誰にも知られることのない、密やかなる想い。





+抑圧、解放





勝利の興奮も冷め遣らぬままに、今試合を終えたばかりの桃城に肩を貸し、

近くの芝生まで連れていった。

コートの近く、けれども喧騒とは離れたそこは、

人の気配はなくとても静かであった。

コートでは青学対山吹、

この試合の好カード、越前対亜久津の試合が始まろうとしている。


乾は桃城を、木にもたれ掛けさせるように座らせた。

そしてその正面に回り、

試合を終え、未だ乱れた息のままの桃城の左足に触れる。

小刻みに震えるそれは自分ではもちろん止められる術もなく。

桃城はただ、乾の一動作一動作を、目で追っている。


よくこんな足で試合ができたものだと、乾は感心する。

あのJr選抜の千石清純相手に、この足で勝つことができて。

桃城の身体能力には驚かされるばかりだ。


そして。

あのコートの上で戦うことができない己の身を不甲斐なく思う。

熱風の吹きぬけるコートの上、

強い存在感を示す太陽の光の中。

彼のように、心から満足のいく試合をしたいと。

そんな想いが胸の中を走るのだけれども、

今はそれどころではないと。

初夏の空の下に映える緑色のコートを頭から振り払った。


痙攣している左足に右手でなぞるように触れる。

すると、痙攣とは違う震えが桃城の足に走る。

ピクリと動いた足に、顔を上げれば、

乱れた呼吸のままの桃城と目が合った。


平気な顔をしてはいるが、相当辛かったのであろう。

額には常よりも汗が多い。

乾が心配そうに言葉を紡ごうとしたのだが、

それよりも先に、桃城が笑顔で乾の言葉を遮った。



「俺、今すっげぇ幸せっす」



「・・うん」



ひどく嬉しそうに言う桃城に、乾はただ頷いた。

高揚した頬、屈託のない笑顔が、その幸せの大きさを物語っている。

彼がこれほど嬉しがることも珍しいなと、乾はぼんやりと思う。



「勝利、おめでとう」



そういえば、と、まだ告げていなかった言葉を桃城に伝える。

彼にとってこの勝利は、とても大きなものになるのだろう。

乾は心から、彼の勝利を喜んだ。



しかし。



「・・それもそうなんすけど」



返ってきた言葉は、思いもかけないもので。



「・・まさか、先輩が一番初めに駆け寄ってきてくれるとは思わなくて」



桃城は、視線を逸らさずに、高揚した表情のまま、乾に告げる。

その表情は、まるで水分を含んでいるかのように艶やかだった。



「嬉しかったんすよ」



咄嗟に、返す言葉が見つからず。

真っ直ぐに向けられる視線にはそのうち耐えられなくなり。

思わず目を逸らしながら呟いたのは、こんな言葉だった。



「・・俺が適任だっただろ。

 桃よりも大きいし、試合もないし」



照れ隠しという言葉が一番ぴったりくる言葉を、

桃城の目もまっすぐ見ることができないままに、呟く。

自分の中には全くデータのない彼の行動には、ひどく弱かった。



「別に試合が終わった大石先輩だってよかったじゃないっすか」



正論だ。

寧ろ、青学の母と呼ばれる大石が一番。

こういう事態に駆け寄っていくのではないだろうか。

思考の働かない頭で、導き出せたのは、そんなことだけだった。



「正直、この試合辛かったっんす」



彼から弱気な言葉が出ることなど珍しく。

乾は思わず桃城を見つめた。



「だけど、試合が終わって、先輩が駆け寄ってくる姿が見えて」



ああ、何で。

こいつは、こんなに。



「本当に、嬉しかったんす」



自分の心を捕らえて離さないのだろう。

心は既に捕らえられたまま。

逃れる術は知らなかった。



「・・そうか」



表情の見えない眼鏡をかけていてよかったと、これほど思った日はない。

きっと今はひどく情けない顔をしているのだろう。

あまり、見られたくはない姿だった。

気づかれないようにと再び痙攣した足に触れ始めるのだが、

そんな乾に、桃城はクスリと笑う。



「乾先輩」



普段とは違う声音で名を呼ばれ、僅かに身体が強ばる。



「さっきから思ってたんすけど、なんかこれって、

 俺が傅かれてるみたいっすよね」



言われて乾は今の自分の置かれている状況を把握する。

座る桃城と。

その前に跪き、桃城の足に触れる乾。

まるでこれでは主従関係のようだと、乾も納得をする。



「・・何が言いたいんだ」



溜息をつきながら桃城に問えば、彼はひどく悪戯な笑顔を浮かべた。



「・・キス、してください」



「・・え?」



想像もしていなかった言葉に、乾はただ呆然と桃城を見つめる。

彼と自分の関係は、お互い以外誰も知らない。

それは彼の外での態度が要因である。

人懐っこい側面を見せる彼は、外ではひどく明るく人気ものだ。

だからこそ、ただ乾だけに笑いかけるということもないし、

執着というものを見せるということもない。

そんな態度を見せる彼が、外で。

乾にそういう行為を求めることは、今までになかったのだ。



「・・俺、今ちょっとおかしいんすよ」



足に触れていた乾の手を、桃城が掴んで引き寄せる。

顔がぎりぎりまで近づいて、寸でのところで止まる。

もしかしたら試されているのかもしれない、と。

働かない思考回路でそう導き出した。



「幸せで、どうにかなりそう。

 だから・・」



キスしてください。



唇の触れる距離でそう囁かれて、乾は喉を鳴らす。

誰か人が見ているかもしれない。

そういえば後で竜崎先生が様子を見に来ると言っていた。




――そんなことはさっぱり頭の中から消え。




乾にだけ見せる妖艶な笑顔と、言葉に。


乾は引き寄せられるようにその赤い唇に口づけた。