遠く遠く、線路の向こうに。

自分の思い描いた世界があるのだと。

疑うこともせず、いつも思っていた。





+真昼の月+





高い陸橋を渡って学校へと向かう。

それは海堂にとっては慣れてしまった習慣で。

朝のラッシュ時には踏切が長い時間開かないということも珍しくはないので、

海堂はいつもこの陸橋を渡ることにしていた。

人間によって作られた水色で塗られた陸橋の階段を、走るように駆け上がっていく。

しかし、途中で階段を降りてこようとする老人の姿を目に止めて、

海堂はそのスピードを緩めた。

階段を登りきり、陸橋の真ん中ほどまで歩いていく。

そして、陸橋から身を乗り出すようにして、下を見つめる。

そこは、何本も並んだ線路の丁度真ん中であって、

前と後ろにすっと長く伸びた線路が見える。

そこから視線を動かしていき、線路の先を見つめていく。

すると、そこだけまるで地球の裏側にまで続く道ができたかのように、

前を塞ぐものは何もない、ただ一つの世界が生まれる。

どこまでも続いていく茶色の道と、それに平行して繋がる夏の青い空。

この陸橋に塗られた青とは比べ物にならないくらい澄んだ青をしたそれは、

まるでその空の下へ人を誘っているかのように思えた。

人間の視力では捉えることが難しい、遠くの空の下には一体何があるのだろうか。

見えないからこそ、想像力が駆り立てられる。

都会という場所に住んでいる以上、

見ることができない線路の先に、何か変わったものがあるわけではなく。

確かにそこにはここと変わらない、同じような町並みが続いているのだろうと思う。

しかし、真っ直ぐに伸びた線路と、遠くの広がる空の下には、

何故だかこことは違う何かがあるような気がしてならない。

遠くから踏切の甲高い音が聞こえる。

そろそろ電車が通るのだと思い、

海堂は止まっていた足を速め、学校への道を歩いていった。



今は夏休みの真っ最中で、部活もない今日に学校へ行く必要などないのだが、

夏休みの課題で出たレポートの資料を集めるために、海堂は学校へと向かった。

ほとんどの友人は地元の図書館へと行くようであったが、

みんなが同じような資料を借りるのであれば、その資料の数は少ないだろうと

海堂は敢えて学校の図書館へと足を運んだ。

校門を抜けて学校内へと入る。

いつもなら照りつける太陽の下、

活気づいて練習している部員たちでたくさんのテニスコートが、今日は閑散としていた。

練習がないから当たり前なのだが、いつもと違う表情を見せるそれに

海堂は一抹の寂しさを感じる。

しんと静まり返った玄関は日が射さないためか、外より幾分涼しかった。

靴がコンクリートに触れる、無機質な音が辺りに響き渡る。

今日はテニス部以外にもほとんどの部活が休みであるらしく、

学校の中も普段と違ってがらんとしていた。

遠くの方から、靴が体育館の床に擦れる特殊な音が聞こえて、

バスケ部辺りが練習をしているのだろうかとふと予想をしてみる。

学校というものは時が違うだけでこんなにも表情を変えてしまうのかと、

海堂は何か新しいものを見つけた気分になった。


廊下を歩いて図書室へと向かう。

歩いている途中に誰にも会うことがなかったので、

もしかしたら誰もいないのではという不安に駆られたが、

図書室のドアを開けるとそこには、いかにも真面目そうな顔をした生徒が数人いた。

そのことに海堂はほっと胸を撫で下ろしつつも、

場違いなところに来てしまったのではないかという不安も抱いた。


ドアを開けた途端に肌に触れた冷たい空気に、ほっと息をつく。

いくら自然の風を好む海堂でも、この夏の暑さの中にいつまでも耐えていられる訳ではない。

少しすればこの涼しさも鬱陶しいものでしかなくなってしまうのだろうが、

夏の炎天下の中を歩いてきた海堂にとって、今はこれくらいの涼しさが心地よかった。


ニ、三歩あるいたところで海堂は辺りを見回す。

この物好きそうな生徒たちの中にあの人がいるのではないかと、ふと思ったからだ。

今日は部活が休みなのだし、別に乾がここにいたとしても不思議はない。

けれど会えたら会えたでそれはすごい確率なのではないか。

海堂はきょろきょろと首を巡らせて部屋を見回す。

けれども、求める姿はなかった。

いるはずないか、と乾の姿を探してしまった自分の思考を少しだけ恥じて、

海堂は目的の場所へと向かった。

日本史と書かれたコーナーには所狭しと本が並んでいる。

夏休みの宿題として課されたのは歴史上の人物についてのレポートで、

そのために幾らかの資料が必要だった。

とりあえず目についた本を取ってみる。

海堂は余り本を読むという習慣がないため、

なるべく読みやすく、よくまとまっている本を見つけようと思っていた。

そうしていい資料を見つけ、早く課題を終わらせてしまえば

部活にも支障がでないだろうと目論んでのことだ。


海堂は様々な本を手に取っては棚に戻すという行動を続けた。

その時。

後ろに誰かの気配がしたと感じた瞬間、ぎゅっと思いっきり誰かに抱きしめられた。

余りにも驚いて声を上げそうになったが、

伸びてきた手に口を押さえられて何とかその事態はさけられた。


「海堂、図書室では大きな声は駄目だよ」


後ろから抱きしめられながら囁かれた声で、その人物を確認する。

彼に驚かされることなどいつものことなのだが、

海堂はいつもため息をつけずにはいられない。

押さえられた手を外すように乾の手をポンポンと叩くと、ゆっくりと手が離れていく。

後ろを向いて乾を見ると眼鏡の奥の瞳が笑っていて、思わず睨み上げた。


「アンタが声上げさせるようなことするからいけないんっすよ」


全く。子供じゃないのだからこんなことをするなと言いたい。

海堂の言葉が気に入ったのか、乾は口の端を少し上げて笑った。


「もっと声を上げさせるようなことしてあげようか?」


言うが早いか、動くが早いか。

気がつくと乾の顔が耳元にあって、海堂はペロリと耳朶を舐められた。


「・・・っ・・」


思わず上げそうになった声を必死に抑えて、離れていった乾を再び睨みつけた。


「アンタここをどこだと思ってるんだよ!」


あまり大きな声にならないように気をつけながら乾にそう告げる。


「大丈夫。誰にも見られてないから。それにほとんど人もいないし」


乾の言葉に海堂は、思わず左右を確認する。

確かにどの生徒もこちらなど、気にしていないようだった。

海堂が乾を見上げると、乾はクスリと笑う。

きっと赤くなっているだろう頬に悔しさが募る。

うまくかわされているような気がしたが、宥めるように頭を撫でられて、

何故だか許してしまう自分がいた。


「子供扱いしないでくださいよ」


頭を撫でる乾の手を振り払ってしまうのはいつもの癖で、別に心底嫌な訳ではなかった。

甘えてしまうのは自分の性格が許さなくて、いつもその腕を振り払ってしまうだけなのだ。

けれども乾の手に触れられて、そのまま抱きしめてほしいと思うことがある。

もちろん、抱きしめてほしいなどとは海堂の方から言えるはずもなく、

いつもそのままになってしまうのだが。

けれど、何故だか乾はそんな海堂を察して、優しく抱きしめてくれる。

そんなときは悪態をつきながらも、その腕の中に大人しく収まっている自分がいるのだ。


海堂はちらりと乾を見上げる。

肌に触れる人工的な風の中。この場所で今すぐ乾に抱きしめてほしいと思った。

腕の内側にさらりと触れる冷たい空気に、

まるで心の中がからっぽであるかのような寂しさを覚える。

きゅっと、海堂は手のひらを握って、その衝動に耐える。


「先輩は何でここにいるんすか?」


当然の質問をしてみる。

もちろん部活は休みなので、乾がここにいたとしても何の問題もないが、

自分が来たときに丁度そこにいる乾に、何か運命的なものを感じてしまう。


「手塚と待ち合わせ。俺たちも課題を早めにやろうかという話になってね」


ああ、と海堂は納得する。

自分も早めに宿題を終わらせてしまった方がいいと思ってここにやってきたのだから、

海堂よりもっと計画性のある乾たちもそうしようと思っていないはずがないのだ。


「そうですか・・」


海堂がそう返事をすると、乾はじっと海堂が本を探していた本棚をじっと見つめた。


「日本史のレポート?」


そう問われて、何で知っているのだろうかと聞き返そうかと思ったが、

そういえばこの人も一年前に同じことをしたのだと言葉を止めた。


「そうっす・・」


「テーマは何にするの?」


問われて、明確な答えがあった訳じゃないことに気づく。


「別に・・これがやりたいとかいうのがある訳じゃないっす・・。

ただ戦国時代辺りがいいかなとは思ってたんすけど」


そう海堂が告げると、乾は一つ頷いたあと本棚に向かい、

素早い手つきで何冊かの本を取り出した。


「この本はよくまとまってていいと思うよ。

織田信長とか明智光秀とか、人間同士の関りもよく書かれてるしね」


もしよければ読んでみるといい、という乾の言葉に頷いてみせて、

差し出された何冊かの本を受け取った。

折角乾が薦めてくれた本を断る理由はないし、

乾が薦めてくれるのだから間違いはないだろう。

乾の厚意を有り難く思いながら、海堂はぺこりと頭を下げた。


「有り難うございます・・」


「どういたしまして」


乾は素直に返事をした海堂の頭を、再び優しく撫でた。


「・・っ!」


思わず振り払ってしまうのだが、そんな海堂を気にもしていないかのように

乾の腕はするっと海堂の腕をうまくよけて元の位置に戻っていった。

触れられた位置からじわり、と熱が広がっていく。

中途半端に触れられるくらいならば、

いっそのこと海堂が抵抗できないくらいに抱きしめてくれればいいのに。

そう思ってしまう自分はもう、この人だけに心を占められてしまっているのだろうか。

腕の中にある日本史の本を見て、海堂は少しだけ持つ手に力を込めた。


「・・何でそんなに本に詳しいんですか?」


海堂の言葉に乾はああ、と言って海堂が持っていた一冊の本を取り上げる。


「これ。見てごらん」


そう言って乾が示したのは本の一番後ろの部分、借りるために名前を書くところだった。

海堂がそこを見ると、去年の日付のところに『乾貞治』という文字が見えた。


「去年、俺もレポートのためにこの本を読んだんだ。

これだけじゃなくて色んな本を読んだけどね。

その中でもこれはいい本だったから読んでみる価値はあると思うよ」


海堂は去年の日付の所に書かれたその文字をどこか不思議な気持ちで見つめた。

ここに自分の知らない『乾貞治』がいる。

今よりも少しだけ幼く思えるその文字は、確かに自分の知らない彼を表していた。

海堂はそのことに少しだけ頬を緩める。

自分の知らない乾貞治がここにいて。

この本を読むことで彼に少しでも近づけるのだ。

彼の過去の、自分が知らない時間をほんの少しだけれども埋めることができる。

それがひどく嬉しかった。

かすれかけた鉛筆の文字が年を感じさせる。

そしてその下に、自分の名前が書かれていくのだ。

そうやって時間というものは永遠に続いていくのだろうと感じる。

来年あたりは自分の名前の下に、

まだ名も知らない後輩の名前が書き連ねられることだろう。


「海堂、これ見て」


乾の名前が書いてあるところの少し下を指差される。

海堂がそこへ目を向けると、急いで書いたということがはっきりと読み取れる字があった。


『菊丸英二』


「去年、大変だったんだよ。

夏休みの最終日になって菊丸がレポート終わってないって俺のとこに来たんだ。

でも俺一人じゃどうにもならないから助けを呼ぼうと思ったら、

菊丸は『大石には言うな』って煩いし、手塚は呼んでも絶対来ないし、

結局不二を呼んでうちで3人でレポート書いたのさ」


乾は菊丸の文字を見てふっと頬を緩める。

大変だったと言いつつも笑顔を見せるのだから、

乾にとってその思い出は決して辛いものではなかったのだろう。

そうでなくては海堂に微笑みながら話したりなどしない。

そんな乾の姿に、ズキンと海堂の左胸が疼く。

自分が決して知ることができない、乾貞治の姿。


「結局俺と不二のいいとこ取りのレポートだったから、成績はよかったんじゃないかな?」


知らないのは当たり前。

自分はその当時、乾のことを知りもしなかったのだから。

けれども酷く理不尽さを感じるのはどうしてだろう。


「・・イヤダ。」


思わず口から出ていた言葉に海堂自身、目を瞠って驚いた。

両手で言葉を紡いだ口を押さえ、下を向く。

体の中から顔に血が上ってきて、頭の中がぐるぐると思考が回らなくなる。

聞こえるか聞こえないほどの呟きだったはずなのだが、

乾が言葉を途切れさせたのだから、乾にもしっかり聞かれていたのだろう。

不思議そうな顔をして、乾が海堂の顔を覗き込む。


「何が嫌なんだい?」


乾に顔を上げるよう促されて、海堂はそっと顔を上げる。

頬に触れる乾の手を意識してしまい、更に熱が上がるのが分かる。

優しく促すような視線に、海堂は目を逸らした。

子供じみた感情を、乾は笑うだろうか。


「アンタの・・俺が知らない過去を知るのは嬉しいけど・・。

他の人といるアンタの話を聞くのは嫌だ・・」


自分が知らない乾の過去は知りたいと思う。

けれども、自分がいなかった過去での話をそんなに楽しそうに話さないでほしい。

傍に居られなかった過去を酷く悔やんでしまうから。

どうしてその隣にいることができなかったのだろうかと。

どうして同じ年に生まれることができなかったのだろうかと。

酷く口惜しく思ってしまうから。

何も答えない乾に不安を感じて、海堂は視線を上げる。

すると突然、海堂は本棚に寄りかかるように乾に体を動かされた。

背に感じた木の感触とともに、降ってくるあたたかな感触。

抱きしめてほしくてじわじわと疼いていた腕の中が満たされる。

めいっぱい抱きしめられて、心まで包みこまれるような感覚になる。


「これから、ずっと一緒にいよう。

海堂がこれからずっと俺の傍にいれば、思い出なんてたくさん作れるんだからさ」


耳元で響いた乾の声に、じわりと熱が上がってくる。






線路の向こうに何があるのかと、ずっと知りたかった。

けれどもそれは遠くて、いつまでも知りえないものだと思っていた。

一つ年上の彼らは線路の向こうの風景のように遠くて。

手を伸ばしても届くものではないと。

けれども。






海堂は傍にある熱を確かめるために乾に手を回し、自ら抱きついた。

いつまでも手に入らないと思っていたものは、今は自分の傍にある。




海堂の視界に、図書室の小さな窓が映る。

カーテンの僅かに開いたそこから、さっき陸橋の上で見た空と同じ青空が広がっている。

乾に抱きしめられて、キスをされて。


浮かされるような熱の中、窓の向こうにどこまでも続く空に浮かぶ、白い月が見えた。