その、まだ誰にも汚されていない体に触れてみたいと。

やましい思いを抱きながら、彼を心の中で何度も汚していた。








+真夏の扉







試験も終わり夏休みを迎えたばかりの晴れの日。

梅雨も明け、太陽の日差しが突然肌を強く刺すようになった。

そんなことを思いながら乾は眩いばかりに輝く太陽を見上げ、その光の強さに手を翳す。

白い光は地上にある全てのものを分け隔てなく輝かせ、

屈託のないその光はまるで彼のようだと、思った。


夏休みに入った青学テニス部は毎日のように練習がある。

けれどももちろんこの炎天下の中で練習ばかりをしていたら体がもたない。

何日かに一度与えられる休みの日があり、そして今日がその休みの日であった。

部活は休み、とはいえ体を動かしたい盛りの中学生にとって、休みは休みでないに等しく。

乾ももちろんその中の一員であり、休みだからといってのんびりと体を休めているわけではなかった。

一日でも練習を怠れば体はなまり、今まで培ってきたもののほとんどを失ってしまう可能性だってある。

青学テニス部員で向上心のあるものは皆それをきちんと理解しており、

だからこそ休みの日とはいえ体を動かすことを忘れない。


乾は今、青学のテニスコートへやってきていた。

もちろん休みでも体を動かすためで、近くのテニスコートに向かってもよかったのだが、

同じ目的の青学テニス部員がたくさんいそうな予感がして、それはやめた。

別に皆とともに練習をすることが悪いという訳ではなく、

あまり人に自分が努力を重ねているところを見られたくはないというプライドがあったからだ。

昨日いつも通りに部室でデータを纏めていた乾は、帰るのが一番遅くなった。

普段であれば部室の鍵を閉めるのは副部長の役割であるのだが、

一つ年上の副部長は昨日用事があるとのことで最後まで残ってはいられず、

最近よく最後まで部室に残っている乾に部室の鍵を託したのだった。

そういう経緯で乾は部室の鍵を持っており、学校のテニスコートまでやってきたのだ。

休みの日でもテニスコートは使える。

けれど部員が休みの日にわざわざ学校のテニスコートに来ることは少ない。

乾は昨晩副部長に連絡をし、コート使用の許可を求めたところ快諾を受けたため、

一人テニスコートに立っているという訳である。


乾は部室の鍵を開け、そうして身支度を整えてコートに出た。

真夏のコートはひどく熱く、長時間ここで練習をしていたのではかえって体によくない。

朝早い時間に出てきて正解だと乾は思った。

ドリンクとタオルを近くのベンチの下に置き、練習を始める。

最近努力の末に伸びてきた身長を生かした高速サーブ――。

もちろん身長を手に入れたからといってすぐに会得できるものではなく、

高速サーブの打ち方を頭の中でシュミレートしながら、

何度も何度も理想の形になるように、誰もいないコートに向かってボールを打った。


その時だった。

乾はとある異変に気づき、僅かに眉を顰めた。

サーブ練習をしている時に、どこかから微かに人の怒声がするのである。

今は学校は休みであり、乾の他に生徒はほとんど見てはいない。

そんな中でわざわざ喧嘩をすることがあるのだろうかと、乾は不審に思った。


途中で止むかと思ったそれはけれどもしばし経っても聞こえてくる。

気になった乾はラケットを置き、コートを出、辺りを見回してみた。

するとコートの横、部室の裏から声は聞こえてくる。

関るのはよくないがこのまま原因が分からず声だけ聞こえてくるのでは気になってしょうがない。

損な性分だとは思うのだけれども、持ち前の好奇心が理性に競り勝って、部室の裏へと向かう。

影から状況を伺うようにして部室の裏に視線を向ける。



――乾はその光景を見て思わず息を飲んだ。



喧嘩をしているのはどうやら1年生のようであった。

まだ小学生とも見紛うほどの小さな体をした3人が、それと同じくらいの年頃の1人を殴っている。

その1人はもちろん応戦しているのだけれども、それは多勢に無勢。

かわしている拳の中でも何発か顔にあたる拳があり、その度に僅かに顔を顰めている。


乾はその、殴られている人物に心当たりがあった。

いや、心当たりがあるどころではない。

彼は。

乾が思いを寄せる一つ年下の後輩であった。



「桃!」



気がつくと彼の名を呼び、その場に飛び出していた。

喧嘩をしていた4人は突然現れた乾に驚いたようであったが、

高校生にも近い体格を持つ乾に勝ち目はないと思ったのか、

桃城を殴っていた3人は尻尾を巻くかのように逃げていった。


「・・おい!」


追いかけて掴まえようかとも思ったのだけれども、

2、3歩進んだところで腕を引っ張られて乾は振り返る。


「別にいいっすよ、乾先輩・・」


乾の腕を掴まえる桃城は口の端に僅かに血を流しながら乾を見上げた。

他にも腕だとか顔のところどころに痣ができている。

その事実に乾は盛大に眉を顰める。


「だってお前・・」


「いいんす」


こんなに殴られて、と続けようとした言葉は桃城によって遮られた。

何処か決意を持った目で乾を見上げる桃城に、乾はそれ以上言い募ることはできなかった。


「自分のことは自分でケリをつけますよ」


酷く真っ直ぐなその視線に、乾は一つ溜息をつく。

彼はやるといったらその信念を曲げない男だ。

乾にそう宣言するのだから、桃城は自分でケリをつけて笑ってみせるに違いない。


けれども思い人を殴られた、という乾の心情は酷く複雑で、

今から追いかけていって代わりに殴ってこようかという気もあったのだが、

それをしたところで桃城が喜ぶわけでもないと、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。


乾は桃城を殴っていた人物たちに見覚えがあった。

あれは青学テニス部を退部していった1年たちだ。

青学テニス部はこの辺りでは有名なテニス部である。

何度も全国大会出場経験を持ち、それに憧れ入部してくる生徒たちも多い。

けれどもその練習量は半端ではなく、淡い期待を抱いて入ってくる新入部員たちも、

夏には半分残っていればよいというくらいであった。

桃城を殴っていたのは、そのように練習に耐えられず辞めていった部員たちだ。

乾の記憶に僅かに残っているデータでは、彼らは小学校の頃からテニスをしていて、

それを自慢げにテニス部に入ってきた生徒たちだ。

人より少しだけテニスをしていたからといって、

他の人間たちより優れていると錯覚をした哀れな人間たちである。

もちろんそんな軽い決意では青学テニス部でやっていけるはずもなく、

経験者でも延々と続けられる球拾いと基礎トレーニング、素振りについていく努力もせずに辞めてしまったのだ。

そんな人間たちを何人も見てきた乾にとって、彼らを引きとめようと思うことはなかった。

寧ろ、彼らのような人間たちがいなくなれば更に部の士気が上がると内心では喜んでいたくらいだった。


途中で退部をした半端な彼らは、きっとその後居場所を見つけられなかったのだろう。

自分たちに合わなかったテニス部を逆恨みし、そして。



真剣に部活に取り組む桃城を、面白くないとターゲットとして決めたのだろう。



そこまで容易に想像できて、乾の表情は更に曇る。


「・・あいつら、つい最近までテニス部にいた奴らだろう?」


確認のように問えば、桃城は何故だか少しだけ口の端を挙げながら答えた。


「そうっすね。・・なんだか面白くないみたいっす、俺のこと」


そう答える桃城はやはり何処か楽しそうであった。

まるで獲物を捕らえる前の肉食獣のような色を瞳に灯していた。


「喧嘩・・売られて黙って引き下がるような男じゃないっすよ、俺」


ニッ、と口の端を挙げて不敵に笑うその顔に乾は眩暈を覚える。

大胆不敵、そんな言葉が似合う彼は、夏の太陽の下でも全く輝きを失わない。

寧ろ太陽の光を浴びて更に輝きを増しているようにも思える。

そんな桃城の視線が自分に、自分だけに注がれているということを自覚した途端。


酷く眩暈がした。


「とりあえず、今日は助かったっす。有難うございました」


ぺこりと頭を下げる桃城に、乾は構わないよと言葉を返す。

頭を下げたことで際立って見えるようになったシャツの胸元に目がいく。

そこにも点々と青い痣が目について、服の下の焼けていない白い肌と青痣が酷く扇情的で。

思わずそこに口づけたい衝動に駆られた乾は、罪悪感から視線を逸らす。


「・・今日は練習に来たのか?」


違う話題を振らなければ、と乾は制服姿の桃城を僅かに眺めて問う。


「そうっす」


「鍵は・・?持ってないだろう?」


鍵を持っていたのは乾であり、もし乾が今日ここに来ていなければコートは使えなかったのだ。


「いや・・誰かいるような気がしたんすよ」

勘なんですけど。


そう言って太陽のように笑った桃城は、けれどもすぐにその顔を歪めた。

口の端が切れているために笑うことで傷が痛むのであろう。

もう出血は止まっているが、かさぶたが目に痛い。


「大丈夫か?」


無意識に、本当に思わず乾はその唇の端に手を伸ばした。

片手で桃城の顎を押さえて、もう片方の手で傷の回りをなぞっていく。

指先が僅かに傷に触れると、桃城は僅かに顔を曇らせる。

けれどもそんな乾に、まるで桃城は安心しきったかのように目を閉じてその行為に応じていた。


乾はそんな桃城を視界に捉え、そうして鼓動が大きく跳ねる音を聞いた。

気づいたら目の前にあった酷く自分に好都合なシチュエーションに、いいようもない心の揺れを感じる。


安心しきって乾に体を預ける姿。

白い肌に残る痣、

熟れた唇の側の赤く生々しい傷。


どれもこれも乾を煽り、目の前にいる桃城をどうにかしたくて仕方がなかった。


触れている手が微かに震える。

このまま。

そうこのまま力にものを言わせて押し倒してしまうことも、彼を無理矢理抱いてしまうこともできる。


顎に触れる手に力がこもる。

目を閉じている桃城には見えてはいないのだけれども、

きっと自分は今酷く欲望に濡れた顔をしているに違いないと思った。


乾は桃城の顎を固定したまま、顔を近づけていく。

夢の中で何度彼を組み敷いたことだろう。

脳内で作り出した彼の像に何度、やましい手で触れて、貫いて泣かせたことだろう。

目の前の太陽にも似た綺麗な桃城は、自分の中で何度乱れ妖しく誘ったことだろう。

けれどどんな想像も現実のものとは程遠く、今手の中にいる彼を恍惚とした表情で見つめた。


けれども。

乾は唇を近づけて、寸でのところで止め、そっと遠ざけた。

そうして彼に嫌われてしまえばきっと自分はこの後生きていけないだろう。

ここで彼の思いを無視して自分勝手に傷つけてしまえば、

きっと。

今後、一生自分は桃城の視界に入れてもらうことはできないのだろう。

それではあまりに辛く、耐えられるものではない。


頭の中に走ったのはそんな考えで、乾は思い人を前にして、ただ平静を努めるようにした。


「深い傷じゃないな・・けれど消毒しておこうか。

 部室においで。救急箱があるはずだ」


桃城から手を離し、そう告げる。

すると桃城は目を開き、真っ直ぐに乾を見つめた。

何の返答もないことが気にはなったが、乾にはそれに対して気を遣うほどの余裕はなく。

きっとその後ろをついてくるだろうことを期待して、乾は桃城に背を向けて部室へと歩き出した。


けれども少し歩きだしたところで乾は立ち止まる。

桃城が後ろをついてくる気配がしないのだ。

どうしたのだろうと振り返れば、

酷く強い視線で、

乾を見つめている瞳があった。

その表情は、傷の痛みとは違った、どこか捉えようのない苦々しさを映していた。





「甲斐性なし」





赤い唇がそんな言葉を紡ぎだす。

桃城はそれだけを告げると、くるりと乾に背を向け、反対方向へと歩き出した。


乾は。

その言葉の意味を理解するまで僅かな時間を要した。

何故彼がそんな言葉を発したのか理解できず。

数秒かかってその意味を理解したとき、体が無意識に動いていた。


「桃!」


走ってその背に追いつき、腕を引きこちらを向かせる。

かち合った視線は僅かに情欲に濡れていて、乾は桃城をそのまま強く掻き抱いた。

その瞬間、ふわりとその名前に似た甘い香りが鼻をくすぐる。

自分よりも随分と細いその体を抱き壊しそうになりながらも、けれども力を緩めることなど到底できはしなかった。

今まで望んでいたものを手にしているという喜びで、乾はその体に触れながら僅かに震えた。

腕をその細い体に回し、背骨のラインから腰に至るまでをなぞる。

触れた体は自分が思い描いていたものと似ているようで、その質感はまるで違った。

桃城の首筋に顔を埋めながら乾は一つ溜息をついた。


落ち着いてなどいられるだろうか。

求めるものをやっと手にしたという喜びは、酷く乾の心を震わせた。

触れようと思う度に湧き上がる罪悪感。

目の前に立ちはだかる大きな壁は、自分では到底乗り越えることなどできないものであったのに。

腕の中の彼はいとも容易く、乾の前の壁を取り払ってみせた。


不意に腕の中の桃城が言葉を紡ぐ。

腕の内側に触れた呼気がぞくりと、内側に篭る熱を呼び覚ますかのようだった。


「・・俺のこと、ずっと触りたかったんすよね?」


一つ年下であるのに、酷く高いところから見下ろされているような錯覚を覚える。

そういえばこの強い視線に虜になったのだと今更ながらに思い出す。

支配されそうなその視線に息を飲みながら桃城の言葉を待つ。

まるで判決を下す女王と、その従者のようだと思った。



「エロい視線で俺のことずっと見てたの、気づいてたっすよ」



ぞくり、と。

体に衝動にも似た熱が走る。

気づいていたのか、と。

乾の気持ちに気づいて、だからこそ彼は強く乾を欲してみせることができたのだろう。

他の誰にも負けることのない、太陽に似た強い光。

万人に向けられるはずのそれがただ一人に向けられたとき、

人はその強さにひれ伏さずにはいられない。



「・・ああ。気が狂うかと思うほどお前が欲しかったよ」



桃城は好きだ、とか、愛している、とか。

何も言わない。

乾にだけ、自分が望むだけ言葉を紡がせて。

自分の前に平伏す乾を見て、その優位性に、不敵に嗤ってみせるのだ。


乾は目の前に晒された首筋に唇を這わせる。

彼による静止がないということは、続けても構わないのだという印だろう。

首筋を辿り、先ほどつけられたあの痣に口付ける。

誰よりも先に、自分が跡をつけたかったのに、と。

この肌に跡をつけたあいつらに、純粋に憎しみが募る。

乾がその痣を上からなぞるように口付けると、ふ、と桃城が笑ってみせた。

その見え見えの独占欲が彼にとって面白かったのだろうか。


乾が顔を上げると、桃城はまだ細いその指でシャツのボタンに指をかけた。

そうして一つずつ、上からボタンを外していく。

乾はその行動に思わず目を奪われる。

太陽の下に晒されるその肌は白く、そこに残った痣が酷く扇情的であった。

ボタンを外し終えた桃城は乾に一つ笑ってみせる。

その笑顔はこの世界の何よりも綺麗で、美しかった。


---もう逃れられない。


そう、直感した。

けれどもそれで構わない、と思っている自分がいることも事実だった。

まるで乾は誘い込まれるかのように、晒された桃城の肌に舌を這わせていく。

甘いその味に次第に思考が奪われていく。

もう、心の中は桃城のことだけで、心も体も、桃城の術中に嵌るかのように、捕らわれてしまった。


乾が恍惚に桃城の肌に手を伸ばしていると、ごく小さな声で、桃城が呟いた。



『本当は先輩が今日ここに来るの知ってた。

 だから、来たんすよ・・』



僅かな本音とともに、乾は桃城に抱き締められる。

桃城に心ごと捕らえられたことを知りながら、それでも乾は、

これ以上ない幸せを感じていた。