+昨日までの君と抱えてきた想い+
「乾〜」
困り果てた菊丸が乾のところへやってきたのは丁度お昼休みのことだった。
「どうしたんだ。菊丸がうちのクラスに来るなんて珍しいな」
窓側の席に座っていた乾がデータを書きとめていたノートから顔を上げると、
菊丸はその席の人物に断りもなく乾の前の席に座った。
そんな菊丸の姿に、彼が何か相当重大な問題を抱えているのだろうと見当をつける。
もし教科書を忘れたくらいならば、近くにいる他の部員に声をかけ、
自分のところへやってくることなど滅多にない。
何しろ3年6組から乾のいる11組までは遠すぎる。
その菊丸が一人で乾のクラスにまでやってくるという事態なのだから、
何か大きなことがあったに違いない。
乾は丁度データをまとめていたのだが、珍しい菊丸の訪問に作業を全て中断した。
「何があったんだ?」
乾の机に突っ伏すくらいに、落ち込んで首をうなだれている菊丸にとりあえずそう尋ねた。
はっきり言えば、大体の予想はついている。
菊丸が大石と喧嘩したのならば同じクラスの不二に愚痴をこぼしているだろう。
わざわざ乾のクラスに来たということは、不二に愚痴をこぼせない何かがあったということ。
つまり不二に・・乾の恋人に何かあったということなのだろう。
「こっちが何か聞きたいよ・・。不二が朝から口きいてくれないんだ・・」
予想通り。
乾の頭の中にはそんな単語がぽんと浮かんだ。
「朝おはようって声をかけたんだ。
いつもならの不二なら笑っておはようって言ってくれて、そのまま一緒に
『昨日何があった〜』とか話すのに、今日は笑ってるんだけど、笑ってなくって、
すたすたって他の友達のとこに行っちゃって・・!」
菊丸の分からないようで分かる説明に、乾はそうかと小さく頷いた。
それだけで分かるのは、友人をやっていた年月が長いからに他ならない。
どうやら不二はあからさまに怒っているのではなく、機嫌が悪いだけのようだ。
不二も子供ではないのだから、本当に怒っているときには無視などという行動には出ず、
きちんと真正面から怒りをぶつける。
今聞いたことから判断すると、やはり何か嫌なことがあったようだ。
「乾、なんか不二を怒らすようなことした?」
どうしてそこで自分のせいになるのかはわからないが、
菊丸にとってすれば乾が原因なのではないかと思うらしい。
菊丸の問いに頭を巡らせてはみるが、最近不二を怒らせた覚えなどない。
やはり原因は菊丸なのではないかと思う。
「いや、何もしていないはずだが?」
「本当に〜?俺だってなにもしてないんだよ。
乾が気がつかないうちに不二になんかしたんじゃないの?強引に迫ったとか・・」
「不二の嫌がることを俺がすると思うのか?」
「わっかんないよ〜。気がつかないうちにしちゃってるとか・・」
どうしても乾のせいにしたいらしい菊丸に、内心でため息をつく。
「俺は見当もつかないな。
お前こそ何か不二に不機嫌にさせるようなことをしたんじゃないのか?」
「俺?俺はないよ〜。だって不二とめちゃくちゃ仲良しだもんね」
はっきりと答える菊丸の様子から、菊丸にも思い当たる節はないのだということが分かる。
もちろん、乾の方にも思い当たる節はない。
昨日の部活の時も特に変わったことはなかった。
不二はいつもの通りに笑っていたし、帰りも一緒に帰った。
そこで乾はふと思い出す。
そういえば。
昨日不二と帰って、いつも分かれる十字路に差し掛かったとき、
不二が寂しそうな目をしてこちらを見ていたのに気がついた。
それはほんの一瞬のことで、
不二はいつもの優しい笑顔に戻ったからあまり気にしなかったのだけれども・・。
不二は滅多に心の奥底に燻っている感情を表に出すことはしない。
いつもあの優しい笑顔で笑いかけて、誰にもその内面に気づかせない。
けれど、ほんのたまに不二は自分の感情を外に出す。
時間をかけてじわりじわりと綻びだした隙間から、ちらりと見え隠れする感情がある。
乾は腕組みをして昨日の不二の表情を思い出す。
何か自分に訴えかけていなかっただろうか。
自分にだけ見せる、ほんの少しの感情の綻びを不二は持っていなかっただろうか?
考えれば考えるほど、あの不二の視線が気になってくる。
「・・・・」
「乾?」
突然考え込んでしまった乾に、菊丸が不思議そうに問い掛ける。
「何か思い当たる節でもあったの?」
乾は菊丸の問いには答えないで、更に考えに没頭する。
気になることは見つかった。
けれども、不二に寂しい目をさせたのは何か原因があってのことだ。
それが分からなければ何の話にもならない。
昨日の学校生活は普通だったのだから、原因はやはり部活にあるはず。
そう思って乾は昨日の部活中のことを思い出してみた。
しかし何も変わった点は見つけられず、乾は小さくため息をついた。
部活中だからといって不二のことばかりを見ているわけではない。
だから自分の見ていないときに何かがあったとしたら、分かるわけがないのだ。
「やはり何も分からないな・・」
乾の言葉に菊丸も小さく肩を落とす。
「・・そっかぁ」
「でも昨日の部活で何かがあったことは確かだ。
昨日の授業中は不二は普通だったんだろ?」
「うん・・普通だった。おかしくなったのは今日の朝からだから・・」
「何か部活中で思い当たる事件はあったか?」
乾に問われて菊丸は考える様子を見せたが、少ししてから首を大きく振った。
「そんなことがあれば一番最初に思いついてるよ」
「そうだな・・」
菊丸の言葉に頷いてみせてから、乾は急にがたんと立ち上がった。
「乾?」
突然の行動に驚いたらしく、
目を見開いている菊丸に乾は自分と同じように立つように促した。
「俺たちが知らないことを他の奴らが知っている可能性もある。
とりあえず手塚か大石のところに行って、聞いてみないか?」
「あ、そうか!そうしよう!」
菊丸も、椅子を蹴散らしてしまうような勢いで思いっきり立ち上がった。
「そうと決まれば早く行こう!」
途端に元気を出した菊丸が乾の腕を引いて走りだそうとする。
しかし菊丸は、数歩歩いたところでその足を止めた。
急に止まった菊丸を不思議に思って乾がふと前を見ると、
ドアのところで同じように驚いて止まっている不二の姿があった。
不二は菊丸の姿を見て、そして視線を乾に移して何も言わずにドアから離れていった。
「・・不二!」
菊丸よりも一瞬早く状況を理解した乾が、不二の去った教室の外へ走った。
その後に菊丸も続いてくる。
小走りで教室に戻ろうとしていた不二に追いついて、乾はその腕を掴んだ。
けれども不二はこちらを向こうとしない。
後ろでは菊丸が心配そうに状況を見つめている。
「どうしたんだ、不二。何かあったのか?」
努めて優しい声を出して、そう不二に呼びかける。
背中が自分を拒絶しているような気がするのは気のせいだろうか。
「・・不二」
名を呼ぶと、突然腕を振り払われた。
驚いてその腕を見つめていると、
不二は振り返って聞こえるか聞こえないかの声でこう呟いた。
「・・乾は英二と仲良くしてればいいだろ・・」
「!・・おい・・不二!」
そういい残して、不二は走って階段へ向かい、そして駆け下りていった。
その後ろ姿を呆然と見送りながら、乾は言われた言葉を考えてみた。
そして小さくため息をつく。
どうやら自分が原因のようだ。
下を向いていて表情は分からなかったが、不二は今にも泣きそうな声をしていた。
不二を傷つけたのは自分だ。
あまりの不甲斐なさに乾はきゅっと拳を握った。
不二を泣かせるなどということは絶対にないと、付き合う時に誓ったはずだったのに。
今、こうして不二を傷つけてしまっている自分がいる。
「乾!不二を追いかけなくちゃ・・」
「お前はいいよ。行くとややこしくなるから。俺だけ行ってくる」
慌てている菊丸に、乾はその肩をぽんと叩いてそう言った。
不二には泣き顔なんて似合わない。
いつだって不二には笑って、そして幸せでいてほしいのだ。
乾は不二の降りていった階段を同じように駆け下りていった。
その背中を見送りながら、菊丸は小さく呟いた。
「あーあ、俺、痴話喧嘩に巻き込まれたのかも・・?」
階段を一番下まで降りたのだが、不二の姿は見えない。
けれどもそのまま教室に戻ったとは思えない。
菊丸が戻ってきたときに、捕まえられてしまうからだ。
きっと泣きそうになっていた不二は一人になれるところへ行ったのだろう。
この時間に、一人になれそうなところといえば。
乾は天井を見上げ、考えを巡らせた。
こんな些細な時間さえもったいないような気がして、乾は眉を顰めた。
いつもならばきちんとデータをまとめられる頭もうまく機能してくれない。
焦れば焦るほど何を基にしてよいのか分からなくなり、もどかしさが募る。
その時、ふと乾の頭にある場所が浮かんだ。
それは。
いつか不二が乾に教えてくれた、誰にも見つからない場所。
菊丸が不二に教えたのを、不二がまた乾に教えてくれたのだ。
誰にも内緒だよと、悪戯好きな子供のように笑った不二を今でも覚えている。
乾は急いで校舎の反対にある階段へ向かった。
廊下の時計を眺めると、次の授業が始まる3分前だった。
しかしそんなことはかまっていられなかった。
不二はきっと乾が来るのを待っている。
何とか西階段に辿りつくと、階段を2段抜かしで上がっていった。
その光景に驚いている生徒が何人かいたが、かまっている暇はない。
テニス部の部員に会わなかったことが幸いといえるだろう。
3階まで上がり、教室とは反対の方向にある特別教室の前まで歩いた。
急いでいない訳ではない。
けれども廊下に響き渡る音が不二に聞こえれば
不二に変な怯えを持たせてしまうのではないかと、乾は歩を緩めた。
目的の教室の前まで辿りつくと、乾は小さく深呼吸をする。
人通りのほとんどない廊下は電気がついていなく。
日があまり差し込むこともないこの辺りは薄暗かった。
かたん、と乾がドアに手をかける。
この教室は生徒会室で。
見た目はしっかりと戸締りがしてあるように見えるが、
南京錠でしっかりと閉じられているのは実は片方のドアだけなのだ。
それを知っているのは生徒会役員だけで、教室を使うたびに
わざわざ先生に生徒会室の鍵を借りに行くことを面倒くさがった生徒会役員が、
片方のドアの鍵はいつも開けておいてるのだ。
そのことをどこからか聞いた菊丸が不二に教え、それを乾が聞いた。
『鍵の意味をなしていない鍵なんてつけててもしょうがないのにね』と不二は笑っていた。
乾がドアにかけた手をそっと横に引くと、やはりドアは簡単に開いた。
生徒会室の中は、運動会のプリントだとか、文化祭の装飾だとか、
色々なものでごったがえしている。
乾は部屋の中に足を踏み入れ、そっとドアを閉めた。
遠くから聞こえる休み時間の喧騒だけが、乾の耳の奥に残る。
誰もいない部屋は、まるで昼間の光の中たった一つ、
世界から切り離されてしまったかのように思えた。
歩みを進めて不二の姿を探すと、一番奥の窓の傍に不二はいた。
壁に背を預けて、何かから逃れるかのように足を抱えて小さく丸まるように座っている。
乾はそっと近づいて、視線が同じになるように不二の前に跪いた。
「・・不二」
乾が不二を脅かさないよう、柔らかい声音でそう呼んだ。
しかし不二は顔を上げようとはしない。
乾はそんな不二に痛々しさを覚える。
膝を抱えている不二の、その手にそっと手を伸ばすと、ピクリと不二が体を震わせた。
「・・不二」
今度は少し強い口調で呼びかける。
このままでいることが最良の方法だとは思わない。
不二を傷つけたのが自分であるのならば、その理由を乾にぶつけてほしい。
好きだからこそ、このままでいることが辛い。
ずっと避けられているよりは、醜いことも全て曝け出してしまう方がずっとよいのだから。
乾は不二の茶色がかった髪に指を通し、顔を上げるよう促す。
不二が落ち着くまでいつまででも待つつもりだった。
普段、不二は感情のままに走ることなどない。
だからきっと不二は自らの心の乱れに酷く動揺してしまっているのかもしれない。
しばらくそうしていただろうか。
不二がゆっくりと顔を上げた。
その目は僅かに赤く、不二は泣いていたのだと理解すると、ズキリと心が痛んだ。
不二を泣かせてしまったのは自分なのだと、不甲斐なさに怒りが込み上げてくる。
「・・不二」
乾が不二に声をかけようとすると、それを遮るかのように不二は言葉を発した。
「ごめんね、乾。心配かけちゃって。ほんと何でもないから。気にしないで・・」
無理矢理作った笑顔でそう言う不二に痛々しさを感じる。
泣くのをじっと我慢したような顔で、辛い何かを耐えるように笑顔を作って。
自分にまでそんな顔を見せないでほしい。
「不二」
低い声で怒ったように不二の言葉を遮る。
すると不二は驚いたように目を瞠った。
「本当のことを言ってごらん。何もないなんてこと、ないだろ?」
乾の言葉に不二は何かを堪えるかのように首を振る。
一人で何かを抱えて苦しむ不二を見たくなくて、乾は不二を優しく抱きしめた。
全て吐き出してしまえば楽なのに。
不二は何に傷ついているのだろうか。
乾の腕の中に収められても抵抗をしない不二に、乾は優しくその背中を撫でた。
少しでも彼の心の中の波が治まってくれればいいとそう願いながら。
突然、頭上でボーンとチャイムの音がした。
古ぼけた校内放送が、授業開始の合図を伝える。
余韻が教室の中に響き、そのあとには再び部屋の中に静寂だけが残る。
「・・不二」
乾の声に不二は微かに身じろぐ。
「シンデレラは、12時の鐘が鳴った途端に、普通の女の子になってしまいました」
驚いているのか、不二は何も言わない。
乾は不二の心をなるべく乱さないように、優しい声色で話す。
「今、チャイムが鳴ったよね。あれは不二がいつもの不二に戻る音。
一人で抱えてなんていないで、言いたいこと、言ってみなよ。
・・なんてクサイかな?」
自分で言って、随分と恥ずかしいことを言っているものだと、思わず語尾が緩んだ。
すると、腕の中の不二の雰囲気もふっと緩んだような感じを覚えて、
乾はぽんぽんと不二の頭を軽く撫でた。
「・・言ったら、絶対乾は僕のこと嫌うから・・」
困惑したような声に、更に少しだけ強く不二を抱きしめる。
「俺が不二のことを嫌うなんて絶対ないよ。だから安心して言ってごらん」
乾の言葉に、不二がぬくもりを求めるかのように乾にぎゅっとしがみつく。
「大丈夫だから」
こうして抱きしめあっていると、二人の体が一つになったような感覚を覚える。
どくり、どくりと脈打つ音が聞こえて、互いの熱が互いへと移っていく。
乾はじっと不二が話し出してくれるのを待った。
聞こえる喧騒は遠く、窓から差し込んでくる光は
まるで一部分だけを切り取るかのように明るく床を照らしている。
時間すらも息を潜め、動き出すのを待っているかのようだ。
「・・乾・・」
「ん・・?」
僅かに開かれた唇から、小さな言葉が漏れる
全てのものが止まってしまっているかのようなこの空間の中でさえ、
不二の声はそれを切り裂くような強さを持たず、
寧ろ穏やかに、優しく、空気と同化してしまいそうな響きを有している。
不二を抱き締めているせいで、乾には甘いその音がダイレクトに伝わってくる。
「・・英二・・と楽しそうに話なんかしないで・・」
語られた内容は思ってもみなかったもので。
驚きもしたが、不二の言葉に喜びもしている自分がいた。
「昨日、ダブルスの練習をしているときも、乾は英二といる方が楽しそうだった。
僕じゃだめ・・?僕より英二の方がいい・・?」
語尾が震えている。
必死でそう言葉を紡いでいるのだろう不二を酷くいとおしく思う。
不二の言葉に、昨日の出来事を思い出した。
昨日は、黄金ペアと一緒にダブルスの練習をしていた。
ひょんなことから大石、不二組と菊丸、乾組で戦うことになったのだが。
まさかそれを不二が気にしているとは思わなかった。
「そんなことないよ。俺は不二のことが一番好きだから」
嘘、偽りなど全くない言葉を紡ぐ。
このことは一番不二が知っているはずだ。
けれども人間という生き物は、突如襲い掛かる不安をいつも抱えているから。
君が不安に思うならばいつだって、自分の嘘偽りのない言葉を紡ごう。
「・・だって乾、本当に楽しそうだった。僕といるときより、ずっと」
「あれはあの二人が痴話喧嘩して、一緒にダブルス組むのが嫌だって
菊丸が散々駄々捏ねてたから、少し大石の大切を分からせてやろうって・・」
不二は小さくため息をつく。
無理に笑おうとしているのか、悲しげな目元に心が痛む。
「・・うん。僕も分かってた。
けど、そうなんだって思い込もうとしても感情がついていかなくなっちゃって・・」
否定してもしきれない感情。
些細なことでさえ、不安材料へと姿を変え、心を苦しめる。
「英二に嫉妬、しちゃった。」
「・・馬鹿だな」
「馬鹿だよ」
お互いの言葉に、顔を見合わせて笑った。
これから先、何度でも。
人間である限り、不安に苛まれたり、互いの心が分からなくて迷ったりすることがあるのだろう。
それでも。
「乾、僕といるの楽しい?」
不二の言葉に乾は笑みを返して、そうして深く抱き締めた。
「ああ、楽しいよ。不二といる時が一番幸せだから」
君とずっと一緒にいたいと思うんだ。