+この椅子は誰のもの+ いつものそこは、越前リョーマの特等席。 彼はそれをいつも自分だけのものだと主張して、誰にも譲ろうとなどしなかった。 まあ、越前以外にそこに座ろうなんて気を起こす人間が青学テニス部内にいなかったことも事実なのだが。 下級生から部活後にテニスの指導を請われて、コートの片隅で指導をしていたらいつの間にか時は過ぎ、 部室に戻るとそこには乾の姿しかなかった。 乾はいつもの通りに部室の長机に座り、難しげな顔をしてノートを眺めている。 いつもなら。 その膝の上に片付けを終えた越前が座っているのに、 今日は時間が遅くなってしまったせいか、越前はもう桃と一緒に帰ってしまったらしい。 普段の乾の光景はというと、その膝の上に越前を抱えて、それを気にする風でもなく仕事をしている。 だから膝の上に何も乗っていない乾の姿は稀だということで、何故だかその空間がひどく気になった。 「やあ、遅かったね、不二」 部室に戻ってきたことに気づいた乾が、振り返って不二を見た。 「ちょっと後輩たちに指導を頼まれてね。熱心にお願いされたから断ったら悪いじゃない?」 「ああ、加藤たちか。熱心なことはいいことだな」 「そうだね」 何気ない会話をしながら不二は自分のロッカーへと向かい、着替え始める。 その間も乾の、誰も乗っていない膝が気になって仕方がなかった。 ワイシャツを着、ボタンをとめながら不二はぼんやりと考える。 不二が指導してあげた一年生の3人組はまだまだ教えたことを何度も復習していそうだし、 この部室にはもう誰もいない。 それならば。 不二は着替え終わり、ロッカーの扉を閉めたところで乾に近づいていった。 「乾」 後ろから声をかけると、乾は一旦手を止め、不二を振り返る。 「何?」 「ちょっと立ってくれない?」 不二の突然の申し出を不審に思ったのか、乾は眉を顰める。 「何で?」 「いいから」 きっと乾は、不二がまたよからぬことを考えているのだと思っているに違いない。 それでも説明するのが面倒くさくて、不二は先に乾に行動してもらうことにした。 乾が不思議そうに立ち上がると、不二は椅子をずらして、 机と椅子の間に自分と乾が座れるだけの距離を取った。 「いいよ、乾。座って」 にこにこと楽しそうな笑みを浮かべた不二の顔を見て、 乾はどうやら不二が何をしたかったのかを察してくれたようだった。 どこか呆れたように、けれども少し笑みを浮かべて乾は座る。 「どうぞ、お姫様」 乾が不二の腰に手を伸ばして、膝の上に座らせてくれた。 最初は乾に背を預けるかたちで座っていたのだが、それでは寂しいと左腕を乾の体に回して横座りになった。 安心する温かさにほっと息をついて、いつも越前はどんな景色を見ているのだろうかと、 少しだけ辺りを見回してみることにする。 「不二も座りたかったの?」 そう問う乾の瞳が思いがけず近くにあって、不二は手を伸ばしてその邪魔な眼鏡を取り去った。 「うん。一回座ってみたいなあって思ってた」 手にした眼鏡を机の上に置いて、不二は両方の腕を乾に巻きつけて抱きついた。 温かい。一番初めに思ったことがそれで。 越前はいつもこんなに安心する温かさを独り占めしているのかと思ったら、何だか悔しくなった。 今度、越前と戦ってみようかな。 乾の膝の上を賭けて。 「僕がこんなこと思うのって意外?」 腕の中の温かさに包まれるように目を閉じると、耳元で乾が笑ったような気がした。 「そんなことないよ、不二は甘えんぼだって知ってたからね」 「甘えんぼ?」 「そう、甘えんぼさん」 そう言われて不二の方が、意外だなと思った。 普段自分がそんなに人に甘えを求めているなんて思ったことはなかったから。 「そうかな?」 「うん、不二は俺にだけ甘えんぼ」 乾がぎゅっと不二の体を抱きしめる。 そこからじわりと体全身を支配するような熱が流れ込んできて、あまりの甘さに不二は乾を抱きしめ返した。 越前にはこんなことをしているのを見たことがないから、これは不二だけの特権。 そう思うと自然と心まで温かくなった。 「そっか。気をつけるよ」 気をつけるよ、なんてただの言葉でしかないのだけれど。 乾の前にいる自分は、きっと甘えないことなど出来ないのだから。 「別に気をつけなくていいよ。俺以外に甘えなければね」 耳元で囁かれるように笑われた。 きっと乾は不二の心などお見通しで、何を言おうとも不二の意を汲み取ってしまうのだろうけど。 けれどもそんな乾の存在自体が心地よくって、 温かさでとろりと溶けかけていた意識が 『眠気』というものによって途切れさせられてしまった。 「・・乾先輩。何ですか、ソレ」 不機嫌そうな越前の声。 「越前、今日は不二の特等席だから駄目だよ」 耳元で聞こえた低く押さえるような声に、不二は次第に意識を覚醒していく。 「・・ヤダ。」 「それに不二寝ちゃってるし、起こすのかわいそうでしょ」 困ったような声を出す乾に、けれど青学ルーキーは一歩も引く気はないらしい。 越前は帰ったのではなかったのだろうか。 そう疑問が不二の頭の中をよぎったのだけれども、 そういえば放課後、手塚が越前を呼び出していたっけと思い出す。 「ヤダ。それに俺の席なのにどうして不二先輩がいるんすか?」 越前はかなりご立腹らしい。 確かに、毎日自分のものだと言って憚らないものを、他の人に取られていたら怒りたくもなるだろう。 ここは自分が行動を起こしたのだし、早めに助けてあげようかと不二は言葉を紡ごうとした。 けれども。 「じゃあ不二は俺のだから俺が抱いてても何の問題もないでしょ」 乾の言葉に、不二は言いかけた言葉をふっと飲み込んだ。 「・・・・・」 どうやら越前は何も言い返せないらしい。 ぬくぬくと温かい乾の腕の中で、言い切れない優越感を感じて、 不二はそのまま眠っているふりをすることにした。 |