誰にも。 売ってやるものか。 +非売品。 「海堂」 呼びかけられた海堂は、ラケットを振っていた手を休めて乾の方を振り向いた。 その時、初めて頬を流れる汗に気づき、海堂はタオルでその汗を拭った。 拭って乾いた頬に、さらりと風が吹き抜ける。 その爽やかさに少しだけ安心をして、海堂は乾と向き合った。 「・・なんすか?」 問えば、眼鏡の奥の瞳がふわりと緩んだ。 「頑張りすぎるのもいいけど、ちゃんと休まないと体に悪いよ」 自分の手よりも少しだけ大きな乾の手が、海堂の頭を撫でる。 他の人間にそんなことは決してさせないのだが、 乾にだけは何故だか、反抗しようという気は起こらない。 「・・何のことっすか・・?」 分かってはいるけれども、敢えて知らないふりをして聞いてみた。 認めてしまうということは、自分が悪いことをしているのを知っていてやっているようで、 罪悪感が生まれてきてしまうから。 「昨日。走りすぎてただろ?」 乾の言葉に、海堂は僅かに目を伏せて、乾から視線を外した。 やはり。 この人に隠し事などできないと分かっているはずだったのに。 「無理は駄目だよ」 ぽんぽん、と。 まるで子供をあやすかのように、海堂の頭を叩いて。 そうして、再び他の生徒を指導するために、コートへと戻っていく。 そんな彼の背中に少しだけ淋しさを感じながらも、海堂は少しだけ理不尽なものを感じた。 自分も、早く大人になってやりたいのだ。 早く。 テニスの技術もさることながら、精神面でも、彼に追いつけるように。 そうして、いつしか彼の手が自分を子供のように撫でるためのものではなく、 共に歩んでいけるように繋ぐためのものになってくれればいいと、思っているのに。 まだまだ自分には彼のように大人になることができないのだと。 少しだけ、淋しかった。 「10分休憩!」 手塚の声がテニスコート中に響く。 周りにいた部員たちはその声に、待ってましたとばかりにその場に座り込みはじめる。 けれども海堂はまだ練習をし足りないという心が強く、練習を続けようとした。 しかし。 ふと思い出したのは、乾の言葉。 『頑張りすぎるのもいいけど、ちゃんと休まないと体に悪いよ』 最初は、無視してやろうかと思った。 けれども、彼が言うことは正しく。 それが実行できないのは、ただの自分の未発達な精神のためだと分かっているから。 海堂は大人しく練習をやめた。 しかし、その場に座ることも憚られて、 海堂は顔を洗うために、テニスコート外の水道へと足を運んだ。 歩きながら、テニスコートを見渡す。 苦しい練習メニューに、1、2年は随分と疲れきっている様子であったが、 海堂とは反対側にいる青学レギュラーメンバーは飄々と談笑などしており。 やはり、まだかなわないのかもしれないと、海堂は思った。 その青学レギュラーメンバーの中に、乾の姿を見つける。 やはり息一つ乱していない乾は、練習メニューを確認するためか、 手塚とノートを指差しながらあれこれと話を進めていた。 もちろん、乾は自分だけの先輩ではない。 青学を強くするために、また彼自信が強くなるために。 努力は怠らない。 しかし、何故だろう。 全国大会に出られるためであったら、この学校に、自分に。 得になることは喜ぶべきことであるはずなのに。 あんな乾の姿を見るたびに、心が痛む。 海堂は、ふいっとそれを視界に入れないように視線を逸らした。 色々な人に囲まれて、頼られている彼を見るのが辛かった。 ただの自分の我侭なのだとは思う。 あの人が他の人に構うことなく、もし自分だけのそばにいてくれるのであれば、今度は。 あの人が、他のものに視線を向けることですら、嫌だと思ってしまいそうで。 海堂はそんな自分の感情に、僅かに唇を噛んだ。 テニスコートを出て、木の下にある水道へとたどり着いた。 部員たちはみな、ここまで出てくることが億劫であるのか、人の姿はほとんど見えなかった。 ただ一人、そこにいたのは。 今年入った、生意気な、けれどもテニスは上手いと認めざるを得ない、小さな後輩。 「海堂先輩。」 名前を呼ばれて、厳しい視線を一つ向ける。 あの後輩の方から自分を呼ぶのは珍しい。 彼に呼ばれる時といえば、何か本当に用事があるときか、 もしくはどうでもいい頼みごとがある時くらいなものだ。 何の用事があるのだろうかと、警戒心を含んだ目で越前を見る。 「何だ」 ぶっきらぼうな答え方だとは思ったが、 別に越前だけではなく、他の人物たちにも同じ対応をしているので気にもしなかった。 そんな海堂の対応に、越前はクスリと笑みを零す。 何だか馬鹿にされたような対応に、海堂は眉を顰めた。 「・・お前」 「ねぇ、海堂先輩」 抗議の言葉口にしようとすると、それを越前に遮られた。 越前はまだ、楽しそうな笑みを浮かべている。 「乾先輩っていいっすよね」 口もとを僅かに上げながら、越前独特の視線を海堂に投げかける。 自信というものを持った、王者の目。 言われた言葉を反芻し、海堂は更に表情を険しくした。 どうして、そんなことを自分に言うのか。 問い詰めてもやりたかったが、下手に取り乱して越前に揚げ足を取られることを警戒し、 海堂は越前の顔をまっすぐに見つめた。 帽子を目深に被った越前は、しかし隠された目元で笑っていた。 「優しいし、頼りがいがあるし・・」 言葉尻に、少しだけ皮肉が潜んでいる。 もしかしたら本当に褒めているのかもしれないが、 越前の口調はどこか裏の意味を推察させる。 海堂は僅かに息を飲む。 後輩が、何を言おうとしているのかが全く分からない。 「ねぇ」 越前の声が、風に乗る。 まだ少年という域を抜け切れていないその声は。 雰囲気を脅かすことなく、空気に溶けた。 「乾先輩、いくらでくれます?」 越前の言葉に海堂は目を瞠った。 なんということを言うのであろう。 人に値段をつけようというのか。 それよりも、海堂と乾がつきあっているということを知りながら、そんなことをいうのか。 自分が、乾に。 値段などつけられるはずもない。 誰にも売るつもりなどないのだから。 「ふざけんな。先輩は売り物じゃねぇ」 冷静を装いつつも、声が震えた。 それが怒りなのか、そんなことを口にした越前への怯えなのかは分からなかった。 もしかしたら、どこかで。 乾が取られてしまうかもしれないなどという考えがあったのかもしれない。 「ふぅん」 越前はひどく楽しそうに笑う。 隠そうとしていても隠せない海堂の慌てぶりに満足したのだろう。 越前が何を目的としてそんなことを言うのか、まだ分からなかった。 その焦りで、じわりじわりと追い詰められているような感覚を覚える。 手の平が次第に汗を帯びてきている。 海堂はその不快感に僅かに手を動かした。 ――この後輩は、酷く苦手だ。 素直な言葉を心の中で吐露する。 大きな瞳で真っ直ぐに人を見る越前は。 どんな人の心でもその真っ直ぐな視線で見透かしているのではないかと。 そんな感慨すら覚える。 今は帽子に隠れてその瞳はよく見えないが。 隠れたその下で、越前の瞳は人を射抜くほど強く輝いているのだろうと思う。 どこかに、この後輩の弱みがあるかもしれないと。 海堂は不躾な視線で目の前の後輩を眺めた。 彼の、弱点。 それは――。 越前はとあるものにひどく弱い。 それは滅多に表には出てくることはなく、 青学レギュラー陣くらいにしか分からないことであるのだが、 彼には確かに、弱みがあった。 海堂はどこか勝ち誇ったかのように、僅かに口もとを緩めた。 「・・桃城なんて、つけられる値段の方がかわいそうだ」 そう、口にした。 桃城。 それは越前の唯一の弱点。 自分も乾のことを話題にされたのだからお互い様であろうと、その名前を口にした。 越前が何と返してくるだろうかと、海堂は越前の顔を見つめた。 けれども越前は顔色一つ、変えない。 「・・・・」 まるで人形にでもなったかのようなその表情に、海堂はまた少し、恐怖を覚えた。 「ねぇ、海堂先輩」 静かな声で呼びかけられて、海堂は僅かに身じろいだ。 声は、どこか楽しそうな、けれどどこか悲壮な色を有している。 何を言うのだと、海堂が越前を見つめる。 けれども、口もとに楽しげな笑みを浮かべただけで、越前は言葉を口にせず、 焦らすようにゆったりと帽子を取り、くるりと手の中で一回転させてみせた。 そうして間を取った後、越前はようやく口を開く。 「桃先輩は、俺のだから値段なんかつけてあげない。」 越前は、被っていた帽子を指先で軽く弾いて、帽子を取り、手のひらに乗せる。 露になった視線は、明らかに海堂への挑戦の色を含んでいて。 その静かに燃えんとする青い炎に、海堂は僅かにたじろいだ。 「値段なんてつけられないほど、すごいんだよ」 どこか優越を含んだような越前の声に、けれども海堂は何も言い返すことなどできなかった。 言い争いで勝てるほど、海堂は口が達者ではないのだ。 言い表せないような感情が、ただ胸の中に詰まり、けれども言い表す言葉など知らなかった。 越前の言葉に、海堂は唇を噛みながらその場を去った。 悔しさが募る。 乾よりも桃城の方がいいと、越前に惚気られたようで。 絶対に桃城よりも乾の方が上だと、海堂は今の今まで疑ったことすらなかった。 そして、これからも。 桃城が乾よりも上だと、誰が信じよう? コートの外で、金網に寄りかかりながら休憩をしている乾の姿を見つけた。 悔しくて、下を向きながら、少し早めの歩調で歩く。 「先輩!」 誰が見ているとも知らないところで、感情に任せて乾に抱きつく。 だって、誰にも渡したくなどない。 「・・アンタは誰にもやらねぇからな・・」 ぽつりと呟いた言葉に、乾が僅かに、笑った気がした。 遠く、その現場を見ていた王子は、不敵に微笑んでいたとかいないとか。 |