+月下を抜ける+ 心が。 ひどく落ち着かなくて。 ああ、これが恋なんだって実感した。 毎日の日課となっている夜のランニング。 いつもは近所の公園で走っているのだけれど。 湧き上がる熱と感情を抑えきれずに、海堂は少し遠出をした。 遠出、と行っても距離にしたらほんの少し。 だけれども、海堂にとってそれはすごく大きな壁のように感じていた。 いつもだったら行きたくても行けないのに。 今日はどうしてもその衝動を抑えられなくて。 口に出してなんて絶対に言えないけれど、 もう完全に頭の中はあの人のことでいっぱいなんだと思った。 今日、海堂は乾と一緒に帰った。 口数の少ない海堂の代わりに、いつも乾が途切れないようにと話をしてくれていた。 それに海堂は頷いたり、話にのったりして帰っているのだ。 でも今日はそれどころじゃなかった。 乾の熱が。 左側を歩いていた乾の存在がどうしても気になったのだ。 他愛もない話をしながら帰っていくのはいつものことだったけれども、 海堂は普通の自分を取り繕うのに必死だった。 隣に乾がいるというだけで顔から火を噴きそうなくらい動揺していたのだと思う。 原因は、今日の部活での出来事。 海堂が1対1でラリーの練習をしていたときのことだった。 コートの端の方へ飛んできた球を何とか返そうとして、思いっきり走っていったとき。 隣のコートから飛んできたボールが丁度海堂の足元へと転がった。 ボールは見えていたから、避けようとしたのだが、 突然のことに体がついていかず、バランスを崩してしまったのだ。 倒れる、と思ったそのとき。 ふわりと優しい腕が海堂の体を抱きしめてくれた。 『大丈夫・・?海堂』 耳元で聞こえた声は紛れもなく乾の声で。 海堂は体中の血液が一気に沸騰したような錯覚を覚えた。 『・・っす』 大丈夫と言おうとした唇はうまく動きをなさず、掠れた語尾だけが音となって発せられた。 『そう・・』 乾がゆっくりと腕を解くと、海堂はどこか寂しいような喪失感に襲われた。 そしてそんな考えを持った自分の頭を軽く振る。 部活中にこんなことを考えている自分が浅はかな気がしてならなかった。 『・・ありがとうございました・・』 赤くなっているだろう顔を見られないように俯きながら、 お礼の言葉だけを述べて海堂は練習へと戻っていった。 部活でそんなことがあったから、帰り道も心の中が尋常である訳がなく。 乾の一動作ごとに神経を傾ける自分がいた。 話の合間に隣を歩く乾の横顔をちらりと覗いてみたり、 目が合いそうになっては何事もなかったかのように必死に目線を逸らしたりした。 きっと乾は気づいている。 あの観察眼のするどい彼が気づいていないはずはないのだ。 それなのに乾はいつもと変わらない態度で海堂と接してきた。 ずっと乾に神経を向けていた海堂はやはり途中で疲れてしまい、 いつも分かれる道までたどり着くと、逃げるように自分の家へと帰ってしまった。 だからどこか消化不良な感が否めない。 いつもならもっと乾と楽しく会話をするのに。 部活であったこととか家族の話、少し勉強の話をしてみたり。 折角の乾と一緒にいられる時間が減って、 早く乾の傍から逃げたかったと思う反面、 乾ともう少し一緒にいたかったなという感情が沸き起こるのもまた事実だった。 今日は心が敏感に反応しすぎて、乾の存在にあまり触れられなかった。 家に帰って、走って部屋まで駆け込んだ。 滅多にない海堂の行動に家族は驚いていたようだけれども、 そんなこと気にしている暇はなかった。 部活でのあの出来事が何度も頭の中で繰り返されていて、 海堂は部屋の床に足を抱えて小さく座りこんだ。 心がざわざわと体中に熱を発して、 今すぐにでも乾のところへ行って抱きしめたい衝動に駆られる。 必死で体を抑えていなければ、本当にこのまま飛んでいってしまいそうだった。 きっと海堂が飛んでいっても、 乾は少しだけ嬉しそうな顔をして、海堂を招きいれてくれるのだろうけれども。 会いたくないのに会いたい。 触れたくないけど触れたい。 この感情は何なのだろうと、海堂は体中が疼くのを感じながら必死で体を縮こませた。 抱きしめられた感触が今でもまだ鮮明に体に焼き付いている。 海堂はランニングコースを変えた。 それは少し遠回りをすれば行くことができる場所で。 目的の場所が近づくに連れ、海堂の心はまた不思議とざわめきたつのが分かった。 何度も行ったことのあるマンション。 あの壁の向こうに乾がいる。 もちろん、会えるなんてことは思ってもいないし、会おうとも思っていない。 ただ。 今日、少しだけ感じ足りなかった乾の存在を、 窓越しでもいいから感じておきたかった。 光が漏れている窓を見て、 ああ、あそこに乾がいるのだなと感じられればそれでよかった。 心の中の足りない今日の分の乾を補うために、 海堂は近くに見えてきたマンションへ向かって走った。 すぐに顔をあげればよかったのだけれども、 どこか気恥ずかしくて寸前まで上を見上げることができなかった。 マンションのエントランスが見えてきて、海堂はやっと顔を上げる。 乾の部屋の窓を見上げて、海堂は思わず目を見張った。 ・・思いっきり、目が合ってしまったのだ。 乾と。 海堂は思わずその場に立ちすくんでしまった。 合ってしまった視線を無視して走り去るわけにもいかず、海堂は上を見上げ続ける。 乾はそんな海堂を見て、少し笑ったようだった。 『やぁ』 乾の口がそう動いた気がした。 5階にある部屋にいる乾からはもちろん声は聞こえない。 だから、口が開いたからそう言っているのかなという気がしただけだ。 まさか、会えるとも思っていなかった。 海堂がランニングコースを変えたのは突然のことで、乾が知っている訳もない。 それなのに、乾は偶然に窓から外を眺めていた。 ――偶然? もしかしたら。 偶然なんかではないのかもしれない。 乾のことだから、きっと海堂のことなんてお見通しだったのかもしれない。 海堂が乾に会いたがっていたことも、 もう少し乾の存在を感じていたいなと思っていたことも。 そしてきっと海堂が乾をとてつもなく好きだということも。 全て全てお見通しで。 ぽかんと窓を見上げている海堂に、乾は手を下から上へ小さく振った。 『あがっておいで』 乾の言葉が聞こえた気がして、 海堂は少しだけ口元を緩めて、小走りでエントランスの中へ入っていった。 エレベーターを上がると、きっと乾が玄関の前で待っていてくれるのだと思う。 優しい笑顔を浮かべて。 それでも全然かまわないと思った。 心がすぅっと何かに満たされて。 ああ、これが恋なんだって実感した。 |