「乾先輩」 そう、突然声をかけられた。 「先輩はドキドキすることなんてあるんすか?」 愚問だと思った。 +愛しさと迫りくる予感+ 『先輩はドキドキすることなんてあるんすか?』 突然、そう問いかけてきた彼の言葉が頭の中を回る。 一体彼は自分のことを何だと思っているのであろうか。 自分はきちんと血の通っている人間なのだから、心拍数の増加など通常にありえることだ。 乾は持っていたシャープペンを指でくるりと器用に回す。 教室では理科の教師が延々と物体の摩擦とは何かを述べている。 しかし乾にはそんなものは教科書を読んでしまえばこと足りるものであり、 大して面白くない授業には耳を傾けていなかった。 そんな中、思い出したのは、いつも元気で部のムードメーカーでもある、彼の言葉。 乾は僅かにため息をついた。 どうして彼はそんなことを聞いたのだろうかと、頭の中は謎でいっぱいになる。 解けない問題があるというのは、人間誰しも気になるもの。 一度問われた謎かけを、答えを教えられずにいるのは、 心の中で消化不良を起こしてしまいそうなほど、辛い。 だから自分でその答えを見つけようとするのだが、上手くその答えが見つからない。 何故、彼はあんなことを自分に尋ねたのだろうか。 いつもの気まぐれや思いつきであろうか。 ひどく、気になって仕方がない。 教科書と同じことしか黒板に書かないという授業は、なんとも効率の悪いものだ。 必死に教師に冷ややかな視線を送り、そうして自らの手首に視線を移した。 自分が生物として命を授かっているのだと、感じることのできる場所。 乾は黒板の上にかかっている時計をじっと眺める。 そうしてきちんと秒針が動いていることを確認すると、 そっと自分の手首の辺りに指を三本乗せた。 親指の付け根の下、皮膚の下を通る血管を探り当てて指を押し付ける。 そこに感じる、自分の脈拍。 人間の平均的な脈拍数は80くらいだというが、自分は毎日体を動かしているため、 人よりは一度に多くの血液を身体中に流し込むことができるようになっている。 そのため、脈拍数は他人より僅かに少ない。 どくり、どくり。 指の下で血の流れる音がする。 これは、自分がちゃんと生きているという証。 乾はそのまま真っ直ぐに黒板の上の時計を見つめる。 カチリ、カチリという音を発しながら動く秒針を見つめながら、 それが12のところへ行くまで静かに待った。 そうして。 秒針が12を指したのを確認して、自らの心音数を確認し始める。 1、2、3、4、5、・・・・。 さきほどから時計をじっと眺めている、優等生の乾を怪訝に思ったのか 教師がチラチラと訝しげな視線をこちらに向けてきたのだが、乾は気にもしなかった。 今はただ、自分が生きているということを確認するのが大切で。 14、15、16・・。 ほら、ちゃんと自分の鼓動は動いている。 人間なのだから、脈拍数の増加など当たり前のことなのだ。 例えば、菊丸に驚かされたとき。 予期していなかった驚くべき出来事に出会ったとき、人は心拍数を上げる。 例えば、手塚に校庭30周を言い渡されたとき。 いくら走りなれているとは言っても、激しい運動をすれば、人の心拍数は上がる。 ・・なのに、何故。 彼はそんな当たり前なことを聞いてきたのだろうか。 『先輩はドキドキすることなんてあるんすか?』 桃城の声が頭を回る。 問い掛けるだけ問い掛けて、さっさと自分の前から彼は去っていってしまった。 追いかけてでも、その問いの主旨を問えばよかったと、乾は今更ながらに後悔した。 考えても考えても、答えは見えてこない。 乾は深い深いため息をついた。 「乾先輩」 部活の始まる前に、昨日大問題を投げつけてくれた後輩が、自分のもとへとやってきた。 「どうしたんすか?何だか疲れた顔してますよ」 乾に重大な問題を投げつけた彼は、きっと何も気づいていないのであろう。 いつものように満面の笑みを顔に貼り付けて、自分の元へとやってきた。 「疲れてるように見えるのか?」 ――ならばそれはお前のせいだ。 言葉にはしなかったが、心の中でそう告げる。 「疲れてますよ。大丈夫っすか?」 ――大丈夫でも何でもない。 昨日、桃城が自分に言ったあの言葉が、 頭の中を回って夜もおちおち寝ていられないのだから。 「大丈夫だよ」 そう、表面上は言葉にした。 もう関りたくはない。 それが素直な心のうちだ。 これ以上、気まぐれかもしれないこの後輩の問いになやまされるのは本当に御免だ。 乾はそうしてクルリと桃城に背を向けた。 そうして足早に後輩の元から去っていこうとする。 けれども。 「乾先輩」 それは叶わなかった。 後ろから声をかけられて、ジャージの裾を掴まれる。 ・・逃げられない。 昨日と同じシチュエーションに、乾は無意識のうちに身体を身構えた。 次はどんな質問をしてくるのだろうかと。 知らず知らずのうちに身体を堅くしていた。 「乾先輩」 再び、明るい声で名を呼ばれる。 ひどく楽しげなその声は、今は乾を苦しめるものにしかならない。 乾は僅かにため息をついた。 そうして振り向こうと心を決めた瞬間。 ――突然、強い力によって乾は無理矢理振り向かされた。 「・・・・・!?」 思いっきり肩を掴まれて、体を捩りながら後ろを向かされる。 突然の出来事に頭は対処できずに。 ただただ視界に入ってきたのは、桃城の。 いつもは見ることの絶対にできない。 酷く、艶やかな笑み。 唇に触れる柔らかい、熱。 それを感知した途端に、それは僅かな余韻を残しながら離れていく。 「乾先輩」 何が起きたのか分からず、唇を押さえながらただ呆然と桃城を見つめていると、 彼はまた元の人懐っこい笑顔を浮かべて、こう問い掛けた。 『先輩はドキドキすることなんてあるんすか?』 ああ。 嵌められた。 この、単純そうに見えて、実は青学一くわせものの彼に。 乾は澄み渡った空を見上げ深く深くため息をついた。 「あるよ。ドキドキすることなんて」 そう告げると、目の前の策士は酷く嬉しそうに笑った。 頭の中は君でいっぱいなのです。 |