+Good night,Honey+ おやすみなさい、大好きなあなた。 時計が深夜の0時を指すのを見て、海堂は勉強していた腕を止め、 固まっていた上体を解すように伸びをした。 明日の試験――もう今日になってしまったのだが――の勉強はあらかた終わった。 もう夜も遅いし、そろそろ眠りにつこうか。 海堂はそう考えて、机の上の教科書を片付け、机の電気を消した。 明日で、辛かった試験の日々は終わる。 きちんとした性格の海堂は、適当であることを嫌う。 だから試験期間にはきちんと勉強をすると決めていて、 いくら練習がしたくとも、夜の軽いランニングをするくらいに自分を押し留めていた。 けれどもそんな日々ももう終わる。 明日からは望むだけ思いっきりテニスができるのだと思うと、 明日の試験も少しだけやる気を出そうかなという気になる。 海堂は眠気が襲ってきた体を懸命に動かして自分の寝床まで歩いた。 そういえば、ここのところ、あの人にも会っていない。 試験期間ということで部活はなく。 3年生と2年生では教室も違う訳だから、学校内で出くわすということも少ない。 海堂は布団に体を横たえて、ふっとため息をついた。 長いことあの人に会わないなんて滅多にないことだ。 会わない期間が続けば大抵向こうから勝手に会いにきたし、 それが分かっていたからこそ、海堂が自分から乾に会いに行くことはなかった。 けれども、今回のテスト期間には乾は全く姿を現さなかった。 大して気にするということはなかったけれども、 こうして夜、寝る時に、どうしてかふっとあの人のことを思い出すのだ。 今頃あの人はノートを前に、明日の試験問題を予測しながら勉強に励んでいるのだろう。 そう簡単に想像がついて、海堂は少しだけ頬を緩めた。 乾も3年生だから、進学のために勉強が大切になってくる。 ちゃんと海堂もそれを知っているから、いつもレギュラーのために時間を割いてくれる乾に、 自分たちのことは何も気にせずしっかりと勉強に励んでほしいと思うのだ。 あの人はやると決めたことは手を抜かず、とことん突き詰めるようにやるという癖がある。 もう少し他人のことなのだから手を抜いてもいいんじゃないかと思うのだが、 乾の性格上それはできないらしい。 だから試験期間中という、制約された時間の中だけでも、 乾が何事にも捕らわれずに好きなことをしてくれたらなと思う。 けれども、一週間くらいあの人に会っていない。 頭の中では乾に勉強を頑張ってほしいと思いながらも、どうしても寂しさを覚えてしまう。 海堂はころんと布団の上で寝返りをうった。 勉強に疲れて布団に入ると、やはりふとあの人のことを思い出す。 会いたい、とか声が聞きたいとか。 本人の前だったならば絶対に口にしないことを心の中で思っている。 顔が見たいけれど、それは自分のわがままだから。 そう思っていつもゆっくりと目を閉じる。 会えないのであれば、夢の中だけでもあの人が出てきてはくれないかと願うのだ。 朝になって思い返すと、 夢の中にあの人が出てきたことなんて一回もなかったのだけれども、 それでも願わずにはいられなかった。 夢とは見ようと思って見られるものではないのだなと、 海堂は布団の中でもう一回寝返りをうちながら考えた。 明日で試験は終わる。 そうすればいくらでもあの人に会えるのだ。 今まで勉強をしていた体はまだ覚醒していて、眠る気配を見せない。 どうせ今無理矢理に目を閉じても、夢の中にあの人は出てきてくれないのだろう。 そう思うと、明日という時間がひどく遠い未来のように感じられた。 朝を迎えて試験を終えて。 そうすれば無条件に乾と会えるのに、どうしても今、乾の存在を感じたくて仕方がない。 指先がうずうずと乾の熱を求めていて。 海堂は疼くような熱に耐えられずに布団の上を何回か転がった。 それでもやはり、歯痒いような気持ちは抑えられなくて。 明日で試験も終わるから、きっともう乾もそんなに切羽詰まった勉強をしていないだろう。 そう自分に理由をつけて、海堂は布団の横に転がっていた携帯電話をそっと手にした。 目の前まで持ってきて、じっとそのディスプレイを見つめる。 この携帯電話を使う相手はほとんど限られている。 ほとんどがあの人からのメールだったり電話だったりするので、 この試験期間中は全くと言っていいほど使われていなかった。 それに、自分からこの携帯電話を使うといったことはほとんどない。 メールが送られてきても、自分はそれに簡単な返信を返すくらいで、 自分からメールを発信して返事をもらうということはごく稀だ。 だから、自分から人にメールを送るという行動がたいそうなことに思えて、 海堂は携帯電話の前で何秒か固まったまま動けなかった。 もし乾がもう寝ていたりしたら。 その上携帯の着信音を消すのを忘れていて、寝ていた乾を起こしてしまったら。 色々な状況を想定してしまって、海堂は指を動かすことができなかった。 けれども、意を決してメール作成のボタンを押す。 乾が寝ていないことを祈りながら慣れない手つきで短い文章を打った。 『勉強頑張ってください。』 たったそれだけの文章を海堂は何度も読み返して、そして心を決めて送信ボタンを押した。 メールが送信されましたという文字を見て、海堂は全身からほっと息を抜く。 海堂は自分の胸にそっと手をあてた。 メールを送るということがこんなにも緊張するものだと思わなかった。 顔に熱が上って、心臓がいつもよりどきどきと早く脈を打っている。 少し高揚している感情を抑えるように、 海堂は携帯を枕元に置いて再び布団に横になった。 その途端、マナーモードにしていた海堂の携帯が突然震え出した。 それに驚いて海堂は勢いよく起き上がる。 手で携帯を掴んで、その震えを止めるために慌ててボタンを押した。 画面にはメール着信のマークがちかちかと光っている。 乾貞治。 画面にそう表示されるのを見て、海堂は顔が自然と緩むのを止めることができなかった。 返事なんて、そんなに期待できるものではなかったのに。 試験勉強をしているあの人がメールに気づかないかもしれないし、 もう寝てしまっているかもしれない。 それなのにものすごい速さで返ってきたメールに嬉しさを覚えずにはいられない。 海堂は落ち着くように一つ息を吐いて、はやる心を抑えながらメールを開いた。 『有り難う。海堂も頑張ってね。愛してるよ』 恥ずかしくて、照れくさくなって顔から火を噴きそうだった。 あの人はいつも理論的で、直接的に言葉を伝えるということはしない。 遠まわしにじわじわと、海堂に気づかせるように言葉を伝えてくる。 それなのに、乾にしては『愛してるよ』という言葉は直接的過ぎて。 海堂は小さく『バカ・・』と呟いた。 けれども自然と顔には笑みが浮かんでいて、 絶対にあの人の前では言わないけれども、 たまにはこんなのもいいなとそっと心の中で思った。 メールが返ってきて、乾の存在を感じることができた。 それで当初の目的は達成したはずなのだけれども。 どうしてももう一度乾に言葉を伝えたかった。 自分がメールをすることで、 少しでも乾が自分と同じようなあったかい心を受け取ってくれれば嬉しいなと思った。 海堂はもう一度、乾に返信のメールを打った。 今度も短く、だけれども乾だけに分かるような言葉を書いた。 自分は今少し気分が高揚していて、だからこそこんなことを書けるのだろう。 いつもの自分だったらこんなこと、言えるはずもなかった。 これを送って明日乾に会ったら自分はきっと恥ずかしくて逃げ出してしまうかもしれない。 そこまで考えて、海堂はふっと笑みを零した。 まあ、いいか。 たまにはこんなことがあってもいい。 そう思って海堂はそっと送信ボタンを押した。 『Goodnight,Darling』 海堂は枕元に携帯を置いて、勢いよく布団を被った。 返ってくる返事は、きっと恥ずかしくて読めない。 だから返事が返ってくる前に眠ってしまおうと思った。 明日部活であの人に会うのが少し恥ずかしいけれど、今はとても幸せだから。 安心した途端に襲ってくる眠気に目を閉じると、 瞼の裏には少しだけ焦っているあの人の姿が見えた。 今日は、愛しいあの人が夢に出てきてくれるかもしれない。 海堂は襲ってくる眠気の中で、携帯電話が震える音を聞いていた。 |