人魚姫は恋をしました。 自分の姿を変えてしまってもいいというくらい、情熱的な恋を。 時々彼女を羨ましいと思うのです。 人生を狂わせてしまうほどの恋を手に入れた彼女のように いつか この身を焦がしてでも手にいれたい恋を、 恋をしてみたいと思うのです。 +揺+ 綺麗な夕焼けが空を覆っていた。 先ほどまでは青空に微かに朱が混じった程度で、紫色の美しいコントラストが空を覆っていたというのに、 どれくらいの時間が過ぎてしまったのだろうか。 不二は空を見て結構長い時間が過ぎたことを知り、正面の壁に掛けてあった時計を見た。 時計の針はもう5時近くであることを示している。 そろそろ返らなくては下校時刻になってしまう。 そう思って、不二は目の前で自分の仕事を手伝ってくれている人物に声をかけた。 「乾、そろそろ5時だから帰らないと」 プリントに一心不乱にシャープペンを走らせていた乾は、不二の声に気づいてゆっくりと顔を上げた。 そして自分の腕時計に目を落とし、時間を確認する。 「ああ、そうだね。そろそろ帰らないと」 生徒たちのほとんどはもう帰ってしまっていて、この教室には二人しかいない。 窓の外の赤く燃える太陽は時間の経過を明確に表し、 開いたドアから流れ込んでくる風は微かな冷たさをもって肌を刺す。 教室にはただ、遠くから微かに校庭で部活をしているらしい生徒たちの声が聞こえてくるだけだった。 不二は委員会で重要な役職についていて、 そのせいで突然その委員会の担当教員から雑用のような仕事を頼まれたのだ。 もちろん、一人で何とかできるだけの量なのだが、 日にちをかけていると部活の練習時間にまで削ってしまうことになりかねない。 どうしようかと悩んでいるときに、丁度同じ委員会だった乾がそれを知って 自分から手伝おうかと言ってくれたのだ。 不二は少しだけ悩んだが、一人では大変なことは分かっていたので素直に乾の好意に甘えることにした。 そして今に至る。 3年6組の教室で二人で放課後に居残りをし、せっせと仕事を片付けていた。 「悪いね、僕の仕事だったのに手伝ってもらって・・」 すまなそうな顔をして不二が謝ると、乾は少しだけ口もとを緩めた。 「かまわないよ。どうせ暇だったしね。二人でやれば早いでしょ」 ずれてもいない眼鏡を直しながら乾はそう言った。 「本当に有り難うね」 「いえいえ」 乾はかまわないと返事をするかのようにひらひらと軽く手を振って、 再び机の上にあるプリントにペンを走らせた。 「きりのいいところまで仕事を終わらせるから、それまで待っててよ」 その言葉にうん、と頷いて、自分の仕事はあらかた片付いた不二は、目の前の人の仕事をただ眺めていることにした。 無駄のない動きにいつもながら感心してしまう。 まるでそれ自身が意思を持っているかのように、ペンは自由自在に乾によって動かされていく。 自分よりも一回り大きい手なのに、均整の取れた美しい文字を乾は書く。 不二はそっと自分の手に目をやった。 止まることなく動く乾の手と比べてみると、自分の手の貧弱さがやけに目立った。 同じ年の人間の手なのにこうも違うものなのだろうか。 テニスという野外競技をしているはずなのに、白い不二の手。 それに対して乾の手は、大きくて指が長くて、外でテニスをしている人間だということが分かるくらい日に焼けていた。 しなやかなその手から、計算された無駄のないテニスが生み出されていく。 そう思うと乾がひどく羨ましいような気がして、不二はじっとその手を見つめていた。 「何?」 不二の視線に気がついた乾が顔をあげて不思議そうにそう問うた。 とくん、と一つ鼓動が跳ねる。 「あ、ごめんなんでもないよ」 取り繕うようにいつもの笑顔を浮かべて不二は謝罪の言葉を口にする。 まさか見とれていたなど言えるはずもなく、なんとかごまかそうと不二はただひたすらに笑ってみせた。 「そう」 大して興味もなかったのだろう乾が、不二の言葉を聞いてすぐに作業に戻った。 心の中で不二は小さくため息をつく。 気づかれなくてよかった。 不二はそう思って、心臓に軽く手をあてた。 すると驚いたことに、心臓は軽く早鐘を打っていた。 どくん、どくんとその音さえ聞こえてしまいそうなほど。 自分の通常の脈拍数を思い出して、やっぱり少し早いと思い、その原因を探ろうと頭を働かせる。 不二の人生の中で一度も起こったことのないできごとに、どうしてよいのか分からず、 もう一度確かめるように自分の心臓に手をあてた。 確かにいつもよりも早く鼓動が動いている。 体の中が高揚して、少しだけ熱を持っているのも分かる。 けれどなぜなのだろう。 考えてみると奇妙な点がいくつか見つかった。 別に、乾の手に見とれていたということくらい大きなことではなかったはずだ。 友達の間で他人のよいところを褒めるのは特別なことではないのだから、乾にそれを素直に告げてもよかったのだ。 普通の会話の中で『乾の手って綺麗だよね』とぽんと口に出してしまえば、なんてことはない、乾は驚いたような顔で『そうなのか?』と聞いてくるに違いなかった。 では何で、自分は知られたくないと思ったのだろう。 どうして乾に自分の感情を知られたくないと思ったのだろう。 考えても考えても答えは分からぬまま。 不二がそう考えているうちに、乾の性格が表れたような整った文字がどんどんと白い紙を埋めていった。 そしてその文字が紙の最後までを埋め尽くした時、乾はぱたりとペンを置いた。 「おわったぞ、不二。さあ帰ろうか。・・・不二?」 呼びかけられて不二は、自分がぼんやりと自らの思考の中に入り込んでしまっていたことに気づいた。 内心慌てながら、不二は急いで机の上にあるものを片付け始める。 「ごめん、ぼーっとしてたね僕。うん、帰ろうか」 普段見ることのできない不二のどこか落ち着かない姿に、乾は小さく笑みを零す。 乾のそんな姿にさえ、心が敏感に反応してしまっている自分がいる。 普段ならそんなことを思わないに違いないのに、どうしてかその穏やかな笑みに心が惹かれ、 眼鏡の奥のその表情を見てみたいとさえ思ってしまった。 意識をすると、どんどんどんどん深みに嵌る。 こんなことは初めてだ。 先に片付けを終えた乾は傍に静かに佇んで、不二の片付けが終わるのを待っていた。 けれども、それは不二にとって決して不快なものではなかった。 乾は人を急かすような雰囲気を一切出さない。 もちろん、必要なときはそれなりに雰囲気を作るときがあるが、こういう日常の些細な生活の中で、乾はよほどのことがない限り、人を急かすということがなかった。 乾の周りを取り囲む、穏やかな空間。 今も乾は不二の傍にいるけれども、決して『待たされている』という雰囲気を出していない。 それを意識しないでやっているのかと思ったら、何故だか不思議と柔らかい笑みが零れた。 自分のものをあらかた片付け終えた不二は机の上のプリントを凝視する。 とりあえず、この書類を先生の渡さなければならない。 鞄を肩から下げて、両手でそのプリントを抱える。 それは普段鍛えている不二にとっても少々重いものだった。 けれども、そんなに気には止めていなかった。 女の子でもないのだから、人に持ってもらうというのも何だか気がひけたからだ。 けれど、乾はすぐにそんな不二に気がついた。 「半分持つよ」 おびただしい枚数のプリントに少し顔を顰めてみせて、 何で一人で持つのだという意味を口調の中に含めながら乾はそう言った。 「えっ・・」 不二が反応するよりも早く、乾の手がプリントに伸びる。 乾が持っていたプリントの束を半分取ろうとした瞬間、不二の手に乾の手が触れた。 どくん、と体の中がざわざわと音をたてて波打つ。 予測していなかった事態に、不二は思わず目を瞠った。 触れられたところが熱い。 触れられたという事実に体が反応して、身動きさえとることができない。 細胞という細胞が収縮して、ぎゅっと心が締めつけられる。 息をすることさえ忘れてしまいそうだった。 乾は不二に触れたことには全く気にしていない様子で、ただ不二の腕の中から半分ほどそのプリントの束を取った。 どうして、この体は動かなくなってしまったのか。 どうして、息もつけぬほどの衝撃に襲われたのだろうか。 頭の中は一つづつ、その情報を得ようとしているけれどもうまくいかない。 不二の微妙な変化に気づかなかったのであろう乾は、そのまますたすたと歩き出してしまう。 まだ整理できていない感情に不二は強く瞼を閉じた。 体の中で脈打つ鼓動は赤く、サイレンでも鳴らしているかのような感覚が体の中を這い回る。 赤の色は警告。 止まりなさいと言ってはいるけれども、どこかに止めることができないと答えている自分がいた。 目を開くとそこには明確な答えがあって。 不二は3歩遅れて、その広い後ろ姿を追った。 僕は、 恋をしました。 |