春の嵐。


咽返るほどの、花の香。





+歌い、咲き誇れ花よ





今年は例年よりも僅かに桜の開花が早いという。

卒業式を明日に控えた、今日。

桜は、学校を去っていく生徒たちに笑いかけるように。

美しくその花を開かせていた。


今日は明日の卒業式に向けての予行演習の日であった。

卒業を迎える3年生たちと、生徒たちは皆体育館に集まり。

卒業証書授与から始まり、式辞、校歌、お祝いの歌。

数度練習を繰り返したそれは、もう間違えることなどなく。

練習のためだけに学校にやってこなければならない理不尽さに、

どこか苛立ちを感じざるを得ない。


3年生は全員、名を呼ばれ、卒業証書を授与される。

しかし全員、一人一人に証書を渡していたのでは時間がいくらあっても足りず。

クラスの中から数名の男女が受け取ることになっている。


体育館に敷き詰めて並べられた椅子の、前の方に座る彼は。

平均中学生よりもずっと高い身長のため、座っていても、頭一つ飛び出している。

分かりやすいその風貌は、けれどその背中しか見ることができず。

そういえば自分はいつも、あの人の背中ばかりを見上げていたと。

今更ながらに思った。


3年11組の、証書を受け取る人間は、驚いたことに彼であった。

クラスの中でも人望が厚いのだと、昔、彼が笑って言っていたことを覚えている。

そう、思い出。

彼と離れることによって、きっと、隣に彼本人がいるということよりも、

記憶の中で彼が喋っているのを思い出すだけという日々が多くなるのだろう。


海堂は体育館の窓から外を見つめる。




外は嵐。




春風に乗って、桜色をした花びらが、まるで季節の訪れを祝うかのように踊っている。

祝福すべき季節の訪れは、幸せであるはずなのに。


変わり行く季節の中で、彼の姿をなくし。

薄れ行く彼の姿すらも記憶の中から消えてしまったら。


あの優しい腕も、

自分を呼ぶ甘い声も。






全て、忘れてしまうのでしょうか。






壇上で、彼の名が呼ばれる。




『卒業証書、乾貞治』




背筋を伸ばし、歩く姿は誰よりも凛々しく。




『貴君は中学校全課程を終了したことをここに証する』





外は嵐。

宙を泳ぐ桜色の花びらは、まるで。




狂気に踊り狂う花のようだと。







午前中で終わった練習の後、僅かなHRを受けた後に、解放される。

去り行く3年に、心からのお祝いを、と。

嬉しそうに述べた担任の顔が、酷く印象に残って離れなかった。


春の嵐の中、海堂は、校舎の隅にある、小さな中庭に向かった。

そこは思い出の場所。

たくさんの日々、様々な時間を、ここで彼と過ごした。

昼食をともにとったこともあった。

練習メニューを二人で考えたこともあった。

これ以上ないというほど、たくさんの思い出が詰まった場所だった。


海堂は無意識のうちに、中庭へと足を向けていた。

冬には枯れていた草花が、緑の息吹を吹き返している。

花は咲き、緑は歌い、春の季節を喜ぶ。

頬に触れる風は優しく。

けれどもその優しさは、心を刺す痛みを伴って海堂に触れた。


風に乗り、舞う花びら。

ひらりひらりと。

まるで嵐。


全てをその色で埋め尽くしてしまいそうなほど、美しい。

幸せの色をした、嵐。





「海堂」





不意に聞こえた耳慣れた声に、海堂は体を震わせる。

今まで気配などしなかったのに。

海堂を驚かすのは、いつもの彼の行動だった。


海堂は辺りを見回す。

けれども何処にも、彼の姿はなく。

幻聴が聞こえたのかと、自分の耳を疑ってしまった。


望めば与えられる現実であるのならば、自分はとっくに色んなものを望んでいる。





「海堂」





再び聞こえた声に、やはり幻聴ではないと確信をし、

やはりもう一度、辺りを見回した。

前方にも、後方にも、ましてや隣の校舎の影にも彼の姿は見当たらず。

まさかと思い、桜色の嵐の中、透き通るような青い空を見上げれば、

木の枝に、見慣れた彼の姿。



「気づいた?」



小さく手を振る乾に、海堂は僅かに溜息をつく。

何が楽しくて、中学生男子が桜の木に登っているのか。

明日卒業式を控えているのに、木から落ちて怪我をしたらどうなるのか。



「・・なんでそんなとこ登ってんすか?」



尋ねれば、春風に乗って、彼の笑う声が聞こえる。



「綺麗だったから。近くで見てみたくなってさ」



そう告げる彼は至極幸せそうで。

海堂は思わず顔を背けた。

自分意外の他のものに向けられる視線が、心に痛かった。



咽返るほどの春の香りが、酷く心を締め付ける。



春など嫌いだと、吐き捨て、目を瞑り。

何も視界に入れずに逃げてしまえばよかったのか。



クスリと笑う気配がする。

彼独特の、笑い方。

何度も向けられた、彼の想い。



「・・俺は海堂が心配だよ」



唐突に告げられた言葉に海堂は彼を見上げる。

乾は、手を伸ばし、頭上にある桜に触れ、そうして綺麗なそれを一つ手折る。

しかし乾はそれを愛でるわけでもなく。

手の平で無造作に潰し、宙へと放った。

ばらばらになった花びらが、柔らかい春風の中に舞う。



「俺がいなくなって、お前が一人、ここで泣くんじゃないかと」



舞い落ちるのは、桜色の花びら。

春の、嵐。


乾の手から零れた花びらが、海堂の上にふりそそぐ。


気づいたのは、彼の想い。

淋しいのは自分だけではなく。

不安に思うのは自分だけではなかった。


ふりそそぐのは、花びら。

彼の想い。



「俺は泣いたりなんかしねぇ」



舞い落ちる花びらを全身で受け止めながら、彼に言い放つ。



「アンタが、泣くんだ」



睨みつけるように乾を見上げる。

まるで桜の木が、笑うかのように揺れた。



「新しい場所の、何処にも、俺の姿を見つけられないことに、アンタは泣くんだ」



言い放てば、桜の木が大きく揺れた。

海堂を、笑ったのかと思ったけれども、それは違い。

枝に座っていた乾が、幹の窪みに足をかけ、器用に下へと降りてきた。


高いところにいなくとも見上げなくてはならないその姿。

背筋を真っ直ぐに伸ばして歩く凛々しさに、咽返るほどの甘い苦しさ。


気づけば乾の腕は背に回され。

強く抱き締められる。



「海堂・・」



名を呼ぶ声は空気を震わせ、春風は柔らかさを増す。

花びらは、その美しさを色褪せさせてしまうほど。



ふとした偶然。

その時、舞い降りた花びらが、海堂の唇に触れる。

気づいた時には既に遅く。

噛み付かれるような、接吻。


咽返るほどの想いと。

息も詰まるほどの、甘い香り。

そして視界を埋める、淡い春色。




「約束・・。一人で泣いたら駄目だよ」




触れるほどの位置で囁かれたそれに、海堂は頷いた。




「・・アンタは泣けよ」




告げた言葉に、乾は笑う。


一閃の春風が、桜色の花びらを舞い上げ、

そして海堂の頬に触れる。



さっきは心を痛めた春風も、今はただ心地よいだけであった。





抱き締められる腕の中。

海堂はただ、思いを馳せる。












次の春には。

桜色の嵐を見上げ。

幸せそうに笑っている、姿を。





















春の訪れに、盛大なる祝福を。