+無呼吸+ 息もできない。 そう思ったのは久しぶりで。 夏の暑さとの相乗効果で、その気持ちは時が経つにつれどんどん大きくなっていく。 ここにいることがこんなにも居心地が悪いと感じたのは初めてだった。 そんな夏の日の午後。 容赦ない太陽の日差しが海堂を照らし、 突き抜ける青い空の下でただひたすらに球を追い、ラケットを振る。 高い気温の上に暑い日ざしを受けて地面からこれでもかというほど立ち上ってくる熱気に、 海堂は気圧されそうになる。 日の光が照りつける地面は、ついさっきに水をまいたばかりであるにも関らず、 すでに乾きはじめていた。 乾が部活を遅刻するのだと聞いたのはついさっきのこと。 わざわざ不二にそう伝えられ、『寂しい?』と尋ねられたけれども、大した答えは返さなかった。 部活にはほとんど遅刻したり休んだりすることのない乾が この場にいないということはとても珍しいことだった。 いつも傍にいるものとばかり思っているから、視線がついついあの長身の姿を探してしまう。 いつもなら、他の部員よりも飛びぬけて背の高い彼を見つけるのはたやすいことなのだけれども、 今日はいくら探しても彼の姿はなかった。 練習中はなるべく乾のことを気にしないように努めた。 意識をしてしまえば、青く広がった虚空を見上げ子供が大切な玩具に縋るかのように、 その姿を探してしまうに違いないから。 ラケットを、ボールを見つめて、周りに意識を取られないように必死に練習をこなす。 こんなに練習に神経を使ったのは久し振りかもしれない。 ふと、今日はラケットの振り具合が悪いと思った。 いつもなら海堂がそう思う前に乾がどこからかやってきては指導をしてくれるのだが。 その彼の姿が今はなく、何もすることができない自分に苛々だけが募っていく。 悪循環。 そんな言葉が頭の中に浮かんだ。 あの人がいなくて、いつもと違う環境に慣れなくて。 無意識のうちに彼を探そうとして目が動いている。 それでも見つけることができなくて、更に感情がひどく醜く動く。 何もかも、あの人がいないからいけないんだ。 そう、結論づけて。 海堂はラケットを振り、ボールを追いかけることだけに集中することにした。 遠くから手塚の大きな声が聞こえた。 「10分休憩!」 その号令に他の部員たちはその場にへたり込んだり、水道へ顔を洗いに行ったりとしていたが、 海堂はどうしてもその場にいることができず、 校庭の奥にある、テニスコートからは遠い水飲み場へと足を向けた。 別に、居場所がないから悲しいという訳ではない。 テニスが好きで、練習さえできればいいと思っていて、だからこそ他の人間との接触をできるだけ避けた。 それは自分が選んだ道であったし、強くなるために望んだことであった。 少なくともそれが正しいことなのだと、以前の海堂は認識していた。 けれども。 こうして今自分は乾という存在がいなくなっただけでこんなにも練習に影響を及ぼしている。 居るべき場所にいないということがこんなにも自分を脆くさせるものだとは思わなかった。 乾を自分から心の中に引き入れた覚えはない。 他人の優しさを、自ら心の中に入れてしまえばそれは甘えでしかなくなる。 甘えという言葉の中に含まれた堕落を海堂が許すはずもなかった。 けれども乾はこうして自然と、海堂本人でさえ気がつかぬ間に心の内へ入り込んでいた。 夏の太陽が地面を照りつける。 じわじわと降り注ぐそれは、まるで大地に生きる全てのものを焦がしているように思えた。 今の自分はまるで水の中から出た魚のようだと思った。 呼吸もできず、誰も知らない水槽の中で必死にいないはずの乾の姿を探す。 探しても探しても、望む姿はなく。 見なければいけない足元があるはずなのに、硝子一枚隔てた向こうにある世界を眺めているようだった。 少し離れた水飲み場に着くと、そこにはやはり誰もいなく、誰もいないということがかえって海堂を安心させた。 人を見ると自然とあの人がいないということを思い知らされるから。 夏の日の下で乾ききっている水道に手をかけ、蛇口を思いっきりひねる。 勢いよく飛び出してきた水はぬるく、手を出してその温度を確認するとぬるま湯のようだった。 そう、いつもは。 部活の中にいるときも、まるで 柔らかいぬるま湯に浸かっているようだった。 再び水に触れてその温度を確かめる。 さっきよりは幾分冷たくなっただろうか。 そのまま海堂は勢いよく流れる水の中に顔を浸した。 頭に流れ落ちる水が、顔を、頬を濡らしていく。 海堂はその中で瞳を閉じ、息を止めてみる。 目を閉じている分、耳の奥で鳴る自分の鼓動がひどくよく聞こえて、生きていることを実感する。 こうしてこのまま息を止めて。 部活中の自分のように、呼吸が出来なくなるように。 けれども部活中よりも今の方がずっとましだと思う。 あの人がいないだとか、近くにいないだとか、声が聞こえないだとか、優しく触れてくれる手がないだとか。 何も考えずに済むから。 息ができないで苦しいのならば、いっそ本当に息が詰まってくれた方がよかった。 しばらくそうしていると、後ろの方から声がかかった。 「・・海堂?」 心配そうな声に海堂は内心でしまったなと思う。 一番心配をかけてはいけない人に見られてしまった。 こういう姿を彼は特に気にかけるであろうに。 海堂は急いで水道の蛇口の下から顔を上げ、水を止めた。 「・・すんません」 滴る水滴を邪魔に思いながらも、持ってきたタオルで顔を拭う。 開けてきた視界で後ろを振り返ると、やはりそこには青学の良心、大石副部長が立っていた。 「いや、別に構わないんだよ。ただあんまり長いこと水の中に頭を浸しているっているのはどうかなと思ってね」 にこやかに笑うその奥には、やはりどこか心配そうな色を湛えている。 隠し事のできない人だなと、海堂は思う。 海堂が長いこと水道の水を被っていたことを知っているということは、 大石にずいぶん前から見られていたということだろう。 もしかしたら、大石のことだからいつもと違う海堂を心配して後を追ってきてくれていたのかもしれなかった。 けれどもそんなことに触れもしないところがこの先輩のいいところでもあるのだろう。 「大石先輩・・」 海堂は、自分のことを心配してくれているのだろう先輩の名を思わず口に出していた。 「ん?」 海堂の前に立つ大石は、柔らかい言葉のアクセントでその先を促してくれる。 そんな心遣いが海堂にとっては嬉しかった。 「・・息が・・できなくて・・気持ちが悪いんす・・」 自分でも、説明が足りない言葉だとは思った。 こんなことを後輩から聞いて、不思議に思わない人間はきっと少ない。 けれども大石は少し考えるそぶりを見せたあと、誰の心にも染み渡る、優しい顔で笑った。 「きっと・・、乾は海堂にとって水みたいなものなんだよ」 思わぬ答えに海堂は弾かれるように大石を見た。 大石は海堂が言ったことの全てを理解してくれているのではないのだろうけれども、 海堂の言おうとしたことを敏感に読み取って、大石なりの答えを出そうとしてくれているのだ。 「夏草にとっての水。今もそうだけど、夏の空の下で大地はカラカラに乾くだろ? そのせいで草は水を欲する。ないと生きていけないんだ」 大石はゆっくりと歩いて水道へと近づいてきた。 何をするのだろうと海堂が眺めていると、大石は水を出し、 片手で少量の水をすくって、木の下にある青々とした草に水を与えた。 大石の手から零れた水が、まるで草々の命の源であるかのように乾いた土を濡らしていく。 大地に落ちた水はじわりじわりと土の中に広がっていき、 けれども少量だったその水は十分に大地を濡らすことなどできずに、土は濃い茶色から次第に色を薄めていく。 それをじっと眺めていた海堂に、大石は再び作り物なんかではない優しい笑みを向けた。 「だから海堂にとって必要不可欠なものだから、自然に自分が欲するままに動いていいんじゃないのかな?」 大石がそこまで告げたときに遠くで部長の『1分前』という声がする。 「やば!もうそんな時間か・・。遅れたらまずいから行こうか」 コートに向かって走り出した大石の後を、海堂は無言でついていった。 夏の日差しの下、乾いた大地に生える飢えた草を見ながら。 コートへ戻ると、ちょうど時間だったらしく、手塚が『練習再開』と合図をかける声が聞こえた。 ラケットを握って指定されたコートへ向かうと、そこには見慣れた姿があった。 見間違えるはずもない、他の部員よりも頭一つ高いその姿。 海堂の視線に気がついたのか、乾はすぐに振り向いて海堂の傍まで寄ってきた。 「遅れました」 姿を見た、声を聞いた。傍にいる熱、心の中に戻る、呼吸の音。 一瞬で居心地の悪さなんて吹き飛んでしまった。 「・・何してたんっすか、先輩・・」 思わず憎まれ口を叩いてしまうのも許してほしい。 乾がいなくて自分は息もできなかったのだから。 「寂しかった?」 どこまで海堂の心を読んでいるのかは知らないけれど、大体のところまで分かっているのだこの人間は。 けれども寂しくないと、いつものように言い切るにはまだ少し心が痛んで、 海堂は他の部員に見えないように乾のジャージの裾を握った。 「・・早く練習しましょう・・先輩」 |