多になくなった。 同じクラスではないのと同時に手塚のクラスは乾のクラスからあまりにも遠く離れている。 そのため、廊下でばったり出くわすということも少なかった。 久し振りに見る乾の姿に、手塚は間違いなく動揺していた。 なんと声をかけてよいのか分からない。 その上、自分がきちんといつものままの自分で話せるという自信はなかった。 好きな人に会って、子供のように安心感を味わって。 ――それとは反対に報われない恋に密やかに絶望感を味わって。 このまま帰ろうか。 そう思った。 そうすれば、何も傷つかなくて済む。 叶わない恋への絶望感を叩きつけられて打ちのめされるより、ずっといい。 こうして後ろ姿を見ることができただけでも幸せなのだから。 そう思って手塚は再び乾の背中を見つめた。 これから先も続くであろう、乾と会えない日々のために、 少しでも乾の姿を目に焼き付けておこうと思った。 けれど。 衝動的に体が震え、視線が乾をきつく睨んでいたのは、あることに気がついたから。 乾は。 ずっと海堂を見ていた。 手塚の視線にも気づくことはなく、ただひたすらに恋人の姿だけを。 それを見つけた途端、足元が揺れて、 まるで自分が柔らかいスポンジの上に立っているような気がした。 どうして、乾は海堂のことしか見ていないのだろう。 こうして自分はずっと乾のことを見ているのに。 乾が見ているのは愛しい恋人の姿だけで。 自分の存在には振り向いてもくれない。 もしかしたら気がついてもいないのかもしれないのだ。 どうして感情はすれ違ってしまうのだろう。 この世界にたった二人だけしかいなかったら乾は自分の方を振り返ってくれるのだろうか。 手塚はそこまで考えて、自分の考えに軽く頭を振った。 そんなことはありえないのだから。 乾の視線の先には、いつも海堂の姿があった。 馬鹿みたいな、子供じみた衝動だとは思った。 けれども、自分が絶望感しか感じることはできないのに、 あの乾に愛されている恋人は、 心地よい安心感と、抱え切れない程の愛情を簡単に手に入れているのだと思ったら、 抑えがきかなくなった。 手塚はゆっくりと乾に向かって歩いていく。 足音にゆっくりと乾が振り返って、すこしだけ驚いたような顔をした。 「・・手塚。久し振りだな・・」 口元を少しだけ緩ませて、乾がそう言った。 「ああ、久し振りだな」 乾の横に立って、手塚は練習を見るふりをする。 コートを見ようとしながらも、意識は隣の人物にしっかりと向いている。 「・・後輩たちの様子はどうだ?」 手塚が問うと、乾はずれた眼鏡を直しながら流れるように話し出した。 「ああ、別に変わったところはないと思うよ。皆熱心に練習しているし。 桃と海堂も頑張って後輩たちを引っ張っていこうとしてるしね。 越前も相変わらず強いし」 「そうか・・」 乾が手塚に今まで書き留めていたのだろうノートを見せた。 そこには結構な量のデータが溜まっていて、 乾がここに何度も足を運んでいたのだろうということが伺えた。 「あとは・・」 乾がノートをぺらぺらとめくって手塚に見せるためのデータを探しだす。 そのほんの一瞬、手塚は視線を感じてコートに目を向けた。 こちらを見ていたのは海堂で、 手塚と目が合うと、海堂はさっと何事もなかったかのように視線を逸らした。 きっと海堂は、乾の隣に突然手塚が来て嫉妬のような感覚を覚えたのだろう。 そんな海堂を見て、手塚は内心で乾いた笑みを浮かべた。 小さなことで、乾の大切な恋人の心を乱せたことに少しの優越感を感じる。 「ああ、あった。これだ」 手に持ったノートを見ようと、手塚は乾に体を寄せた。 触れ合うか触れ合わないかまでの距離に近づいて、手塚はデータの説明を請うた。 「乾、桃城のこのデータは何だ?」 大して大切なものとは思わなかったが、手塚は敢えてそう尋ねた。 ノートを手に細々と解説してくれる乾に意識を向けながら、 それとともにコートから向けられる視線も感じていた。 わざと、だ。 手塚が乾に近づいたのはわざとだ。 海堂が自分に嫉妬の感情を向けるように、心が乱れるように。 この年にもなってひどく子供っぽい感情だとは思ったが、 乾を手に入れている海堂と比べれば、これくらいの悪戯は許されるものだと思った。 手塚は顔を上げて乾の表情を伺う。 懸命に説明を重ねていた乾は、手塚が自分を見ていることに気づいて話をやめた。 「どうした、何か分からないところでもあった?」 顔を見上げて、乾の顔を見て。 自分だけに向けられる表情が永遠に自分だけのものであったらと、そう願ってしまう。 手塚はふと視線をずらして、目に入ったものに視線を止めた。 それは衝動にも近い感情だった。 「卒業式の時、俺に第二ボタンをくれないか」 唐突にそう口にした。 今日の俺はどうかしてしまっているのだろう。 自分で自覚はあったが、止める気などさらさらなかった。 何でもいい。 証が欲しかった。 恋人ではなかったけれど、ちゃんと自分は乾の近くにいたのだと。 些細な独占欲に呆れたように内心で苦笑いを零すが、 それを凌駕するくらい、乾の物が欲しかった。 「・・第二ボタンは無理だけど・・」 乾の言葉に手塚は何の感慨も覚えなかった。 もらえないことなど分かりきっていたからだ。 どうせあの恋人にやるのだと、乾は表情ひとつ変えずに言うのだろう。 手塚は思いっきりフェンスを殴ってしまいたい衝動を覚えた。 心の中の整理がつかなくて、思いっきり何かにあたってしまいたい衝動。 子供みたいだと心の奥で思うけれども、 まだ自分は子供なのだと、そう思うことでどこか自分を許していた。 しかし、乾から返ってきたのは思いもよらない言葉だった。 「・・第一ボタンならまだ予約は受付中だけど?」 読めない乾の言葉に手塚は少しだけ顔を上げた。 乾は何も表情を変えることなく手塚を見下ろしていた。 いつも分厚いレンズのために、目の表情は見えない。 何を考えているのか分からない男から目線を逸らして、 手塚はコートの中で黙々と練習をしている海堂を見つめた。 「・・約束だぞ」 手塚の言葉でその意を汲み取ったらしく、乾が口の端で小さく笑った。 「ご予約有り難うございます、かな」 卒業式が終わり、三年はそれぞれのクラスに戻り、担任から挨拶を受ける。 そしてそのうち在校生は校門までの間に列になって道を作り、 卒業生が学校を出ていく姿を在校生が見送るという仕組みだ。 それだけでなく、後輩たちはお世話になった先輩のために 花やプレゼントを用意して待っていたりもする。 最後のHRが終わり、卒業生が外へと集まりだす。 手塚も下駄箱まで降り立ち、そこで他のクラスの三年が降りてくるのを待った。 テニス部は後輩たちがまとまって先輩に花を渡すのが恒例になっていて、 それを知っている手塚たちはテニス部の三年の皆で、 後輩たちが作ってくれる道を通ろうと決めていた。 クラスごとにHRが終わって、次第にテニス部のメンバーが集まってくる。 背中を軽く叩かれて振り向くとそこには大石がいて、 そして河村、不二、菊丸と卒業証書を片手にやってきた。 「みんな、もう卒業だね・・」 不二がそうつぶやくと、菊丸が笑って不二の背中を叩く。 「何言ってんだよ不二〜。どーせみんな同じ高校じゃん。持ち上がりなんだし。 また同じクラスになれたらいいなぁ」 そういう菊丸の声もいつもよりどこか寂しげで、 中学校生活の終わりに少なからず感慨を抱いているのだと分かった。 「そうだね」 不二がいつもの微笑みを湛えて、皆に笑いかける。 「みんなと一緒のクラスになれたらいいね」 河村と大石も加わって四人は他愛もない話をしていたが、 手塚は気が気じゃなかった。 乾が来ない。 もうすぐ卒業生は後輩たちの作ってくれる花道を通って学校を出なくてはいけないのに 乾は一向に現れなかった。 何をしているのだろうか。 手塚は苛々とした気持ちを抑えきれずに、ついつい睨むように 乾が降りてくるはずの階段を見つめた。 最後くらい、こうして共に戦ってきた仲間が集まっているときくらい、 乾とゆっくり話したかった。 皆同じ高校へ行くのだということはもちろん承知だ。 けれども、自分も名残惜しく思っているのかもしれない。 この中学校生活を終えること、そして少なからず乾と離れてしまうことを。 「乾、遅いな・・」 心配症の大石がそういうと、皆が一斉に階段の方を向く。 「そういえば遅いね」 「気にすることないよ。きっと乾のクラスのHRが長引いてるんだよ〜」 「乾が時間に遅刻するなんて聞いたことがないしな」 みんなで口々にそう言っていると、階段から見慣れた長身が現れた。 「あ!乾〜、こっちこっち〜」 菊丸の大げさな身振りに乾は少し手を挙げて、ごめんごめんと言って近づいてきた。 「遅くなったね」 「ホントに遅いよ。こないんじゃないかって思っちゃっただろ〜」 菊丸にぺしっと背中を叩かれて、乾は皆の輪の中に入ってきた。 手塚はその間、何も言わなかった。 あることだけが気になって声もかけることができなかった。 乾の学生服の上着には、既に第一ボタン、第二ボタンがともになく、 もしかしたら自分のことを忘れて誰か他の人間にあげてしまったのではないか そう考えてしまう自分がいて、見えないところでぎゅっと手を握り締めた。 心の中に重い感情が渦巻いていて、抑えるためには何か他の力が必要だった。 感情が外へと飛び出してしまわないために、きつくきつく手を握る。 自分がどれほど乾からボタンをもらえることを楽しみにしていたか思い知らされた。 乾は友人の言葉を戯れととらえて、軽く返しただけだったかもしれないのに、 乾からボタンをもらえるかもしれないと待っている自分がひどく滑稽に思えた。 「あ、乾〜!もうボタンがなくなってる!この人気者〜」 菊丸が大声で手塚の傷口を開くことを言う。 もちろん、何も知らない菊丸に罪はないが、どうしてもうらまずにはいられなかった。 「そういう英二だってもうほとんどボタンないじゃない」 不二の言葉に菊丸は少し照れた風に笑う。 「俺のはみんなお情けでもらってくれてるんだよ」 話が逸れたことに安心して、手塚は小さく息を吐く。 これ以上乾のことに触れてほしくなかった。 感情を落ち着けようと手塚は下を向いた。 すると、肩にぽんと置かれる手の感触を感じて、手塚は顔を上げた。 「・・手塚」 耳元の近くでそう呼ばれて、手塚は思わず体を強張らせた。 しかしそれもすぐに解けて、いつもの通り無表情を装って乾に相対した。 「遅かったな」 「ちょっと用事があってね。それより・・」 乾は手塚の手を取って、その上にそっとある物を乗せた。 「はい、ご予約の品」 手に乗せられた物を見て、手塚は驚いて乾の顔を見た。 「これ・・」 「いらなかった?」 「いや、・・有り難う」 覚えていてくれたのだ。 ちゃんと。 自分のためにと。 乾はボタンを取っておいてくれていて。 握り締めた手の中から愛しい熱が伝わってくるようで、思わず目頭が熱くなる。 幸せってこういうことなのか、と初めて気づく。 人から与えられる優しさはひどく暖かい。 それが大切な人から与えられる優しさであればなおさら。 あたたかい。 中学生時代、愛した人の記念として。 このボタンはいつまでも残ってしまうのだろうけれども。
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