気がついたときには、既に時遅く。 料理の手を止め、 あわてて部屋へと駆け戻ったのだけれども。 部屋では桃城が、乾のベッドに横たわっていた。 その横には、放り出されたような、 乾の、真っ黒な携帯電話。 +携帯電話とその記憶 その光景を見て、乾は僅かに溜息をつく。 おたまを持ったまま、エプロンをつけたままのこの姿では、 少々威厳がないのは致し方ないことだが、 それでも僅かな凄みを持って言葉を紡ぐ。 「・・桃」 名を呼ぶけれども反応は返ってはこず。 桃城は乾のベッドに寝そべったまま微動だにしない。 他人の前では酷く愛想がいいくせに、 乾の前では随分と傍若無人に振舞うのは、 愛されている証拠だと受け取ってもいいのだろうか。 「桃」 強い口調で名を呼び、足元にぞんざいに転がった携帯電話を拾い上げる。 慣れた手つきで操作をし、携帯電話の状態を確認してから桃城に向き直る。 「駄目だって言っただろ」 「・・先輩こそ、俺は嫌だって言ったじゃないっすか」 返ってきたのは、拗ねたような声で。 桃城はごろり、と寝転ぶ体勢を変え、乾に背を向けてしまう。 桃城、は。 乾の携帯電話に他人のメモリが入っていることを酷く嫌がる。 例えば、手塚からのメニューに関するメールだとか。 大石からの、勉強のメール。 河村からの、寿司ネタに関するメール。 菊丸からの遊びに行こうというメール、 不二からの、弟大好き惚気メール。 それの、どれもこれもを桃城は嫌がった。 別に、何もやましいことはしていないというのに。 乾の携帯に、他の人物の名が残っているのが嫌だと。 そう言っては、乾の目を盗んで、気づいた時には携帯電話のメモリを、 全部消去してしまうのだ。 しかし乾にも人間関係はあり。 どうしても、部のためであるとか、テニスのことであるとか。 メールを使ってやり取りをしなければならないことがたくさんあるのだ。 今更、携帯電話を手放すこともできず。 こうして、時々。 桃城武と、争うことになるのだ。 「桃・・」 「嫌っす」 「だから・・」 「嫌っす」 それだけ言うと桃城は、乾の布団の上掛けをばさりと頭から被ってしまった。 桃城も、それ以上何も言うことはないらしく、 しばし沈黙が部屋の中に流れる。 そんな空気に耐えかねて、乾は部屋を出ようと、ドアノブに手をかける。 すると、ベッドの中の桃城が突然起き上がった。 「先輩・・っ!! どうせ先輩は人のメアドなんてすぐ覚えちゃうんっすよね? わざわざ携帯電話にメールを残しておかなくても、 一度読んだメールの内容なんて忘れないっすよね?」 確かに。 桃城の言葉を頭の中で繰り返して、乾は僅かに目を伏せる。 その言葉は間違ってはいない。 親しい人間のデータであれば、住所電話番号、出生地だって覚えている。 それなのにメールアドレスだけ覚えていないということはなく。 もちろんメールの内容も、再び見ずとも思い出すことができる。 だったら。 だったら、何故。 桃城が酷く嫌がっているというのに、 どうして桃城の言うとおり、 全てのメモリを消してしまうということをしないのだろうか。 乾は僅かに俯く。 「先輩の物に他の人の気配があるなんて嫌なんっす・・」 小さく。 消え入りそうな声で呟かれたそれは、酷く心を揺さぶった。 ああ、そうか、と。 桃城の願いを叶えてやることができるのに、それを拒んだのは、 いつも酷く強気な彼が、こうして甘えるところをみてみたかったからなのだ、と。 子供じみた自分の感情に、眩暈がする。 こんなことでしか相手の感情を量れない、自分は、 見かけだけひどく成長してしまった、ただの子供なのだろう。 俯いてしまった桃城を見つめて、 そうして乾は手にした携帯に、自分の頭の中にあった、 ただ一人の情報だけを入力する。 「・・桃」 近づいていって、目の前に携帯の画面を見せてやる。 「ほら、桃だけ・・」 画面に映るのは、 桃城武 という文字、それだけ。 僅かに驚いた顔と、酷く嬉しそうな視線とかち合う。 そうして桃城は誰をも魅了する、眩しい笑顔を浮かべた。 「嬉しいっす・・。 もう、他の人のアドレスは入れないでくださいね」 心を揺さぶる、 乾が大好きな笑顔を向けられて。 この笑顔が見られるならいいか、と。 今後一切、他の人間の痕跡は残さないと、 乾は心に誓ったのだった。 |