+おかえりなさい。





「大石」

隣を向くと、どこまでも続くであろう、はるかな先を見据えている菊丸がいた。


「乾が帰ってきた」


菊丸の言葉に大石はゆっくりと頷く。

「ああ、そうだな」

乾は一人、レギュラーメンバーの誰も知らない陰で、練習を続けていた。

3強と呼ばれたかつての姿はそこにはなく、

ただひたすらに強さにこだわる乾の姿があった。




練習して、練習して、誰よりも強くなるために。




「俺たちもうかうかしてられないな」

大石の言葉に、菊丸は振り向きもせずに深く頷いた。



――乾が戻ってきた。



その事実は黄金ペアと呼ばれる二人にも、大きな脅威となるものだった。

乾はダブルス向きの人物だ。

相手の行動のデータを常に頭の中に入れている乾は、

パートナーが少し体を動かしただけで、次に何をするのかがすぐに分かる。

そうして、乾は適切なフォローの位置につき、

ボールが返ってきたときに誰よりも上手く打ち返すことができるのだ。

乾のパートナーになった人物は気兼ねなく自分のプレイにうちこむことができるし、

青学元3強の名を持つ乾は、もちろんその力を生かして攻撃的に攻め入ることもできる。

乾がダブルスの選手であるということで、

そのダブルスは更なる力を持つことができるのだ。



しかし、黄金ペアでさえ脅威を覚えるのは、

そのパートナーが青学No2の不二周助であるからだ。



彼らは大石たちのように全国まで行くということはなかった。

それは彼らが青学のNo2とNo3であったからだ。

3年生が抜けて、1年生だった桃城と海堂が

やっとのことでレギュラー入りを果たしたという段階で、

まだ彼ら二人にシングルスを任すわけにはいかず、

勝ち残るためには不二と乾がシングルスでなければいけなかった。


ただ、何回か。

竜崎先生は思いついたように、乾と不二をダブルスとして使った。

それは本当に唐突で、まるで今思いついたとでも言いたいかのように二人の名を呼んだ。

青学No2とNo3が、一番初めにダブルス2として出てくることに他の学校は脅威を覚えた。



それだけではない。



彼らは大石の目から見ても圧倒的な力を誇っていた。

黄金ペアよりも乾、不二の方が個人能力が高いことは青学No2,No3という名から明確だ。

その上彼らはまるで以前からずっとダブルスをしていたかのように、

息のあったテニスをするのだ。

天才不二が攻撃に転じれば、一番いいポジションで乾はフォローをする。

また、乾が相手のデータに基づいて弱点を攻め入るように攻撃をすると、

一番いて欲しいところにいつの間にか不二が移動しているのだ。


それを見た大石はその時、大きな衝撃と興奮を感じたのを今でもはっきりと覚えている。


強い敵は、すぐ近くにいた。


もしかしたら自分たちが負けるかもしれない、倒すべき強い敵がすぐ近くにいる。

その事実は黄金と呼ばれるペアに容易に火をつけた。


「大石。俺たちは絶対に負けないよ」


菊丸の真っ直ぐな言葉に大石は当たり前だと頷き返す。


もう負けないと誓ったのだから。


例えどんなに強い敵が来ようとも、負けるつもりなど毛頭ない。

それは青学黄金ダブルスと呼ばれた二人のプライドでもあり、

また3年間培ってきた二人の精神だった。


「ああ、負けない。絶対にだ」


大石は自然と手の平に力を込め、拳を強く握り締めていた。












乾が部室に戻ると、そこには不二がただ一人、ちょこんと机に浅く腰をかけて座っていた。

他の部員たちは皆、自分たちの試合をしているか、

他のメンバーの試合を見にいってしまっているようだ。

乾はドアを開けて、驚いたようにそこで立ち止まった。

まさか不二がいるとは思わなかった。

一人で部室にいるといった風貌から、乾を待っていたことは間違いないのだろうが

戦いを終えた自分一人でを待っていてくれたことに驚きを覚えた。


試合を終えたばかりの乾の頬には、幾筋もの汗が流れている。

部室のドアのところから動こうとしない乾の姿を見て、不二は優しく微笑んだ。

待ち望んでいた人が来たという風に、とても嬉しそうに。


「・・お帰り、乾」



お帰り。



不二の言葉を頭の中で反芻して、乾はやっとその意味を理解した。

お帰りという言葉の中に、どれだけの思いが込められているのか。

不二はもしかしたら、ランキング戦を終えて部室に戻ってきた乾に

ただ単にお帰りと言っただけかもしれない。

けれども、『お帰り』という言葉の中に、

不二だけが含んでいる言葉の意味があるのではないか。

そう、都合よく捉えてしまいたかった。

綺麗に微笑んで乾を見つめる不二に、乾もふっと表情を崩す。

試合のために張り詰めていた緊張の糸が、優しい手によって解されていく感覚。

これは不二にしかできない芸当だと乾は思う。


「それはどういう『お帰り』の意味なのかな?」


足を踏み出して、不二しかいない部室の中に入る。

バタンとドアが閉まる音がして、二人だけの空間がそこに作られていく。

近くのベンチにラケットを立てかけて、乾は不二の前まで歩いていった。

その間も不二はただ笑って乾を見つめるだけで、

だけれどもその表情がひどく幸せそうに見えた。

乾が不二の前に立つと、不二はゆっくりと顔を上げて、乾と視線を合わせた。


「言わなきゃ分からない?」


不二の考えていることほどデータがあてにならないものはない。

しっかりとした確信はないけれど、自分が不二にこう思っていてほしいという願望ならある。


「ああ、分からないね。不二の言うことはいつも俺のデータ外だ」


素直な乾の言葉に不二はくすりと笑う。

少し拗ねたような口調になってしまったのが、より不二の笑いを増長させたようだ。

普段ならば相手に分かってしまうような感情を表に出すことはないのだけれども、

試合の終わったばかりの今、熱と興奮で頭がうまく働かなかった。

不二は腕を伸ばして、乾に擦り寄るように抱きついてきた。


「お帰り、乾。ずっと待ってた。乾がここに戻ってくるのを」




ああ、そうか。

自分は。

勝ったのだ。

勝って、レギュラーの座を奪い返したのだ。




不二の言葉を聞いて、やっと自分がレギュラー入りを果たしたのだということを実感する。


「お帰り・・」


消え入るような不二の言葉に、目の前で自分を抱きしめてくれている彼が、

自分がレギュラーに戻ってくることを心から願ってくれていたのだと分かった。


不二は待っていてくれたのだ。


レギュラー落ちをして、皆の練習メニューを作っている自分を見ながら、

それでも不二はいつも乾が帰るべき場所を無くさないでいてくれた。

コートの外、レギュラー陣がテニスをする姿を見ながら、

いつもあの場所に行きたいと願っていた自分に、

不二はいつもその隣を空けておいてくれた。

その場所に行きたくて。

いつも自分が居た場所は簡単に行けるところではなくなってしまって。

歯痒さに心が散り散りになってしまいそうなほど辛かった。


けれどもうそれも終わりだ。


何も心煩うこともなく、乾は望むべき場所に行くことができる。


「・・ああ、ただいま」


乾に抱きついている不二の背に腕を伸ばし、軽く抱きしめた。

自分よりもずいぶんと低い位置にある不二の肩に頭を乗せて、そっと目を閉じる。

抱きしめている腕から不二の熱が伝わってきて、

その温かさを全て受け止めようと乾はしばらくじっとしていた。


隣にいることのできなかった時間はひどく長いように感じられた。

当たり前のようにいたコートには自分の居場所はどこにもなく、

そこには新しいレギュラーの空気が作られていて、入り込む隙さえなかった。

初めはコートに転がっているボールに触れることさえためらってしまったほどだ。

長かった。ひどく長かった。

青学が強くなるために、自分が負けることは確かに必要だったことだけれども、

次は自分が負けてやるなどとは微塵も思わなかった。

大切な人の傍でテニスができない屈辱感。

レギュラーの座に再び戻ることが出来るならば、

血を吐くほどの練習でも、脳が限界を訴えるまで体を痛めつけることでも、

どんなことでもできた。

こんな思いを持つことよりも体を動かす方が全然楽だったのだ。

それも、もう終わる。


「乾・・」


不二に呼びかけられて少しだけ顔を上げる。

笑顔を絶やさない不二と目を合わせると、不二は更に笑みを深くして乾を見上げた。

その目には普段は見ることができない、真摯な光が灯っている。



「もう待たなくていいんだね・・」



「ああ・・。待たせたな」



乾の言葉に不二はそっと目を閉じる。

今はもうあの頃とは違い、海堂はしっかりとした強さを誇り、

今年入ってきたルーキーは今は青学の柱として活躍している。

もう、自分たちが共に戦ってもいいはずだ。


「ずっとずっと待ってたよ。気が遠くなりそうなほど・・」


不二の手が伸びてきて乾の上着の裾を掴んだ。

その手にやんわりと自らの手を重ねて乾は答える。


「もう待たせない・・」


閉じられている不二の瞼の上に、誓いのように口付けを落として乾も目を閉じた。

お互いの思いが伝わるように、額をくっつけて、お互いの手を握った。


「二人で行こう・・。どこまでも上へ」


伝わってくる熱は不二も同じことを思っているのだと告げてくれる。


「・・そうだね。負けない。僕たちは上に行くんだ」


不二の強気な言葉に、二人は同時に笑みを浮かべた。

これからの始まりを予感するかのように。

伝わってくる熱が体の中で跳ねて、これ以上ない昂揚感に襲われる。











二人は同時にくすりと笑って、確かめるようにお互いの唇を合わせた。




もう待たせない。

二人でどこまでも上へ。



上へ行くんだ。