それは生きるための本能。

深い心の奥底で、君を失ったら生きていけないと分かっているから。












+細胞+






乾は部室で、机の上に置かれた資料を軽くまとめていた。


後輩たちは皆片付けを終え、

一人また一人と『お疲れ様でした』という声を残して去っていく。

今日の練習で得たものをまとめ、一人思索に耽る。

家へ帰ってからでもできないことはないが、

頭の中だけに留めておくということに少々不安があった。

もし自分に何かがあって、今日の記憶がなくなってしまったとしても、

文字にしておけば大丈夫だという安心感がある。

心配症だと言われるかもしれないが、

なくなるかもしれない記憶に心を煩わせながら帰るよりも、

部室ですっきりとそのことを終わらせてしまった方が精神的にずいぶん楽なのだ。


そして乾は今日も部室に残ってデータをまとめていた。

残っているのはほんの少しの人数で、

それも手塚や大石や不二など大騒ぎなどしない人間たちばかりだったので

乾は落ち着いてデータをまとめることができた。



丁度そろそろデータもまとめ終わるというときに、

突然、今まで気にしていなかった周りの声が耳に入ってきた。


「海堂」


そう誰かが海堂を呼ぶ声が聞こえて、

乾はその声に反応するかのように振り向いてしまった。


まだ残っていたのだろうか。

自分を待つという時間は無駄に過ぎないから、

夜のランニングをこなさなければならない海堂に、

今日は遅くなるから早く帰るようにと言っておいたのだ。

もし自分を待っているのならば早く帰るよう言わなくてはならない。

そう頭が咄嗟に判断を下した。


しかし振り向くとそこに立っていたのは不二一人で、

海堂の姿などどこにもなかった。


笑顔で乾を見つめる不二に、乾は少しだけ眉をしかめた。


「不二、そういう悪戯はよくないと思うよ」


乾が言うと不二は首を傾げて更に小さく笑ってみせた。


「だって乾何回呼んでも気づかないからさ」


そんなに何度も呼ばれたのに気づかなかったのだろうか。

思い返してみるが、自分は呼ばれた記憶など全くない。

確かに今日は静かで、自分の世界に集中しやすかったのだが。

乾は頭の中の考えをまとめるために、ずれていた眼鏡を指先で持ち上げた。


「・・それはすまなかった」


乾が謝ると不二はあからさまにくすっと声を出して、面白そうに笑った。


「乾ってさ、自分の名前を呼ばれても気づかないのに『海堂』って呼ぶと気づくんだね」


その言葉に乾はふぅと一つため息をついた。

きっと不二は実験をしたのだろう。

何度呼んでも気づかない乾に、好きな人の名前を呼んだらどうなるか、

不二は自分の欲望に任せて行動を実行に移したに違いない。

きっとこうなることを予想しながら。

分かっていながらそれを試すために行動する不二はなんとも性質が悪い。


「まさか本当に振り向くとは思ってなかったけど。ちょっと僕もびっくりしたな」


「そうか?当たり前のことだろう」


開き直ったような乾の言葉に、不二は今度こそ本当に驚いたようだ。

いつも笑みの向こうに隠されている瞳が微かに開いている。


「好きな人間の名前、声、空気。全てが頭の中に記憶されていて、

その人のそれらの気配を捉えると無意識に体が動く。これは自然のことだろ?」


乾はノートに今日の最後の記録を書き込みながら不二に言った。

好きな人とは、恋愛をしている人間とは限らず、

自らが生きていくうえで必要不可欠だと思った人間。

細胞の隅々にまで染み渡ったその人の記憶は

自分を生かしておくために何よりも大切で。

その人なしでは生きられない、

その人の名前、声、空気、それらの記憶を頭の中に留めて、

それらが自らの近くへやってきたとき、自分は反応せずにはいられないだろう。

好きな人の情報は細胞の一つ一つ、遺伝子レベルにまで組み込まれている。


「乾は海堂なしじゃ生きていけない・・か」


驚いた顔をしていた不二が、いつの間にか元通りの、

感情を読み取らせない笑顔を浮かべながらそう言った。


「ご名答」


「ずいぶんとはっきり言うんだね。いいの?僕なんかに言っちゃって」


「別に不二は誰かに言いふらしたりしないだろ」


「ずいぶん信用があるんだね」


「3年間友達だったんだからそれくらい分かって当然だ」


呆れたように乾が言うと、不二はくすりと笑った。

そして近くにある机に腰かけて、ぽつりと呟く。


「いいね、それ。なんだか憧れるよ」


少しだけ笑みを無くした不二は、ふと自分の手を見た。

どこか悲しそうに見えたのは乾の気のせいだろうか。


「・・不二はまだそういうことがないのか?」


聞いた途端、立ち入った質問だとは思ったが、

不二は大して気にする様子もなく乾の方を向いた。


「・・さあね」


笑って答える顔にはやはり感情を読み取らせない大きな力があって、

乾はそれ以上詮索することをやめた。


「でも、そういう恋をしてみたいと思うよ。誰よりも大切で恋しい人がいて。

その人がいないと生きていけないと思うような恋をさ」


「羨ましい?」


鞄にノートをしまいながらそう問うと、

不二はいつもの笑みを返すだけで問いに答えてはくれなかった。

不二にもそういう願望があるのだなと、心の中で密かにデータを取った。


「引き止めちゃって悪いんだけど、早く帰った方がいいよ、乾。

海堂が外で君のこと待ってるみたいだから」


その言葉に驚いて不二の方を見る。


「そのことを伝えようと思って乾を呼んだんだけど、

気づかなかったからこういう話になっちゃったんだけどね」


笑ってそう伝える不二からはどこにも悪かったというような雰囲気は見られず、

確信犯かと乾は小さくため息をついた。


「そういうことは早く言え・・」


「あんまり海堂を待たせちゃ駄目だよ」


「言われなくとも」



慌てて部屋を出て行く乾に、不二は手を振って『ばいばい』と声をかけた。












部室を出て校門まで歩いていくと、そこには不二の言ったとおりに海堂がいた。

海堂は乾を見つけて恥ずかしそうに視線を逸らした。

乾は足早に海堂のところまで歩いていく。

もうすでに空は暗くなりかけていて、

海堂はかなり長いことここで待ってくれていたのだろう。


「今日は遅くなるから先帰っていいよって言っただろ」


そう声をかけて頭に手を置くと、

海堂は下を向いてそっと聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。


「・・アンタと一緒に帰りたかったから・・」


思いがけない言葉に乾は驚いてその動きを止めてしまった。

愛しい人からもたらされた幸せな言葉に、体の中の全ての細胞が反応する。

頭で考えるよりも早く、体が動いてしまう。

海堂が大切だということを、乾の全てで知っているから。



気づいたときには目の前の愛しい人を抱きしめていた。



「ちょっ・・こんなとこで・・」


慌ててその腕から逃れようとする海堂の頬に軽く口付けを送る。

すると乾の体を押し返そうとしていた腕の力はなくなり、

おとなしく乾の腕の中に収まってくれた。


「待っててくれて有り難う・・」


そう耳もとで囁くと、背をぎゅっと抱き返してくれる腕があった。


「一緒に帰りましょう・・」


返事をするように乾は再び海堂の頬にキスをした。









生きていくために、君がとっても必要だから。



体の奥底にまで君という存在が浸透している。



君なしじゃ生きられない。














周りに人がいないことを確認して、二人は一緒に、手を繋いで帰った。