+光の青、空の橙+





部活が終わった帰り道、海堂はいつも通りに乾と共に家へと歩いていた。

それはもう習慣となってしまった行為で、

ハードな部活でもその量ではよしとせず

練習後も飽きることなくトレーニングを続ける海堂の練習のしすぎを止めるために、

また海堂の練習メニューが効率よく行われているかデータを取る為に、

乾はいつも海堂のそばにいてくれる。

乾の時間を割くのも心苦しいからと、自分についている必要はないと強く言ったとしても、

乾は眼鏡の奥に隠された不敵な笑みで、

『海堂のそばにいたいからだよ』と恥ずかしげもなくそう言ってのける。


けれどもいつしかそんな乾に頼ってしまっている自分がいて、

今もこうして帰り道を共にしている。


別にいつも一緒に帰るという約束をしている訳ではない。

けれど、一緒に残ってくれている先輩を置いて一人で帰ってしまうのも気がひけて、

気がついたらいつも二人が分かれる交差点まで一緒に帰るのが当たり前になっていた。


夕日に染まるアスファルトの上を二人並んで歩く。

今日の部活のことだとか、嫌いな教科の先生のことだとか、

ときには真面目に、ときには笑いながら他愛もない話をするこんな瞬間が好きだった。


まだ寒さの残る中、話す度に白い息が空気中に舞う。


以前、寒くて手をズボンのポケットの中に入れて歩いていたら、

乾に『転んだら危ないよ』と言われたことがあった。

もう小さな子供ではないのだからとは思ったのだが、

乾に言われたことが気になって次の日から手袋をすることにした。

丁度クリスマスに葉末に貰った手袋があったので、

学校にしていくには丁度いいと有り難く使わせてもらうことにしたのだ。

次の日、手袋をしている海堂を見て、微笑みながら似合っているよと言った乾が、

海堂は少し癪に障ったのだけれども。


海堂の周りにどんどん乾貞治という存在が大きくなってきている気がして、

突然に気恥ずかしくなって、海堂は、ぽすん、とマフラーに顔を埋めた。


「ねえ海堂」


顔を近づけながら耳元で囁いてくる乾に、

海堂は照れ隠しに乾の頬に触れて、その顔を遠ざけるように腕を伸ばした。


「・・何だよ」


海堂のそんな行動に何をするでもなく、乾は口元で小さく笑う。


「風が・・何だか前ほど冷たくなくなってきたね」


言われて海堂は顔をあげ、青と橙の混じった空を見つめた。

見上げる真上はまだ青い空が残っているのに、

そこから目を移すと次第に赤みが帯びた空へと変わっていく。


冬は日が落ちるのが早い。

そう思っていたのだけれど、いつしか段々と日が長くなり、

部活が終わるこの時間になってもまだ空は明るい。


青の空は次第にその色を薄めていき、

やがて白にも近くなったその色がだんだんと赤みを帯びて橙になっていく。

そうしてその後には藍色の空が続いていて、

空はどこまでも途切れないものなのだなと、そう思った。


顔を上げて見上げていると、冬の風が首筋に触れて、

海堂は思わずマフラーに顔を埋めた。

今までマフラーで隠れていた肌に風が触れて、

海堂は反射的に首をすくめてしまったけれども、

どうやら真冬の身を切るような風よりも、この風は冷たくなくなってきているようだ。

けれども。

この人に思わず反発したくなるのは何故だろうか。

素直に認めたくないという心が働いて、自分はいつも素直じゃなくなる。

そんな自分をきちんと分かっているのに、

この人の前ではどうしても素直に接することができなくなるのだ。


海堂はフイっと、乾とは逆の方向を向いて、小さく呟いた。


「・・そうっすか?」


「そうだよ」


乾ははめていた薄青の手袋をはずして、手を顔の前まで上げた。

まるで冬の風を感じるかのように風上に手をかざす。


「風も死ぬほど冷たいって訳じゃないし・・それに」


乾はその手で海堂の頬に触れる。

それもごくごく自然に。


「海堂の頬もそんなに冷たくなくなってきたしね」


「ば・・!!」


馬鹿と罵ろうとしたのだが、あまりの驚きに声も出なかった。

どうしてこの人はこういうことを恥ずかしげもなくやってのけるのだろうか。


もうかまってなどいられないと海堂はスタスタと歩調を速めて前へと進んだ。

けれども乾の方が身長が大きく、必然的に足も長いのだから

後ろから歩いてくる乾に難なく追いつかれてしまう。

それも何だか癪に障って、海堂は思わずムキになって歩みを速める。


「海堂、ごめんって」


乾には余り苦しそうな様子も見えず、

自分だけがこんなに頑張って歩いているのかと思ったら何だか馬鹿らしくなった。

海堂はペースを乱されている自分に内心で一つため息をついた。


「・・いいっすよ、別に」


歩調を元に戻して、再びゆっくりと乾の隣を歩く。

こうして自らのペースを乱されることも、そしてそれを許容してしまうのも、

結局は海堂が乾に惚れているからなのだろう。

そう思うと悔しくて、海堂も隣で大人の雰囲気を漂わせて歩くこの人を。

この人の心を酷くかき乱してやりたいと思った。

口惜しいと思う心もまだ未熟なことの表れだと分かってはいるけれども。

大人になって恋をして。

もし恋人が自分の心をかき乱したりしたら、口惜しいなどとは思わないのだろうか。

それはありえないことであるような気がする。

大人になって、黙って心を殺すような恋ならばいっそしない方がましだ。


海堂は横目でチラリと辺りを見回して、他に誰もいないことを確かめる。

そして、海堂は余り表情豊かではないのだけれども、

できる限りの悲痛な顔を作ってみせた。


「・・先輩」


どことなく嬉しそうに横を歩いていた乾の袖をそっと引き止める。


「どうした、海堂?」


急に立ち止まった海堂に、乾が心配そうに顔を覗き込んでくる。

その優しさに、もうやめてしまおうかと思ったのだが、

ここまで来て引き返せないという思いもあった。

数瞬思いをめぐらせた後、やはりこの人の心をかき乱してみたいという思いに駆られて、

海堂は重く閉ざされた唇を開いた。


「俺・・好きな人ができたんっす・・」


言葉にするのをためらったのだが、視線を落としてできる限り悲痛な声を出してそう呟く。

乾は何も言葉を返さない。


もっと驚いてくれるのかと思ったのに。

この人は海堂がこう告げても、何も思わないのだろうか。


海堂が落胆をして少しだけ視線を上げたとき、目に入った光景に愕然とした。

乾に表情がなかった。

怒るのでも、笑い飛ばすのでもない。

まるで全てが凍りついたような表情に、海堂は左胸が痛んで、

そっと服の上から心臓の辺りを押さえた。

どくり、どくりと血が流れる音が聞こえてきそうだ。

乾はいつも表情が分からないといわれる。

それはトレードマークのような顔半分を覆ってしまう黒ぶち眼鏡のせいなのだが、

それでも海堂には乾の表情など手に取るように分かった。

それこそ乾を纏う空気だとか、ふとした言葉のニュアンスだとか。

全ての情報を総合すれば簡単に分かるようなことなのだと海堂は思うのだが、

その情報を掴むだけの努力を皆が怠っている訳ではなく、

海堂が人より多く乾の情報を取り入れてるからだと気がついたのはいつのことだっただろうか。

けれども乾の表情は今、海堂には全く分からない。

一体眼鏡を外したその奥はどんな色を湛えているのだろうか。


「・・誰だ」


まるで喉の奥から搾り出すような声に、海堂はじわりと心が震えた。

次のセリフを言ったら、一体この人はどのようなリアクションをするのだろうと

海堂は微かに緊張する。


「・・乾先輩。」


唇が紡ぎなれたリズムを生み出す。

迷いも、ためらいもなく出た言葉に、

ああやっぱり自分はこの人が好きなのだなと確信する。


海堂は視線を上げて乾の顔を覗きこむ。

右手で口を押さえて、顔の半分はいつもの眼鏡で覆われてしまっているから、

あまりその表情を伺うことはできないのだけれど、

横から見えた頬が微かに赤くなっていて、海堂は嬉しさに少しだけ口元を緩めた。

乾を、乾の心を。少しでもかき乱せたのだと思うと嬉しかった。


「・・ちょっと衝撃。海堂がそんなこと言うなんて思ってなかったから」


乾がいつもの口調で話し出す。

海堂にひっかけられたのだと気がついたのだろうか。


「衝撃ってどんな・・?」


「海堂が他の奴のことを好きになったのかって焦った自分と、海堂から好きだって言われてこんなに動揺している自分に衝撃。」


未だに微かに顔を赤らめている乾に、海堂はじわりと心が満たされる。

一つ年上なだけなのに、自分よりもずっと大人に見えるあの人が、

動揺するさまを見るのもたまにはいいなと。

じわりとせりあがってくる喜びに、思わず顔が綻びそうになる。


「そうだ、・・海堂」


呼びかけられて、腕を掴まれる。

そのまま力強い腕に引っ張られて、乾にギュッと抱きしめられた。

その力は強く、体中を包まれる感覚に体中の血が沸騰してくるようにも思えた。


「好きって言ってくれるのは嬉しいけど、2度とあんなことしちゃ駄目だよ」


耳元に直接響く声に、恥ずかしくなって思わず体を引きそうになる。

けれども乾にしっかりと抱きしめられていて、動くことなどできない。


「何でですか・・?」


珍しく先輩の動揺するところが見られて、嬉しかったのに。

海堂は顔を上げて、乾の表情を覗き込んだ。


「俺の寿命が3年縮んだから」


心底疲れたような顔をして、乾がため息をつく。


「だからもうああいうのは勘弁してよ」


再び弱々しい表情をしてみせた乾に、海堂はまあしょうがないかと思う。

この人が自分を愛してくれていることは分かったのだし、

もうこれ以上乾を苛めてもしょうがない。

海堂は一つこくんと頷く。

そして、乾の腕の中の温かさをこのまま手放したくなくて、

もう少しこのままでもいいかと海堂は乾のコートに頬を寄せた。

海堂の髪に優しく触れる乾の手が心地よい。


「それも先輩のデータに入るんすか?」


「ああ、入るね。それも極秘情報だ」


乾が小さく笑うとそれが体を通して海堂の頬へ伝わってくる。

道端で、往来の真ん中で。

何をしているのだろうと思ったのだが、その温かさが離れがたかった。

そのまま離れるタイミングを失っていたのだが、

目の端に茶色のコートを着たサラリーマンの姿を認めて、

海堂は名残惜しさを振り切るために勢いよく乾から離れた。

寒そうにコートの襟を立てている、

大してこちらを気にしている風にも見えないサラリーマンが通りすぎるのを見送って、

海堂は乾と視線を合わせた。

どちらともなく笑みが零れる。


「海堂、明日部活休みなんだけど、うち来る?」


乾が海堂の手をぎゅっと握り締める。

海堂に来るかどうかの選択権をくれているはずなのに、

まるで離さないとでも言いたげに繋いでいるこの手は何だろうと思う。

けれどもだからといって、振り払うことも酷く困難で。

乾の甘い言葉が頭の中で繰り返されて、フワリと感じたこともないような熱が昇ってくる。


「愛を確かめようと思ってさ」


他の人から聞いたら歯が浮くようなセリフをこの人はさらっと言ってくる。

あまりにも自然なそれに、こっちが恥ずかしくなってしまう。

乾によって軽く握られた手を、海堂は少し躊躇いながらも、ギュッと握り返した。


「・・アンタが・・」


海堂は空を見上げた。

空は橙色に染まり、端の方から夜の闇を示す藍色が現れてくる。

道に落ちる二人の長い影を見て、海堂は微かに頬を緩めた。



「・・愛してくれるならいいっすよ・・」