自分にはテニスというものしかなかった。

前を見て、更に高みを目指そうと、体中の細胞がその感情に呼応するかのようにざわりと動く。

テニスをするということ、それはすなわち孤高の強さを求めるということだ。

走り終わった荒い呼吸の中で、体が悲鳴を上げながらも、その先にある高みを思って細胞が震えた。

昂揚感で心が満たされて、走り出していく感情を止めることなどできない。


しかし、それとは全く違う感情を自分の中に見つけてしまった。

孤高の強さとは違う、どこか甘い色をした感情に戸惑いを覚えずにいられなかった。

ひび割れたコップの隙間から入り込んでいく水のように、それはじわじわと浸透していき

やがて一粒の雫となり、海堂の心に零れ落ちるようだ。


それからだった。

今まで色あせていた自分を取り巻く世界が、色を取り戻したかのように表情を変えた。

まるで生まれたてであるかのように、明るく、光の降り注ぐ世界が眩しかった。





+アゲハチョウ+





「海堂」


声をかけられて、心臓が一つ跳ねる。

何も心構えができていないときに突然声を掛けられて、ひどく動揺した。

意識してしまったら、もう忘れることさえできない鮮やかな感情。


自分はもう、彼に捕らわれてしまっているのだから。


しかし海堂は、生来感情を表に出すことが不得手で。

それが上手く働いて、心の動揺をあからさまに表に出すことはなかった。


「・・何っすか?」


そっけないような返事をする。

わざと、ではない。

そう返事をすることが自分の出来る最大限のことだった。

返事をすることができただけでも、出来すぎたくらいである。


「最近、調子悪いのか?」


最近、という言葉に海堂は一つ体を震わせた。

その言葉は少なくとも、彼がずっと自分を見ていてくれたことを表していて、海堂は正直驚いた。

誰にでも頼りにされているあの人が、大勢いるうちの一人、

それも生意気な後輩の自分をちゃんと見てくれていたことに驚いたのだ。


強くあるために孤独であることを望んだ。

自らそう望んだ自分に好き好んで近づいてくる人間などいない。

けれども乾はそんな自分をもきちんと一人の後輩として見てくれていた。

それが驚くべきことでもあったし、

ひどく嬉しいことでもあった。


「・・いえ、別に・・普通っすよ。・・何でそんなことを思ったんですか?」


悪いところなら、ある。

それは心の奥底。

溜まった感情が吐き出されずに体の中を這いずり回っている。


乾が傍にいるということ、そして悪いところを指摘されたということで更に体が緊張で強ばった。


「ただの推測なんだけどね、いつもと比べて」


乾の声は海堂の耳に心地よく響く。

柔らかく、決して人の嫌悪に触れないその声に、じわりと胸の奥が疼いた。

やけに喉が渇く感じを覚えて、海堂は一回唇を舐める。

そして自分でも気がつかないうちに海堂は、乾から視線を逸らして、下を向いていた。


コートの色が鮮やかに目に映る。

太陽の下、水を帯びた大地が光輝く。


けれど、そんなものではなく。

一度でいいから乾の視線を真正面から受け止めてみたいと思うのに、それすらもできない。

会話中に一度も視線を合わせない後輩を、彼はどう思っているのだろうか。

大していい印象を持っていないだろうと、簡単に推測できてしまうことが辛い。


海堂は、まだほんの少し乾いている唇を後悔の念を込めて噛みしめた。


乾が言葉を途切れさせる。

ふっと、乾の空気が和らいだような気がして、海堂はほんの少しだけ顔をあげてみる。

するとぽんと頭に手が置かれて、軽く頭を撫でられた。

まるで、近しい弟を構うような手つきで。


「お前のプレイに迷いが見えるから」


そう言われて、海堂は思わず顔を上げた。

初めて真正面から見上げた乾の表情は、海堂からは高いところにあって、少し遠い。

視線を上げた途端に入り込んできた太陽の光に眉を顰めながらも、額に手を翳して、

その表情を焼き付けようと体が勝ってに動く。


少し見上げた視線の先には、乾のどこか楽しそうな顔が見えた。


「海堂はいつも一心不乱にテニスをしてるだろ?

それなのに最近、何かに気を取られてるみたいだったから、何かあったのかと勘ぐっただけさ。

何もないんだったらいいんだ」


言われて、どくんと鼓動が一つ跳ねた。

乾に心を見透かされているのかと思った。

本当は、彼は自分の心などお見通しで、何もかも知っているのではないかと、そんな錯覚さえ起こさせる。


眩暈がするような感覚。

足元が真っ暗で、けれども自分は確実に彼の下へと堕ちていっている。

知らず知らずのうちに絡め取られた体は、もう動く余地さえ持たないくらい、乾に染まっている。

呼吸さえできなくなりそうだった。

それほどの衝撃。


何かに気を取られているという彼の言葉は、当たっている。

それも、他ならぬ、彼自身に。

自分は心を奪われているのだから。



心の奥底で警告音が鳴り響く。

これ以上、ここにいたら自分はもう動けなくなる。

優しいあの人の言葉を耳にしただけで、もう後戻りはできなくなるかもしれない。

そう、鳴り響く警告音の反対側で、

けれども。

全て奪われてしまってもいいんだよと囁く何かがあった。


本当は分かってる。

四肢の全ての自由を奪われてしまってもいいと思うほど、自分は乾のことを愛してる。



「すんません・・もっと集中します・・」



乾に途切れがちに言葉を返して、引きつるような喉を押さえながら、

海堂は急いで背を向けてコートへと走っていった。










初めは見ているだけでよかったのだ。

自分にはテニスという根底を支える大きな柱があって。

乾という人物は、気になるけれどもそれはただの興味本位にしか過ぎず、

一過性の熱のようなものだと思っていた。


けれどもその感情は日増しに大きくなり。

いつからだろう。

自分の体の大部分を占めるようになったのは。

気がつけば、息をすることさえ困難で。

体を動かすための動力がテニスだけでは足りなくなってしまった。

見ているだけでは足りなくて、こっちを向いて欲しかった。

多くの人から見られているあの人の視線を、自分だけのものにしてしまいたかった。



自分だけのものに。



部活は雨のためになくなった。

朝から降り続いた雨は止むことを知らず、更にその勢いを増して地面に叩きつける。

けれども海堂は、まるで部活がないことを知らないかのように、そのまま部室に向かった。

鞄を部室に置き、そのままTシャツと短パンに着替えて雨の中へ飛び出した。


体を動かしていないと気が狂いそうだった。

雨の音を聞きながら静かに部屋で過ごしてなどいたら、

きっと何かに捕らわれたように、心が悲鳴をあげるだろう。


少し、自分の頭の中を冷やそうと思った。

窓の外を見、雨が降り続いているのを見たら、

体を動かしながら頭を冷やせて好都合だと頭が勝手に判断していた。


部活は雨のためない。

だから、どんなに自分が雨の中を走ろうとも止める人も心配してくれる人もいない。

もしこんなときに大石先輩や手塚先輩に見つかれば大変なことになるだろうが、

誰にも見つからないだろうと高をくくって、海堂は外へと飛び出した。



冷たい雨は土を濡らし、コンクリートの上を跳ね回る。

結構強く降っている雨だと気づいたのは、外へ出て大分経ってからだろうか。

跳ねる泥は足に付着し、それをすぐさま土砂降りの雨が洗い流す。

気がつくと、同じところを何度も走っていて、

水と泥を含んで鉛のようになったスニーカーと、冷えて動きが鈍くなった体に

結構長い時間、自分は外を走っていたのだと理解した。


ひとしきり走ったあと、部室に戻る。

雨の中部室に戻る足はひどく重く、膝が震えて何度か立ち止まった。

寒さに対する震えもあるだとろうが、走りすぎによる疲労もあるのだろうと

雨に打たれながらぼんやりとそう思った。


叩きつけるような雨の中で、膝の痛みを感じて再び立ち止まる。

腰を折って膝をさすり、再び部室へと歩いていく。

ざぁあという雨の降りしきる音だけが、やけに煩く耳の奥に響いた。


部室の扉の前に立ち、濡れ鼠になっている体の水気を、海堂は軽くはじいた。

気休め程度にしかならないが、部室をできるだけ濡らさないようにと、そんな気が働いてのことだ。


銀色のドアノブに手をかけて、ゆっくりと回す。

触れた金属のそれは、雨の冷たさと同化して、海堂の熱のない手にもひどく冷たく感じた。

軽い音がして、ドアを引く。



そこで海堂は全ての動きを止めた。



何故彼がここにいるのだろう。



どうして、ここに。



冷やされすぎた頭は思考を止め、視点は固まったまま、彼以外のものを映すことなどできない。

何かを紡ごうとした口は開いたままでその動きを止め、

海堂は濡れたままの格好で入り口で固まってしまった。


海堂の服から滴り落ちた雨水は、ぽたり、ぽたりと部室のコンクリートに濡れたシミを作っていく。


乾先輩は珍しくひどく怒ったような顔をしていて、海堂に近づくと強く腕を引っ張った。


「おいで」


強い力で掴まれた腕と、滅多に聞くことのできない怒りを含んだ低い声に海堂はびくりと体を竦ませた。

けれども彼は有無を言わさずに海堂を部室の中へ中へと引っ張っていく。

連れてこられたのはシャワー室で、海堂は一番手前の個室の中に入れられて、

服の上から問答無用で熱いシャワーをかけられた。


冷えた体に温かいお湯がかけられて、俺は目を見開いたまま立ちすくんだ。


肌が上から次第に熱を取り戻してきて、自分がどれだけ冷えていたのかを実感する。


「自分がどんなことしたのか分かる?」


乾は強い口調でそう自分に尋ねた。

まっすぐに向けられた視線は自分だけを見ていて、その強さに目を離すことができなかった。

熱の戻ってきた体は、やっと頭が働きだしてきて、乾の言葉に小さく頷いた。

きっとひどく心配させてしまったのだろう。


排水溝に流れるお湯を見て、海堂はギリっと音がするほど唇を噛んだ。

視界がぼやけてくるのはシャワーのせいだけじゃないはずだ。

口惜しくて、乾にこうして迷惑をかけている自分がひどく惨めだった。

耳の奥をつくシャワーの音が、煩くてたまらない。


「・・海堂」


乾がそっと海堂の顎に触れて、海堂を上向かせた。

ぼんやりとした視界の中、滴る水に遮られて乾の表情が良く見えない。


「何かあるんだろ。お前が大好きなテニスに集中できないくらいの問題が・・」


ぼやけた視界に、やはり乾の姿ははっきりと見えなかった。

頬を流れる熱い雫は、自分の涙ではないのかと思わず確信してしまう。

さっきまで厳しかった乾の声が、柔らかさを帯びて海堂を促す。


「・・やめてくださ・・。俺に・・優しくするな・・」


海堂は触れる乾の手を思いきり振り払い、いやいやをするように首を振る。


優しくなんかされたくなかった。

期待をしてどうせ傷つくのは自分なのだ。


海堂はそのまま座り込み、膝を抱えながら顔を伏せる。

こうして怯えるように小さくなっている自分がひどく惨めに思えた。


思いもろくに伝えることができず、傷つくのを恐れて前に進めないでいる。

折角乾が差し伸べてくれた手も、こうして振り払ってしまう自分に、乾は今度こそ愛想をつかすに違いない。


泣きたくなった。

一人で、声を殺して。

抑え切れない思いに体中を引っ掻き回される。

もう、何でもいいから、縋れるものに泣き縋ってしまいたいと海堂は思った。



その時突然、海堂の腕が引っ張られる。

流れるシャワーの中、乾は制服が濡れるのも厭わずに海堂を強く抱きしめた。


思わず海堂は目を瞠る。

乾は海堂の心を見透かしたかのように、海堂の体に腕を回す。

そしてしっかりと抱きしめた。


何かに縋りたかった自分が、一番縋りたい人に腕を差し伸べてもらっている。


「・・や・・先輩、・・濡れる・・」


「かまわない」


顎に触れられ、顔を上げさせられる。

途端に襲ってきた噛み付くようなキス。

シャワーによって段々濡れていく乾の学生服と、口づけの感触を同時に感じる。

頭を押さえられて、体を強く抱きしめられる。

そして苦しいくらいに施されるキスの熱が体中を支配し始める。

これ以上ないくらい密着した体から、海堂は想いが堰をきって溢れてくるのを感じた。


「・・好きです」


言葉が溢れて止まらなかった。


「好きです・・好きです」


壊れた機械のように何度も何度も繰り返す。

言葉にしていくうちに、感情が止まらなくなって、目じりに熱いものがせりあがってくる。

紡いでいる言葉の語尾が掠れる。

どう思われているのだろうと、考える余裕さえなかった。

ただ願うように言葉を続ける。


「・・好きだから・・何でもいいから・・俺を愛してください・・」


望まなければ失うことなど何もなかったのに。


どうして望んでしまったのだろうかと痛む心が訴えた。


乾の心が自分に向くことを飢えた心が欲していて、ただひたすらに乾のことだけを求めた。



「馬鹿は、俺か」



耳元で呟く声とともに、乾が優しく海堂の頬に触れる。

眉を寄せた乾の表情が痛々しくて、思わず海堂は首に腕を回し、乾を抱きしめ返していた。


「ごめんな。俺がもっと早く言えばよかったんだ」


そんな海堂を乾は壁に押さえつけながら、唇が触れ合うくらいの距離で乾は言った。




「愛してるよ、誰よりも」










乾がシャワーを止める。



ひんやりと肌をさす風に海堂は小さく身震いすると、きつく触れる乾の熱だけを追い求め始めた。