じわりじわりと。

体を侵食していく痺れにも似た痛み。

こうして。

甘く、ほろ苦い、夢か現かも分からない一瞬のような夏は終わっていくのかと。

そう長く夢を見ているのも許さないのだと、告げる潮風で海堂は色とりどりに咲く星空を眺めた。



そうこれは、儚くも一瞬の。

鏡の国の出来事。





+鏡の国





肌を撫でる潮風に冷たさが混じり、この時が終わりに近づいているのだということを改めて知る。

つきつけられる現実は自分がどう望んだところで今すぐに変わるわけでもなく、

それが時間の理だとしたら尚更、空を流れる星に願いを寄せたところで何も変わらないことは

海堂自信が一番よく分かっていた。

夏の全国大会も終わり。

青春学園中等部テニス部は無事、全国制覇を遂げることができた。

喜んでいたのもつかの間、夏が終わるということは代が変わるということを意味しており。

興奮していた夏の気温にも似た熱気はなくなり、部内にはシンと。

夏の終わりを告げる蝉の声を聞くに従い、水を打ったような静けさが支配していった。

数年ぶりに全国制覇という偉業を成し遂げた三年の彼らは、

部員たちが思うほど悲壮感を漂わせているわけではなく、普段と変わらず明るく、

ただ終わりの時を静かに待っているかのように見えた。

あんなにも強く願っていた全国制覇というものが手に入ったとき、

それまでの辛さだとか苦しさが全て浄化されていくような気がしたのだけれども、

ふわりと勝利というものが手に入った瞬間に、

ああ、こんなに。

こんなにあっけないものであったのかと思ったのもまた事実。

強く焦がれるほど願いながら手に入った瞬間に今まで積み重ねてきたものが霞みのように

ぼんやりと、手の中から逃げていきそうに思えた。

もちろん自分たちは全国制覇という名前だけに満足することなどなく、

そこから繋がっていく更なる道があるということを、偉大な三年たちから学んだ。

自分たちが倒していない敵がまだたくさんいる。

自惚れるわけにはいかなく、強くなるために、

誰をも凌ぐ力を持つためにしなければならないことはたくさんある。

ただ、夏の大会の頂点を極めたという、一つの終着点を見て、一時のやすらぎの時間を得た時、

体の血全てが沸騰するかのような、膨大な熱量に突き動かされているかのような激しい思いは

息を潜めて、さざ波のような感情が胸を支配することに、ただいいようもない痛みが体を襲った。

じわりじわりと体の内側を侵食していく痺れにも似た痛み。

一つの出来事の区切りとなる場面で、必ず終わりというものが見えてくる。

永遠に続いていく出来事などない。

生まれれば必ず死にゆく。

それが自然の理であり生きるものに課された命である。

分かってはいるけれども感じざるをえないざわりざわりと揺れる感情を、

隠し切ることなどできなかった。




「海堂〜!」


呼ぶ声は菊丸のものだ。

はっと気づいた時にはもう菊丸が駆け寄ってきており、海堂は空に飛ばしていた意識を現実に戻す。

海堂たち青学レギュラーメンバーは今、近くの海岸へと遊びにきていた。

夕暮れになるのを見計らって、近所の花火問屋で大量の花火を買い込んで。

食料調達組みと花火調達組みが自転車で海岸まで乗り付けて、今に至る。

大量に買い込んだ花火は一向に減る気配はなく、けれども確実に終わりに向かっているそれに、

やはり海堂は淋しさを感じずにはいられなかった。


「どうしたの?大丈夫?」


花火もせずに砂浜に座り込んでぼんやりとした海堂が気になったのだろう。

菊丸が肩越しに海堂の顔を覗き込む。

心配そうな顔で覗き込んでくるその顔はいつもと変わらない、誰をも幸せにする笑顔なのだが、

その笑顔に何処か悲しみを感じ取ってしまうのは自分が感傷的になりすぎているせいなのだろうか。


「大丈夫っす」


短く答えて、なるべく菊丸に心配をかけないようにする。

彼はとても人の感情に敏感だ。

上手く隠し通さなければ逆に心配をかけることになる。

そう分かっていて、気負っていたからであろうか。

海堂の発した言葉に、菊丸の笑顔が僅かに曇るのが目に見えて分かった。

隠し切れない感情を、どうやら読み取られてしまったらしい。


「海堂が大丈夫って言うとき、あんま大丈夫じゃないときが多いんだよね」


などと、菊丸は手にした花火をそのままに海堂の横に腰を下ろした。

パチリパチリと、色とりどりに華やかに咲く花火はひどく綺麗に星空の下で輝く。

次第に短くなっていく花火をじっと見つめたまま、菊丸は珍しく何も言わなかった。

花火を見つめながら静かにその終わりを待っているかのように。

視線を外さない菊丸につられて、海堂もじっと菊丸の手の中の花火を見つめていた。

どこにでもありそうな持ち手の赤い花火は、軽快に色とりどりの光を出しながら、

けれども次第にその光と威力を弱めながら、目に楽しい光の演出をしてくれた。

弱くなっていく光に、菊丸が僅かに目を伏せる。

花火がやけに感傷的に海堂に訴えかけるのはこのせいだと思う。

やけに鮮やかに振舞うくせに、終わってしまえばひどくあっけなく。

残るのは短くなった持ち手部分と、真っ黒になってしまった火薬部分。

まるで。

そうまるで人の人生のようだと。

思わずにいられなくて、海堂は菊丸の持っている花火から目を逸らすことができずに

じっとそれを眺めていた。

終わってしまった花火を見つめながら、けれども菊丸がにっこりと笑いながら海堂と視線を合わせた。


「終わっちゃったね」


その言葉は花火だけのことを言っている訳ではなく、

彼ら自身のことも指していることは海堂にも容易に理解できた。

この部活を去っていく三年たちが淋しくない訳などない。

高等部に上がる時には、ずっとともに戦っていた河村が部を去ることになる。

それに。

ずっと同じ環境で戦っていけるわけでもない。

今この場所にある、青春学園中等部の場所や空気や空間は。

あと少しの時間を経たら、世界中の何処を探しても見つからないものになってしまうのだ。

それを理解していたからこそ、海堂は菊丸の言葉に何も返すことができなかった。

肯定の言葉を出してしまえば、その瞬間、この夢のような世界が終わってしまうのではないかと

そう思ったのだ。

そんな海堂に菊丸はいつもの、けれども僅かに悲しみを含んだ笑顔で海堂に笑いかけた。


「そっか・・」


菊丸の声は何処か力なく、海堂はその横顔に視線を向ける。

コート上では誰でもかなわないと思わせた強さはその横顔には見えなく、

ただ遠くで桃城や越前がやっている打ち上げ花火の光だけが菊丸の顔に映って、

海堂は直視できなくなり、砂浜へと視線を落とした。


「あのね、海堂」


菊丸が凪のような穏やかな声で海堂に話し掛ける。

けれども海堂はそのまま、顔を上げることなどできなかった。


「俺たちは確かにこの部を去っていくのが悲しくて淋しいけど、」


菊丸は一旦言葉を止めて海堂の頭をぽんと撫でた。

普段ならそんなことなど許すはずはないが、この場の中で菊丸の手を振り払うことなどできなかった。

普段、先輩に素直に甘えることなどできなかった海堂を甘やかしてくれる先輩は、

自分の愛するあの人しかいなかったけれど、他の三年も自分を放っておいたという訳ではなく、

きちんと要所要所では海堂のことを甘やかしてくれていた。

初めて許した菊丸の手は温かく、よく色々な人に伸ばされていたこの人の手は、

素直に受け止めてみればこんなにも温かかったのかと初めて知った。

青学の母は副部長だとよく言われているが、その副部長の恋人であるこの人こそが。

本当に大きな愛で部員たちを包んでくれていた母なのではなかったのかと今になって思う。


「それだけじゃないよ」


静かに、心に染み渡る声で菊丸は言う。

ともすれば波音に消えてしまいそうな声だったのだけれども、

海堂にはやけにはっきりと、その優しさが聞こえてきた。


「俺たちも、まだ先の可能性を見てみたいし、それに」


ふ、と。

海堂の横で菊丸が息を吐いて穏やかに笑う気配がした。

こうして柔らかい笑みを零すことができるのも、この人の特権なのだと思う。

この先、こうしてゆっくりと菊丸の声を聞くことなどできなくなるのだろう。

海堂が部長に就任すれば尚更、そして彼らが高等部に進学し、

学校が違ってしまえば尚更。

こうして彼らと話す機会も減ってしまうのだろう。

そう思うと菊丸が話す一つ一つの声を聞き逃してはいけないような気がして、

海堂は殊更気を張って菊丸の声を追った。


「愛する後輩たちの、俺たちがいなくなることで実現できる可能性も見てみたいかんね」


そう言った菊丸に、海堂は顔を上げて真っ直ぐに菊丸と視線を合わせた。

他でもない、自分たちの可能性が見てみたいと言った菊丸の。

笑顔の何処にも曇りはなく。

ああ、本当に。

本当に自分たちが彼らと同じく全国への道を歩くのを楽しみにしてくれているのだと。

はっきりと強い意志が感じられて、海堂は不意に俯かずにはいられなかった。

自分にはまだ、そこまでの大きな包み込むような想いはない。

後輩たちに自分たちの夢の続きを託せるような、そんな経験だってまだしていない。

一年という時間がどんなに大きな時間であるのかを思い知る。

自分が愛してきたテニスの道で、自分が愛してきた青学テニス部で育った人間たちを、

ただ、頑張れ、と。

応援してやれる強さを、一年後、海堂が彼らと同じ立場に立ったときに、何の迷いもなく、

言うことができるのだろうか。

不意に零れそうになった涙を堪えるように、海堂はただ砂浜を見続ける。

今が夜でよかったと、心底そう思う。


「俺だけじゃないよ」


そう言って幸せそうに笑っているのだろう菊丸の瞳には、

将来彼らと同じ道を、それよりも高い道を歩く海堂たちの姿が少しでも見えているのだろうか。


「他の、手塚も、不二も、大石も、乾も、タカさんも」


「みんなそう思ってる」



そう言って、菊丸は小さく笑った。

三年生が存在の偉大さを、今改めて思い知った。

どれほど自分たちが彼らに救われていたか、そして見えないところで助けられていたか。

自分の力で、自分だけの努力で全てを手に入れたと思うのならばそれは思い上がりでしかない。

助けてくれる存在がいたからこそ、彼らがいたからこそ、

自分たちはこうして勝利を手に入れることができたのだ。




――楽しかったんだ、本当に。

言葉にはできなかったけれど。

貴方たちとテニスができて、


本当に楽しかったんだ。



するとふわりと、海堂を抱き締める、よく知った腕の感覚。


「海堂を泣かせちゃ駄目だよ、菊丸」


触れる声は耳によく馴染んで、柔らかく海堂の心に舞い降りて溶けた。



「泣かせてなんかにゃいよ」



なんて言う菊丸はけれど少し申し訳なさそうで、

海堂はその優しさに抱き締めてくる乾の腕にぎゅっとしがみついた。


「・・遅いんだよ、アンタ」


腕の中、くぐもった声でそう不満を告げると、ごめん、と苦笑いを浮かべる声が聞こえた。


「菊丸が折角いい話をしてるみたいだったし。

 邪魔しちゃ悪いと思ってね。

 ごめん、海堂・・」


乾の手が優しく背を撫でる。

海岸にはもちろん、乾と菊丸だけではなく他のレギュラーメンバーもいたのだけれども、

そんなことに構っている余裕もなく、ただ乾にしがみついて、

必死に込み上げてくる感情の嵐が静まるのを待った。

幸いなことにいつもなら茶化してくる桃城の声も飛んでくることもなく、

海堂はただ静かに乾の腕の中に収まり、乾の肩に目頭を押さえつけて、

何とか、彼らの前で泣かないようにと願った。


乾が一定のリズムで優しく海堂の背を撫でる。

それが寄せては引く海のリズムのようで、

耳に聞こえるさざ波の音と、乾の手の優しさに海堂は一つ溜息を吐く。


「ねぇ、海堂」


やっと落ち着いてきたのだろう海堂を見計らったかのように、乾が海堂の好きな優しい声で囁く。



「今、言いたいことは言ってしまった方がいい。

 お前が部長になった途端、もう、辛いことも望んでいることのほとんども言えなくなってしまうから」



その声は、まるで幼子をあやすかのようでもあり、

海堂を閉じ込められた、日の差さない真っ暗な部屋から連れ出してくれるようでもあった。

部長になることで苦しむことになるのは重々承知している。

手塚から話も聞いてはいるし、部を引っ張るために弱音など吐くわけにはいかない。

どんなに辛くても、前を向いて歩いていかなくてはならないのだ。


海堂が進むべき道を知っているからこそ、この人は今自分を甘やかしてくれようとしているのだ。

もちろん、乾だけではない。

菊丸も、不二も、河村も、大石も、手塚も。

きっと何も言わないけれどこの場を許容してくれていることで充分その思いは伝わってくる。

三年の先輩たちの優しさを一身に受けているのを感じながら、

彼らのその大きさと優しさを理解するとともに、海堂は思わず言葉を紡いでいた。





「・・・淋しい。・・アンタたちと・・テニスができなくなるのは・・」





声は、ひどく掠れていて。

言葉にできたのはそこまでだった。

想いが胸にひっかかって、その苦しさに息もできなくなる。

せりあがってくる熱に涙腺が緩む。

目頭に集まってくる熱を止める術がなく、ただ必死に乾の肩にしがみつく。

乾はただ優しく海堂の背を撫でてくれていた。


そして、突然聞こえてきたのは、隣からのすすり泣く声。

ずっと側にいてくれた菊丸が。

同じく、堪えられなくて涙を流し始めた。


「・・やだなぁ。引退式まで涙は取っておかなきゃならないのに・・」


そう、涙ながらに笑いながら言った菊丸の言葉に、海堂は更に泣きたくなった。

この人たちもどれだけの想いを抱えながらここまでやってきたのだろう。

きっと、辛いことなど山ほどあったはずなのに、自分たちには欠片も見せることなく、

強い先輩を演じて。

泣きたくなるほど辛いことなどいくらでもあったに違いないのだ。


しばらくすると、菊丸ではないもう一つすすり泣く声が聞こえてきた。

自分も、側にいる菊丸も泣いてしまっていたから、もう誰の声なのかはわからなかったが、

後から聞いたら、不二も、河村も泣いていたのだと、

乾がやはり少しだけ淋しそうな笑顔を浮かべながら教えてくれた。


「・・海堂」


未だ泣き続ける海堂の耳元に、乾の優しい声が響く。


「お前はこれから、すごく険しい道を歩いていくんだと思う。

 でもお前でなくては駄目で、他の誰でもない、お前自身が歩いていかなくちゃいけない道なんだ。

 辛いときも必ずある。けれど――」



乾の腕が、まるで壊れんばかりに海堂を抱き締める。

その強さと熱さに、眩暈がした。





「お前は一人じゃないから」





そう告げた乾に、海堂はただ静かに頷いた。

自分は一人じゃない。

それは沢山の優しさをくれた彼らを思い返せば分かることだ。

これから歩く自分の道は本当に辛いものだと思う。

けれど前を見れば更に険しい道を弱さなど見せず、平気な顔であるく先輩たちがいるから。





――もう、きっと。

こんな風に泣かなくても、自分は頑張っていける。























穏やかな波の音を聞きながら、乾の腕の中で、

海堂はただ静かに涙を零した。


そうこれは、儚くも一瞬の。

鏡の国の出来事。



青春の、思い出。