貴方のぬくもりは何よりも温かいのです。 +風邪+ 北風は刺すように冷たく。 海堂は肌を駆け上がる寒気に、巻いていたマフラーに思わず顔を埋めた。 強く顔を押し付けて、できるだけ多く熱を得ようとする。 しかし、海堂と同じく北風に晒されていたマフラーには期待したほどの熱もなく。 ただ自分を切り刻むような冷たい風から自らを守るかのように、首を竦めた。 この気持ち悪い感触にはいつまでたっても慣れることなどできない。 海堂は元々健康優良児で、風邪をひいた覚えなど小さい頃から数えるほどしかなかった。 しかも風邪をひいてもその次の日はけろりと治ってしまうことも多く、 それほど風邪で苦しんだという覚えがなかった。 しかし、ふとした気の緩みからか、海堂は珍しく風邪を患ってしまった。 気がついたのは今日の朝。 どうしてか分からない吐き気と食欲のなさに、 いつもの半分の量しか食事を摂ることができなかった。 その時におかしいと思っていればここまでひどくならなかったのかもしれない。 しかし、食べないと一日もたないからと無理矢理食事を済まし、だるい体を引きずり、 朝練をこなすために学校へと向かったのだ。 朝の練習が終わり、授業が始まると体は更に変調を訴えてきた。 暖房がきいているはずの教室がやけに寒く感じ、頭も痛い。 時間が経つにつれそれはどんどんと悪化の一歩を辿り、 何とか最後の授業までは受けたもののあまりの体調の悪さに 大石副部長に部活の欠席を伝えた。 大石は酷く体調の悪そうな海堂を見て、心配そうに労わりの言葉をかけてくれた。 帰って早く治しなさいと、優しい声音でそう言ってくれた大石に、 海堂は小さく感謝の言葉を述べた。 そして、忙しい副部長にこれ以上心配をかけてはならないと、海堂はすぐその場を離れた。 しかし。 こういうとき、自分の自己管理の至らなさが恥ずかしく思える。 先輩たちは滅多に体調不良などを訴えることなどないのに。 怪我はたまにあるにしろ、彼らが病気で休んだなどという話は聞いたことがない。 それに比べて、今の自分の姿は何なのであろう。 体調管理もしっかりできないのでは、青学レギュラーなど務まらない。 それが今の自分と彼らの実力の違いなのだろうか。 部活にも出られない。自主練習もできない。 どんどん、彼らとの差が開いていってしまうような気さえして、口惜しい。 海堂は、こんな時に病気にかかった自分を酷く恨んだ。 家に帰ると更に病状は悪化し、これ以上我慢していてもどうにもならないと、 心配してくれていた母に連れられてそのまま病院へと向かった。 半ば腕を抱えられる状態で近所の病院へと連れられる。 不甲斐ない自分の姿が無性に恥ずかしかったが、それを表に出す気力さえなかった。 会社帰りの人や、学校帰りの子供たちで病院は混んでいた。 結構な長い時間、待合室で待たされ、やっとのことで診察室へと入る。 初老の医者が海堂の診察をし、初期の風邪だと言い渡され、注射を打たれる。 痛みなど大したこともなかったが、腕の中に異物が入り込んでくるビジュアルが何とも嫌で。 顔を背けていたら、初老の医者に穏やかな笑顔で笑われた。 診察が終わり、一人家路へとつく。 母親は処方箋を持ち、薬屋へと向かった。 そこもまた、混んでいるから先に帰りなさいと母に言われ、 日のすっかり落ちてしまった夜道を海堂は一人で帰ることになった。 僅かに霞む目で、人通りの少ない路地を見る。 家には、この一本道をずっとまっすぐ歩いていけば、すぐにたどり着く。 走ることに慣れた海堂にとって、近所の病院から自宅までの距離など 大したこともないものだった。 そう、いつもならば。 元気な体で、走り回れることができるときには、 これくらいの距離を走ることは軽い準備運動にもならないものだった。 しかし、今日はこの道がまるで、永遠の迷路へと続く果てしない道であるかのように感じた。 等間隔に置かれた街灯の照らす道をどこかおぼつかない足取りで歩く。 歩いても歩いても、家までの道のりは全く縮まらないような気さえする。 熱のある体や、体を這いずり回る気持ち悪い寒気。 そんなものが海堂をひどく不安にさせる。 普段であればちゃんと歩けるはずの体は、 心に突然住み着いた弱い心によって、動くこともままならなくなっている。 もしこのままここで倒れてしまったら。 健康優良児の自分が簡単に意識を手放すことができないことなど ちゃんと分かっているはずであるのに、 熱がある、と思っているせいかどうしても思考が暗い方向へと向かってしまう。 人間、体が弱くなり、頼るべきものが何もなくなったとき、 誰しもこんな考えに陥るのだろうかと、海堂は思う。 誰にも頼ることのできない絶望感だとか、 まるで地面についていないのではないかという足取りに、すべてのことが億劫な気分になる。 このまま座り込んでしまえば楽だろうか。 壁に寄りかかってしまおうか。 弱くなった心の部分からそんな指令が頭の中にどんどんと流れ込んでくる。 けれどもそれでは何の解決にならないからと、必死でだるい体を前へ前へと動かしていく。 何か、縋るものがあればもう少し気分は明るくなるのだろう。 けれども、何も頼るものがない上に、まだ家までの距離はある。 そういうことがひどく海堂を不安にさせる。 座り込んでしまおうか。 一歩一歩歩くごとにその思いは強くなる。 頭では前へ進むべきだということが分かっているのに、 やけに不安定な地面と、微かにぼやける視界が、海堂の体の機能を次第に停止させていく。 もう、駄目かもしれない。 そう海堂が思ったとき、不意に前から走ってくる人物に気がついた。 既によく頭も回ってなどいない状況で、その姿を認めることができたのは、 それがやけに見慣れた姿であったからだ。 よく見知った、長身の、彼の姿。 「・・海堂?」 乾がこちらに気がついたようで、そのまま海堂に駆け寄ってくる。 「・・っす」 聞こえるか聞こえないかの程度で返事をする。 乾はジャージ姿で、どうやら部活の後にこの辺りをランニングしていたようだ。 目の前の彼は僅かに息を乱している。 それとは対照的に、自分は体を壊し、日課の自主トレもできないでいる。 そんな自分に、じわりと焦燥感が募る。 「海堂、お前今日風邪で部活休んだんだよな」 乾は心配げに海堂に声をかける。 「・・っす」 海堂は体調を崩している自分を恥じて、僅かに下を向きながら答える。 「それで、・・病院に行ってきたのか?」 乾が海堂の格好を見て、そう尋ねる。 今、海堂は耐えられない寒けに相当の厚着をしている。 コートの下の、制服ではない服装を見て、乾はそう判断したのだろう。 「・・っす」 乾の手が海堂へと伸びてくる。 着すぎでもこもこしてしまっているコートの上から、乾は支えるように海堂の二の腕を掴んだ。 乾に支えられている、ということを実感して、海堂は気づかれないように軽く息を吐いた。 正直、立っているということが酷く辛い。 けれども、自分の弱いところなど乾に見せたくもなかった。 必死で、どこも体調が悪くないような顔を作って、 そしてちゃんと自分の足で立てるように両足に力を入れた。 しかしそれとは反対に、 優しいこの人に頼ってしまいたいという気持ちが心を占めていることもまた事実で。 重い体を引きずりながら、 誰にも頼ることができない絶望感に押しつぶされそうになっている時、 必然であるかのように現れた彼に。 馬鹿みたいに泣きそうになった。 だから、どうしてもその腕を払いのけることなどできない。 海堂は掴まれている反対の腕で、乾のジャージの裾を軽く握りしめる。 そうして、すぐにその手を離した。 名残惜しげに、けれども甘い感情を振り切るように、手を離した。 自分のことには構わず、このまま何もなかったかのように、乾にトレーニングを続けてほしかった。 こんなにも辛い体で。 自分がどうしてこんなに強がった様子を見せようとしているのか。 聡い乾なら、気づいてくれるだろう。 弱い姿は見せたくない。 彼と、自分の間にある、深い差を感じてしまうから。 だから絶対に、弱い姿など見せたくはない。 海堂は、黙って地面を見つめる。 それとともに訪れる沈黙。 いつもなら。 海堂が黙っていても、乾の方から優しい言葉をかけてくれるので、 沈黙など気にしたことはなかった。 けれども、いつもとは違う乾の様子を不思議に思い、海堂は軽く視線をあげる。 乾は真摯な眼差しを変えぬまま、ずっと海堂を見ていた。 何も変わらない、いつもの乾であることにどこか安心をした。 「家の人は?」 この人の声音は穏やかで、いつも耳の奥に優しく響く。 乾の手が労わるかのように海堂の髪を梳いた。 その感触が酷く心地よくて、海堂は僅かに瞼を閉じる。 「・・母に着いてきてもらったんすけど、何だか処方箋を持って薬屋に行くって・・。 先に帰ってろって言われたんで、帰ってきました・・」 耳に残る乾の声に浸りながら、海堂は返事をした。 弱っているところに、あの優しい声は辛い。 思わず縋って、泣きたいくらいに甘えたくなってしまうから。 泣きそうになっていた顔に、海堂は何とかしていつもの憮然とした表情を貼り付ける。 心配をかけたくはない。 迷惑をかけたくはないのだ。 自分のためであればいくらでも時間を割いてくれてしまう乾に、 これ以上自分のために時間を割いてほしくはなかった。 「大丈夫っす・・。一人で帰れるから・・」 本当は今すぐこの腕に縋ってしまいたい。 僅かに震える足。 立っているのもやっとな状況で現れた乾の姿に、本当は泣きそうなほど嬉しかった。 けれどもロードワーク中の乾に迷惑をかけてはいけないから。 今にも座り込んでしまいそうな意識の中、 立っていられるのは、彼への小さな見栄があるからだ。 「・・・」 海堂の言葉に、乾は何も返さない。 それを不審に思って顔をあげると、どこか考え込むような乾の顔があった。 「・・?」 海堂が更に見上げていると、ふと乾と視線が合う。 それが合図だった。 突然、重力に逆らうかのような浮遊感。 「・・え・・っ!?」 海堂は乾の腕に腰をつかまれ、そのまま持ち上げられて肩に担がれてしまった。 地面が逆さまに見える。 「・・ちょ、何するんだ・・アンタ?」 慌てて抵抗を試みようとするが、力の入らない体で抵抗しようとしても乾にかなうはずなどなく、 また抵抗する力も続かなかった。 「暴れると、落ちるカラ」 よいしょ、と運びやすいように体をずらされる。 「!やめろよ・・!!」 「問答無用。」 「恥ずかしいだろ!!」 「大丈夫。誰も見てないから」 「そういう問題じゃねぇよ!!」 「じゃあどういう問題?運び方かな。それでも俺は考慮したつもりなんだけどね。 それともお姫様抱っこで運ばれる方がよかった?」 「・・・・」 どうやら選択権はないらしく、海堂は乾の肩に乗せられたまま、運ばれていく。 道には人影がなく、この姿が見られないだけましだと言えようか。 迷惑など、かけたくなかったのに。 他でもない、この人に。 頼ってしまいそうになる心を必死で抑えて、大丈夫だという顔をして。 立っているだけで精一杯の体で、懸命に普段を装った。 何もかも、乾のため。 乾を思ってのことだったのに。 「・・アンタまだロードワークの途中・・」 僅かに声が震える。 突き放すには勇気が要る。 その手を望んでしまっているから、拒むことは酷く辛い。 けれども、欲しがってしまうことは我侭だと分かっている。 だからこそこの人の時間を縛ってしまうことが許せなかった。 「・・俺なんか・・かまってんじゃねぇ・・」 無理矢理搾り出すような声に、海堂は僅かに眉を寄せる。 どうしてこう、自分は上手く取り繕うことができないのだろうか。 「海堂が心配で、走ってなんていられないよ」 乾の言葉に、海堂はピクリと体を震わせる。 「俺が海堂のことを心配しながら上の空で走ってて、ドブに落っこちたりしたらどうするの? そっちのが危ないだろう」 乾が、ひどく明るい声でそう告げる。 この人は、自分が気にするかもしれないことを事前に見越して、 きっと海堂に気を使わせないようにこういうことを言っているに違いなかった。 「・・バーカ。」 海堂はぎゅっと、乾の服を掴む。 するとぽんぽんと優しく背中を撫でられた。 まるで小さな子供をあやすかのように。 「大丈夫だよ」 その言葉に、不意に泣きそうになる。 寂しかった。 不安だった。 誰かに側にいてほしかった。 言葉にしなくても、彼はそれをちゃんと分かってくれていて。 『大丈夫』って 言葉ひとつ。 これだけで自分を安心させてくれる人を、他には知らない。 家の前まで運んでもらって、そこで降ろしてもらった。 すとん、と足が地面につく。 けれども乾の腕はまだ腰に回ったままで。 さっきのような、何もかも投げ出してしまいたくなるような絶望感が襲ってくることはなかった。 「・・すんません・・。重かったっすよね」 「そんなことないよ。海堂軽いから」 乾が口の端に笑みを浮かべ、悪戯のように乾の手のひらが海堂の腰を撫でる。 突然の感触に海堂は驚いて乾を見上げる。 すると乾は堪えきれないという風に口に手をあてて笑っていて、 海堂は少し頬を膨らませて、乾の腹を軽く拳で殴った。 痛そうな顔をしながらも、乾は笑っていて。 その余裕さに、海堂はまた少しだけ目をつり上げた。 「ちゃんと寝て、風邪治すんだよ」 大きな手が海堂の頭を撫でる。 そこから乾の暖かさが流れ込んでくるような気がして、海堂は僅かに瞼を閉じる。 「・・っす」 乾の笑う、微かな音が聞こえて、海堂は顔を上げる。 「じゃあ」 僅かに手を上げて、乾は海堂の家の前から、来た道へと走って戻っていく。 その背中が見えなくなるまでそこにいて、海堂は乾に触れられた頭にそっと手を伸ばす。 「・・ちゃんと、明日までに治すから・・」 乾に告げられなかった素直な言葉を、風に乗せる。 伝えられなかった言葉を、風が伝えてくれればいいと思いながら。 明日までに、ちゃんと治して。 そうして、貴方に。 『ありがとう』って言うんだ。 絶対に。 |