+幸せの定義+ 助けを求めて飛び込んでみたのは3年1組の教室。 乾はふらつく体をなんとか歩かせながら、目的の人物のところへ向かった。 「・・手塚」 今は昼休みの時間帯のせいか、教室に残っている生徒は少ない。 皆、食堂や部活に出かけているのだろう。 「・・どうした、乾?」 小難しい顔で数学の教科書を眺めていた手塚は、乾の声に気がついて振り向いた。 乾は手塚の前の席に反対向きに座り、ノートが広げてある手塚の机に思いっきり突っ伏した。 「・・手塚、・・腹減った・・・」 さっきからお腹の虫がひっきりなしに鳴っている。 不覚にも今日、家に財布を忘れてきてしまったのだ。 さっきまで委員会があり、さあ昼飯を買いにいこうと思ったらそこに財布の姿はなかった。 どうしようかと悩んだ末、階段から一番近かった1組の手塚のもとへとやってきたのだ。 もちろん、人数的には6組に行った方が食べ物をもらえる確率は高かったが、 何せあの二人のことだ。 乾のことをからかって、食物が出てくるのはずいぶんと先のことになってしまうだろう。 手塚なら食べ物を分けてくれなくても、お金ぐらいは貸してくれるだろう。 そう考えて乾はここまでやってきたのだ。 机の上に倒れこんでいる乾をちらりと見て、手塚はおおげさにため息をついた。 「食べ物くらい自分で調達しろ」 きっぱりと言い放つ手塚に、乾は少しだけ顔をあげて恨みがましい視線を向けた。 「家に財布を忘れてきたんだ」 その言葉を聞いて、手塚はぴくりと片眉をあげた。 乾の両親は共に働いていて、息子に弁当を作る余裕もなく、いつも購買で済まさせている。 それでは栄養が偏るのでは、と思うのだが、それは致し方ないことだ。 部の朝練で登校時間が早い上に、中3の男子が自分の弁当を作ってくることは難しい。 手塚はもう一つ大きくため息をつき、鞄の中を漁った。 そして鞄の中から自分の弁当を取り出すと、 まだ机に突っ伏している乾の頭に、ぽんと乗せた。 「・・・?」 乾は頭に乗せられたものに手を伸ばして、その存在を確かめる。 「俺の弁当だ。それを食べていろ」 手塚のシンプルな弁当箱を手に乗せて、乾は少しだけ困惑したように話し出した。 「・・俺がこれを食べていいわけ?」 乾が言い終わる前に、手塚は勢いよく立ち上がった。 「食べていろと言ったんだ。 俺が今から購買に行って何か買ってくるから、それまでこれを食べて待っていろ」 「ああ、ありがとう」 手塚がそう言うと、乾は素直にお礼を言ってきた。 「お前が今から購買に行くよりは、俺が行ってきた方が早いからな」 そう言って教室から出ていこうとする手塚を、乾は慌てて呼び止めた。 「あ、手塚」 手塚が振り向くと、乾が小さく手を振っていた。 「おかかのおにぎり希望」 「・・あったらな」 呆れたような顔をして、手塚は教室から出ていった。 乾はそれを見送って、手にしていた手塚の弁当をありがたくいただくことにした。 手塚らしい、シンプルな包みに包まれた弁当箱をあけると、 手塚のために作られた、愛情たくさんの料理が詰まっていた。 一目見ただけで、それがどれだけ手間をかけて作られたのかが分かる。 いつから、弁当というものを持たなくなったのだろう。 乾は自分の中の記憶を手繰り寄せてみた。 気がついてみると、自分は滅多なことでは弁当を持つことはなかったし、 それが当たり前だと思っていた。 だからこういう風に愛情のこもった弁当を見るのは久し振りだった。 ちくりと心のどこかが痛んだ気がしたが、気にしないことにした。 今は食料補給が必要だと体が訴えている。 乾は黙々と箸を進め始めた。 弁当の三分の一が消えたところで、教室のドアががらりと開いた。 手塚が帰ってきたのかと乾がドアの方を振り向くと、 そこにはいつもと変わらぬ不敵な笑顔を湛えた不二がいた。 「ああ、本当だ。乾が手塚のお弁当食べてるね」 乾の前へ来て、そう話し掛けてくる不二に、乾は『まあね』とだけ返事をした。 そんな乾を見て、不二は楽しそうに隣の空いている席に座った。 「俺が手塚の弁当食べてるって誰に聞いたんだ?」 一旦箸を止めて、不二を見ると、まだ楽しそうに笑っていた。 「手塚に聞いたんだよ。 廊下で手塚に会ってさ、乾がお金を忘れてお昼ご飯を買えなくて飢えてるって。 そのうえ珍しいものが見られるから1組に行ってみろって」 嬉しそうに向けられる不二の笑顔に、乾は小さくため息をついてみせた。 「俺が飢えてるのがそんなに楽しいワケ?」 「だって珍しいじゃない、乾が食料に飢えてるなんて」 乾は、今度は心の中でため息をついた。 珍しいと不二は言っているが、明らかに乾の状況を楽しんでいる。 まあ、でもこんな不二には慣れているので、気にすることもない。 なんせもう3年も友達をやっているのだから。 「乾はいつも何かに執着することなんて少ないだろ? だからお腹をすかせてる乾を見ると、ああちゃんと人間なんだなと思うよ」 ではいつもは人間だと思われていないのだろうか。 ひどく理不尽なことを言われた気がしたが、 不二が自分のことを内心では心配してくれていることが分かったので、 素直に礼を述べてみる。 「・・それは有り難う」 「どういたしまして」 不二はまた嬉しそうに笑うと、突然乾の耳元に顔を近づけてきた。 「・・何?不二」 「何で海堂のところに行かなかったの?」 不二の問いに、乾はあまり興味がないというように『ああ』と答えた。 「自分の情けない姿をわざわざ恋人のところにさらしに行くと思う?しかも海堂は2年だよ。 俺が弁当をもらいに行ったら不審なだけだろう」 「そういえばそうだね」 乾の答えを分かっているはずなのに、不二は問うてくる。 そんな不二の癖に少し呆れて、乾はずれた眼鏡をかけ直した。 不二はにこやかに笑うと、ふと手塚の弁当に視線を移した。 「手塚のお弁当を食べた人なんて、乾が初めてじゃない?」 「そうかもな」 それには乾も頷き返す。 この三年間、手塚の弁当を食べている人間も、 手塚に弁当を請うている人間も見たことがない。 だからこそ、目の前に手塚が自分の弁当を出したとき、 データにない出来事に乾は戸惑ったのだ。 「天変地異の前触れかもね」 くすくすと笑う不二に、乾も小さく笑ってみせる。 「間違いないな」 そして。 噂をすれば何とやら。 教室のドアが開き、手塚が購買から帰ってきた。 「手塚お帰り」 「ご苦労様」 乾と不二の言葉に小さく頷いて、手塚は乾の前に買ってきた食糧を置いた。 置かれた食べ物に、乾と不二はそれを見つめて、数秒声を発せなかった。 「・・手塚、もしかしてこれだけ?」 「もしかしなくてもこれだけだ」 即答した手塚に、その意図に気づいた不二がいち早く笑い出す。 乾は予想もしなかった手塚の行動に、しばし考え込んだ。 置かれた昼食は、乾が頼んだおかかのおにぎりただ一つ。 これだけでは全然足りないことは手塚も分かっているはずだ。 もしかして、これを食べてあとは自分で買いにいけということだろうか。 手塚の行動にしては、それはあまりに子供じみている。 「・・・・・」 考え込む乾と対照的に、不二はさっきから笑いが止まらないようだ。 そんな二人を尻目に、手塚は自分の席につき、 乾が食べ途中だった自分の弁当を食べ始めた。 乾は黙々と昼食を食べる手塚を見て、答えは聞き出せないと判断し、 どうやら理由を分かっているらしい不二に問いを向けた。 「・・不二」 「もうすぐしたらその理由がわかるよ」 まだ笑いが止まらない不二は、困ったような顔をした乾の肩をぽんぽんと叩いた。 もう少し待てば分かるということなので、 乾はとりあえず言われたとおりに待ってみることにした。 待つこと数十秒。 賑やかな声とともに、廊下を走ってこちらに向かってくる音が聞こえた。 「ほらー早く早く!」 廊下をきっとすごい速さで走ってきただろう人物は、その声で菊丸だということがわかる。 しかし何故菊丸がそこまで急いで乾のもとにやってくるのか見当がつかなかった。 「乾!」 バンと勢いよく教室のドアが開いたと思ったら、満面の笑みを湛えた菊丸が入ってきた。 「お昼ご飯持ってきたよ!!」 菊丸に半ば引きずられるようにやってきたのは、なんと海堂だった。 腕を掴まれてそのまま教室に入ってくる海堂は、 3年の教室ということで少し緊張しているようだった。 「ほら、きたでしょう」 不二が心底嬉しそうな顔をして乾の隣の席からどいた。 そんな不二を見て、やっと合点がいった。 不二が乾の話を聞いているということは、 その話は菊丸にも伝わっている可能性が高いということだ。 そして不二は乾のもとへ、 菊丸はお節介にも海堂を呼びに2年の教室まで行っていたということだろう。 乾がちらりと手塚を見ると、我関せずという顔をして弁当を食べ続けていた。 どうやら手塚も共犯らしい。 菊丸は、乾のもとまで海堂を連れてくると、今まで不二の座っていた席に海堂を座らせた。 「俺が海堂を連れてきたんだよ〜。偉いでしょ!」 えっへんという風にふんぞりかえってみせる菊丸を気にすることなく、 乾は海堂に視線を向ける。 3年の教室で、しかも先輩に囲まれて海堂は居心地が悪そうだった。 「海堂・・悪かったな」 「・・・・いえ」 乾が声をかけると、海堂は照れたように目をそむけて答えた。 そんな姿もかわいいなと思いながら、乾は優しく微笑む。 他人にしてみたら特に表情の変化はないと言われるけれども、 乾としては笑っているつもりなのだ。 その時、視線を逸らしたままの海堂の瞳が小さく揺れた。 机の上のおにぎりを見て、そして軽く唇を噛む。 乾のデータからすると、それは海堂が何かに心を乱されているとき。 海堂は今何か、言いたいことがあるのに言えないでいるに違いない。 それの状況を助けるかのように、不二が海堂の近くに寄ってきた。 「海堂はお弁当持ってきたんだよね」 不二が尋ねると、海堂は驚いたように目を見開き、 そして一瞬だけ手に持っているものを隠そうとした。 けれども、隠してはしょうがないと思ったのか、 うつむいたまま乾の前に大きな弁当箱を出した。 「・・これ・・親が今日は多く作ってきて・・それで・・先輩、昼飯がないって聞いたから・・」 静かにだけれども聞き取れないということはないほどの声で海堂が言う。 机の上に置かれた弁当は、とても一人では食べきれない程の量であった。 しかし海堂はそう言ってはみたものの、弁当を広げようとはせず。 どうすればよいのかと困りながら、乾の反応をただ待っていた。 「・・俺が食べていいの?」 そう問うと、海堂はどこか安心したようにお弁当の包みに手をかけて、それを広げた。 「・・っす。食べてください」 包みを広げると、そこには3段重ねのお弁当箱があった。 「うわっ!すごいね!」 菊丸が驚いたような声を上げ、不二もどこか珍しそうにそれを眺める。 手塚はもちろん表情を変えず。 いつもの無表情でそれを眺めている。 ちなみに手塚は先ほどから昼食を食べる手を止めない。 どこまでもマイペースな人間である。 「・・どうぞ、食べてください・・」 海堂はどこか慌てたような手つきでお弁当箱の蓋を開く。 やはり3年の教室で、3年のレギュラー陣に囲まれていれば緊張するものなのだろうか。 いつもは自分の前で滅多に使わない敬語も使っている。 海堂は礼儀正しい子だから、自分以外の人間にはちゃんと敬語を使っているのだ。 そう、自分以外には。 敬語を使われないということは特に気にしてはいないのだが。 どこか”自分だけ”特別視されているような気がして、嬉しい。 乾は先輩に囲まれて居心地悪そうに座っている海堂を見て、僅かに笑みを零した。 そうして、いつまでも自分が食べはじめないのでは、 海堂も昼食を摂れないだろうと気がついた。 「そうか、じゃあいただくとするか」 乾がお弁当を眺めて、それから海堂に微かに笑いかける。 それだけでも海堂にはちゃんと自分の気持ちが伝わったという自信がある。 「・・っす」 乾の言葉に海堂は僅かに頭を下げる。 その頬が僅かに赤くなっているのは、乾だけしか知らないところ。 早速お弁当に手を伸ばそうとして乾は、はた、と気づいた。 箸がないのである。 手で掴むわけにもいかないし、海堂と交互に食べていたのでは時間がかかってしょうがない。 「・・・・・・」 少しの間考え込んでいると、海堂もそれに気づいたらしく、自分の持っていた箸を差し出した。 「先輩、どうぞ・・。俺、後で食べますから」 海堂に差し出された箸を見て、乾は困った。 これは海堂の弁当なのだから、食べる権利は海堂にあるのだ。 自分の可愛い恋人にあとで昼食をとるなど、わびしい思いをさせたくはない。 「駄目だよ、海堂。お前が先に食べなさい」 口調に僅かに先輩の命令だということを滲ませて、海堂に言い渡す。 「でも・・」 まだどこか困っているような海堂に、乾は手にしていたおにぎりを取り出した。 「俺にはこれがあるしね。先に食べてていいよ」 「・・はい」 どこかまだ納得していない様子の海堂なのだが、先輩たちのいる前で大げさに騒ぎ立てることもできず。 渋々とそのお弁当に手をつけはじめた。 乾はその姿を見て安心をして、 手塚に買ってきてもらったおかかのおにぎりのフィルムを剥がしだした。 その時。 「あ!!そうだ!!」 突然、菊丸が大きな声を上げてぽんと手を叩く。 そこにいた4人は一斉に菊丸の方を向く。 しかし手塚は昼食をとる手だけは休めない。 「そういえばタカさんなら割り箸を持ってるかも!!」 何ていいことを思い出したんだといわんばかりに目を輝かせながら菊丸は4人を見た。 「そういえばタカさんなら持ってるかもね」 不二が同意すると、菊丸は嬉しそうにその場から走り出していた。 「じゃあ俺ちょっとタカさんのトコ行ってくるね〜!」 ガラガラ、と教室の扉が思いっきり開けられ。 ピシャンとこれまた派手な音を立ててドアが閉められた。 そうして来たときと同じく、勢いよく走っていく足音。 それを聞いた4人は思わず顔を見合わせて、笑みを零していた。 「英二らしいね」 不二が楽しそうに菊丸の去っていた方向を見ながら笑う。 「ああ、そうだな」 おにぎりのフィルムを剥き、海苔をご飯に巻きつけながら乾もそれに同意した。 わざわざ友人のために元気よく走っていってくれる人間も少ない。 そんな友達がいのあるところも菊丸のいいところだ。 言わなくてもみんな分かっていることなのだけれども。 「海堂、気にしなくていいから食べなよ。手塚みたいにさ」 おにぎりをほおばりながら海堂に言う。 そう乾に振られた手塚も、一つ大きく頷いた。 しかしその眉間には一つ。 縦に一本深い線が刻まれている。 それはきっと菊丸が大きな音をたてながら教室を出ていったためなのであろうが、 海堂は少しばかり怯えながら手塚を見た。 「あ・・はい・・」 すると海堂もやっと心を決めたのか、箸を両手に挟んで、 行儀よく目を閉じて頭を下げてからお弁当を食べ始めた。 すると不二が慈しむような目で海堂を見つめる。 「なんかさー」 「何?」 ぱりり、と乾いたおにぎりの海苔を食べながら、乾は不二の言葉に耳を貸した。 「乾のことだから。」 ふふふ、と謎めいた笑みを浮かべながら海堂が食事をする様を眺めている。 不二が謎めいた行動をするのはいつものことなので、乾はあまり気にしない。 手塚も同じようで、不二の言葉に何の反応も返さなかった。 ・・いや、手塚は先ほどから自分の弁当を食べる手だけは休めていないのだが。 手塚は今、持ってきた保温性の高い水筒から熱いお茶をコップについで、 随分と中学生離れをした顔でお茶を飲んでいる。 手塚の弁当はあと半分といったところだろうか。 気になるところで言葉を止めた不二は、視線を海堂から乾に移し、また不敵に笑った。 「だから何?」 乾がぱくりと再びおにぎりをほおばる。 不二は楽しそうに乾に顔を近づけて、こう言った。 「乾のことだから、海堂に『食べさせてv』って言うのかと思った」 からり、と乾いた音がした。 ふと乾がその方向へ視線を向けると、海堂が固まってお弁当箱の上に箸を落としていた。 あらぬ想像をしてしまったのか、海堂の顔は青ざめている。 ちなみに手塚はやはり眉一つ動かさない。 「ふふ」 そんな海堂の姿を見て、不二はまた楽しそうに笑った。 「海堂は純情だね」 不二は海堂の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。 海堂はきっとそれを払いのけたいのだろうが、相手が先輩だということもあり、 乱暴にはできないらしかった。 きっとそれが自分だったら勢いよく払いのけられているのだろうかと思うと、 少しだけ苦笑いが零れてくる。 「ねぇ?乾」 不二に同意を求められて、乾も頷く。 皆のいる前でどさくさに紛れてそう言ってしまうのもよかったのかもしれない。 「ふむ」 乾は顎に手をかけて、上方へと視線を向ける。 「それは気がつかなかったな」 「乾、珍しい失態だね」 「でもまだ遅くはないんじゃないか?」 乾は持っていたおにぎりの欠片を全て食べてしまってから、海堂に真っ直ぐに向き直った。 その行動を不二は楽しそうに見ている。 「海堂」 「嫌です」 乾が頼む前に、海堂は拒否の言葉を口にした。 「えー」 「子供みたいなこと言わないでください」 少しむくれてみた乾に、海堂は目もあわせず黙々と弁当を食べ続ける。 どうやら視界にも入れてくれないらしい。 そんな海堂を見て、少しだけ悪戯を思いつく。 後で拗ねるかな、とは思いつつ、無視されたのは少しだけ悲しかったので、 とりあえず実行に移してみた。 不二に目配せをすると、不二も分かったという風に僅かに頷く。 そんなやり取りも海堂は気づいていないようだ。 「じゃあいいよ」 わざとらしく声を発する。 そうして海堂から視線を逸らして、目の前の手塚へ視線を移した。 「手塚に食べさせてもらうから」 乾の言葉に、海堂はお弁当から目を離し、ぎょっとしながら二人を交互に見つめた。 不二はやはり面白そうに海堂の様子を見ているだけだ。 「手塚、一口頂戴。」 乾がそう言うと、手塚は臆する訳でも恥じるわけでもなく、 箸に一口ご飯を乗せると乾に差し出した。 特に手塚は何も考えていないのだろう。 それを見て、海堂は僅かに顔を赤くして、目を吊り上げている。 見ないようにしているのか、顔をこちらへは向けないのだが、 ちらちらと視線がこちらを向いている。 乾が口を開く。 そうして手塚が箸を乾に近づけていく。 外から見れば仲の良さそうな二人の光景に、隣の海堂は体を震わせ始めた。 そうして、突然海堂はバンッと机を叩いて立ち上がった。 「やめろ・・!」 「おい、手塚・・この件なんだが・・っ!?」 がっしゃん。 ガラリ。 そう、音が重なったのは同時だった。 一方では、乾に餌付けをしようとしている手塚と、 それを阻止しようと乾の口を押さえる海堂と、 海堂に勢いよく顔中を押さえつけられて、何が起こっているのかさっぱり分かっていない乾。 また一方では、1組に手塚に用事があって尋ねてきたのだが、 目の前の光景に訳が分からなく、入り口で立ち尽くす大石。 そしてその間には不二がやはり楽しそうに笑っていた。 「・・・・・・・・・・」 しばしの間、4人はその動きを止めた。 事情が分かっている不二は特に何もフォローをしようとしない。 沈黙だけがその場を包む。 そして数十秒後。 誰よりも先に動き出し、この空気を破ったのは 青学テニス部を引っ張る、中学テニス会の皇帝とも言われる彼だった。 「何だ、大石」 乾に向けていた箸を自分の口もとへもってきて、それをパクリと食べる。 「・・・えっ?・・ああ」 その声を聞いて、大石は我に返ったように4人のもとに近づいてきた。 海堂もハッと我に返り、乾の自慢の眼鏡ごと顔を覆っていた自分の両手を離した。 「ス、スンマセン」 今更自分のやったことが恥ずかしくなったのか、海堂は顔を真っ赤にして元通りに席についた。 そうして恥ずかしそうに俯いてしまって、やりすぎたかなと乾は少し反省する。 海堂に思いっきり飛び込んでこられてずれた眼鏡を直しながら海堂に声をかけた。 「海堂」 乾の声に海堂はピクリと肩を震わせた。 「ごめんな」 そう言って海堂の肩にぽんと優しく手を置く。 「・・ッス」 どうやら海堂はそれほど乾の行動に怒っているわけではなく。 自分のしてしまったことに恥じているようであった。 近づいてきた大石が、まだ少しだけ顔を引きつらせながら声をかけた。 「何してたんだい?」 その問いに不二が綺麗な笑みを浮かべながら答えを返す。 「『第二回乾争奪戦・於三年一組』だよ」 「へ、へえ・・」 もちろんそれは不二のジョークに過ぎないのだが、純粋な大石はそれを信じてしまったようだ。 寧ろ教室に入ってきた途端にあんな光景を見せられたのであれば、 大抵の者は信じてしまうであろう。 大石は手塚に数枚のプリントを渡した後、一言二言会話をした。 そうして少しだけ何かを探すような目をしながら、こちらの方を向いた。 どうしてだろう、この人間も、相方と同じくらい行動が分かりやすい。 乾と不二は目配せをしながら微かに笑う。 海堂はその意味が分からないようで、辺りにたくさん疑問符を飛ばしていた。 「大石、丁度いいときに来たね」 「え、何でだい?」 大石の問いに、不二は指で教室のドアの方向を指差した。 「そろそろ君のハニーが帰ってくるよ」 不二がそう言った途端に、廊下の向こう側から、 こちらの教室の方向へ走り寄る二つの足音が聞こえた。 その音は1組の教室の前で止まったかと思うと、 出ていったときと同じようにバンっと大きな音を上げて教室内に入ってきた。 「乾ー!箸持ってきたよー!!ついでにタカさんも!!」 菊丸の後ろには、首根っこを掴まれて、引きずられてきたかのような風体をした河村がいた。 手にはまだ食べかけのお弁当が握られている。 どうやら。 河村も食事中だったのを菊丸が無理矢理連れてきたに違いない。 青学一のパワーを誇る河村だが、こんな時の菊丸には誰もかなわないらしかった。 教室内に入ってきた途端、菊丸はとある人物を見つけて目を見開いた。 「あっ!!大石〜!!!」 教室内に響き渡る声で、菊丸は愛しい人の名を呼ぶ。 そうしてタカさんを手放して勢いよく大石の背中へ飛びついた。 「英二」 飛びつかれてもそれを予期していたのか大石は全く動じない。 寧ろ抱きかかえてやる余裕すらある。 さすが青学ゴールデンカップルといったところだろうか。 そんな中、河村が少し申し訳なさそうにこちらへ近づいてきた。 「乾、お弁当忘れたんだって?」 うちの教室で菊丸が大声で話してくれたよ、という河村に、乾は僅かにため息をつく。 3年4組の人間には乾が弁当を忘れたという話が知れ渡ってしまったということだろう。 「はい、これ。うちの店の割り箸なんだけど・・丁度持ってたから、使ってくれる?」 はい、と手渡されたのは、『河村すし』と印刷された割り箸だった。 「悪いな」 「どうってことないよ」 手に食べかけのお弁当を持ったままの河村は、突然連れてこられた不満を漏らしもせず、 いつものはにかんだような顔で笑った。 「タカさん、タカさん。ここ座りなよ」 お弁当を持ったままの河村を、不二は自分の隣の席に呼んだ。 もちろんそこも手塚のクラスの誰かの席なのだろうが、不二はおかまいなしだ。 「ああ、有り難う」 河村が腰を下ろすと、大石も菊丸を抱きかかえたまま、河村の隣に座った。 しかしもう誰もそんなことを気にしたりはしない。 そんなことごときを気にしていたら、青学テニス部でやっていくことはできない。 「そういえばさ、乾、そろそろ誕生日なんだよね?」 河村の言葉に、皆の目が一斉に乾に向く。 「そうだよ。覚えててくれたんだ。さすが河村だね」 河村の持ってきてくれた割り箸を割って、 いただきますと言いながら海堂のお弁当をつつかせてもらう。 二人で一つのお弁当を食べるとはやはりどこか気恥ずかしい。 それは海堂もそう感じているらしく、視線を下に固定したままだ。 いや、もちろん海堂が先輩たちの中に 一人後輩が混じっていると気にしているからかもしれないのだが。 河村の話を聞きながら、そっと海堂の髪を撫でた。 すると海堂は少しだけ安心したかのように肩の強ばりを解いた。 「何か欲しいものある?乾」 菊丸が大石の首に抱きつきながらそう尋ねた。 忙しくて普段昼休みに捕まることのない自分の恋人が傍にいるのだから 菊丸も嬉しくないはずはないのだろう。 乾への会話は大石に抱きつくついでなのではないかという気もしないではないが、 話が続かないので一応答えは返すことにする。 「おいおい、それは俺のいないところで密かに話すものなんじゃないのか?」 「だって初めに聞いた方が後で悩まなくて済むじゃん」 菊丸の答えは最もだ。 しかし、友人の誕生日くらいプレゼントだけではなく、 何かイベントを起こしてくれてもいいのではと思う。 「それで、結局乾は何が欲しいんだい?」 不二がそう尋ねると、皆も興味があるのか、顔をこちらに向けてきた。 「そうだな・・」 乾は上を向き、そうして下を向き、今欲しいものを思い出してみる。 そうして。 自分の横を向いて。 逃げられる前に。 海堂の手を取った。 「これ、かな」 乾は海堂の手を握ったままその頬に軽く口づけを落とした。 突然先輩たちの前でそんな行動に出られた海堂は、あまりの出来事に声も出せない。 驚きに目を見開いたまま、口をパクパクと動かしている。 「うわー。ラッヴラヴだねー!」 菊丸が二人の行動に呆れたような声を出す。 しかし菊丸に、自分たちを非難する権利はないと思うのは乾だけだろうか。 「熱いね」 不二はやはり楽しそうに自分たちを見ている。 「仲いいよね」 どこか外れたような感想を漏らすのは河村で。 「・・・別に、いいんじゃないかな?」 海堂の運命を思って心配そうに胃を押さえていたのは大石だった。 そうして誰よりも外れた、誰をも驚かせた言葉を紡いだのは、あの彼だった。 ・・いや、彼は彼なりに友人の誕生日を考えて言ったことだったのであろうが。 「よし、では乾の誕生日には『海堂薫捕獲大作戦』だな」 手塚の言葉に、不二と菊丸以外の人間はその動きを止めてしまった。 あの手塚が、と、隣の海堂も魂が抜けたかのように呆けていた。 「おー!!」 菊丸が元気よく拳を振り上げる。 「じゃあ頑張ろうか」 不二もニッコリと乾に笑顔を贈る。 ・・どうやら随分と頑張ってくれるらしい。 「期待しててね、乾!」 少し、言葉にしたことを後悔し始めた乾貞治14歳の春でした。 今日も幸せ。 そして明日も。 きっと幸せ。 |