+空の下に映える青+





足が震える。

青学のベンチでは自らを試合へと駆り立てるために

他のレギュラーメンバーたちがそれぞれに精神統一を図っていた。

そんな彼らに気づかれないように、海堂はいつも通り無関心を装い一人ベンチを抜け出した。

一人コートの外れに向かい、自分の意思とは関係なく震えてしまう足を叱咤する。

しっかりと握られた手で、動いてくれと願いを込めながら足を叩く。

折角もぎ取ったレギュラーなのに、ここで負けてしまうわけにはいかない。

今までの苦労が無駄になってしまう。

かたかたと小刻みに震える足を見るのが嫌で、海堂はその場に座り込んで足を抱えた。



緊張してないと口に出すのは簡単で。

けれども心の奥底では未知のものに遭遇するという恐怖が拭われないまま存在していた。



大丈夫。大丈夫。

言い聞かせる自分の言葉にどこにも確証はなく、空しく響くだけだった。

あれだけ練習をしてきたのだから大丈夫。

けれども、相手が自分よりも更に練習をしてきていたら?

今にも不安に押しつぶされてしまいそうな自分が嫌で、

海堂は手近にある地面を思いっきり叩きつけた。

この収まらない衝動はどこから来るものなのか。

果たしてこれから試合をする自分は平静のまま戦えるのだろうか。

不安が不安を呼び、このままでは自分は、

コートの中に立っていることさえままならなくなってしまうかもしれない。


情けない、と心の中で叫ぶ自分がいる。

自分は今まで見てきたはずだ。

青学レギュラーがコートの中でどれだけ、強く、そして誰にも負けない精神力を持っていたかを。

コートの上で強い輝きを放ち相手を蹴散らすその姿に憧れ、

どうしてもそうなりたいと強く願ったはずだったのに。



海堂はふと自分の着ているジャージの裾を握り締めた。

背中に背負っている青学レギュラーというジャージを、

今までこんなに重いと感じたことはなかった。

今は、レギュラーという言葉さえ自分を苦しめるものにしかならない。

あんなにも望み、自分を奮い立たせ手に入れたものの先に、

まだ自分が超えなくてはならないものがある。

憧れは近づくほどに遠く、重くなっていく気がするのはどうしてなのだろう。


突然、ピリっと手のひらに走った痛みに、

試合前に手を傷つけるのは論外だときちんと意識の底で理解している海堂は、

その原因を探すためにジャージの裾から手を離して、その手の平を見つめた。


そこには一緒に強く握りこんでしまったファスナーの跡がしっかりと手に刻み込まれていて。


まるでジャージに噛まれたようだと、海堂はふと思った。



突然、ぽんと背中を叩かれる。


それに驚いて海堂は上半身をがばっと上げた。

自分が気づかなかっただけなのだろうが、近くに人の気配は全くしなかったのに。

警戒心を剥き出しにしたまま振り向くと、

そこには同じくレギュラージャージを着た先輩が立っていた。

青いレギュラージャージの色が、突き抜けるように高い空の下によく映える。


「やあ、海堂」


立っている乾を座っている自分が見上げる。

するとだんだんその視線が下がってきて、乾が自分の隣に同じように座ったことに気がつく。

ふわんと、どこかから吹いてきた風に乾のジャージの裾が

海風に揺られる旗のようにはためいた。


「・・何っすか」


乾が着るレギュラージャージはとてもよく彼に似合っていて、

この人が青学レギュラーなのだと改めて思い知らされた。


幾度もこの人がコートの上で戦っているのを見た。

最強青学の名のもとに、乾はその名に負けることなく勝っていた。

それがすごいことだとは思ってはいたが、

自分の身に降りかかってくるときにこんなに大きくのしかかってくるものだとは思わなかった。

何とも自然に、普通にレギュラージャージを着ている乾が何とも羨ましかった。

そしてひどく自分が不釣合いなものを着ているのだと思う。

今の自分はこのジャージを着ていることでさえ、許されるものではないのかもしれない。


「海堂、緊張してる?」


心の中を簡単に見透かされたような言葉に、海堂は押し黙る。

こうして弱い自分を見られるのが一番嫌でたまらない。

自分の中で補いきれない弱さは、他の人に埋めてもらわなければならないからだ。

まだ、素直に自分の弱さを認めるということができない。

そういう意味ではまだ海堂は子供であるのだろう。


「初めての試合だしね。緊張してない訳ないか」


乾は返事をしない海堂に特に何を言うわけでもなく話を続けた。


「海堂は負けることが怖い?」


乾に再び核心をつかれることを言われる。

どうして分かるのか、と乾の方を見ると乾は口の端で小さく笑っていた。


「海堂は何か忘れてるみたいだけど、俺も手塚も不二だって最初の試合があったんだよ。

先輩なんだから当たり前でしょ」


乾はふと遠くを見つめる仕草をした。

もしかしたらそのときのことを思い出しているのかもしれなかった。

まだ自分が乾に出会ってもいない頃の出来事を。


「誰にだって不安はあるさ。それが自分にとって未知の出来事ならなおさらその不安は強い。

もちろん例外はあるけどね」


手塚とか。

そう言って乾が小さく笑ったので海堂も思わず頬を緩めた。


「青学だから負けちゃいけないってことはないんだ。それは誰にも不可能だろう?」


確かに。夏前の大会で青学は全国に行けなかった。

それはどうしてかと問われれば負けたからだとしか言いようがない。

青学が絶対に負けてはいけないならば、負けてしまったという過去をどう説明するのだろう。


「青学がどうして強いのか知ってる?」


海堂はその問いに首を傾げた。

それは。

個人の特性であったり、努力であったり、厳しい練習であったりとか。

強い学校には強い生徒が集まってくるのだと言いそうになって海堂はその言葉を飲み込んだ。

きっと乾はそんな分かりきった答えを望んでいるのではない。

何かもっと海堂にとって必要な答えを引き出そうとしているに違いない。

乾にその答えを促すように、海堂は乾を見上げた。


「それはね、青学が『負け』を知っているからだよ。

自分よりも強い相手がいることをちゃんと認識して、それを超えようと必死で努力するからなんだ。

うちには負けず嫌いな奴が多いでしょ。あれはそういう青学の空気なんだよ」


青学は全国大会の常連校のように各地から引き抜いたエリートばかりを揃えたというチームではない。

けれどもだからこそ青学ならではの強さがあることを海堂は知っていた。


「勝ってもいい。ただ、負けてもおいで。試合に勝ったから勝ちっていうわけじゃないんだ。

ただ決められた数のゲームの中では自分が強かっただけだということだから」


例えば、と海堂は思う。

ダブルスで黄金ペアと呼ばれるあの人たちは強いはずなのに、

決してその手を抜くことはない。

それは彼らのプライドと思っていたのだけれどもしかしたら違うのかもしれない。

彼らは、彼らなりに相手に『負ける』ということを知っていて、

だからこそ相手の強さを見つけてそれに負けないように努力をするのだろう。

見かけの強さだけではない。

内面の強さだとか、ゲーム運びを決めるセンスだとか。

どういうものであれ、自分が持っていなくて相手が持っているものがある。

だから、その差を認識するたびに向上心のある人間はどんどん上を目指していくのだ。


「海堂は試合をすればするほど強くなる。自分でもわかってるでしょ?

海堂は人一倍負けず嫌いだって」


乾が海堂に分からないようにと小さく笑っているのが見えて、

海堂はムッと頬を膨らませて隣にある乾の腕を軽くはたいた。


「・・そうっすね」


今までの緊張はどこへやら、突然にふわっと軽くなった心に海堂は思わず再び下を向いた。

絶対にこの人のような先輩になってやるのだと、

少しでも心によぎったことがなんだか悔しかった。


「海堂、俺試合中ずっと見ててあげるから。安心して試合してきなさい」


まるで子供にするように優しく頭を撫でられて、海堂は少しだけ悔しくてその手を振り払う。


「馬鹿かよ、アンタ。レギュラーはみんなどうせベンチで見てるだろ!」


「じゃあ、俺は海堂のことだけ見てるから」


恥もせず、隣の乾はそう言ってのける。

思わず動揺してしまったのはもちろん海堂のほうで、

口を開いたり閉じたりしながら言うべき言葉を失ってしまった。


頬が熱い。

こんな人に振り回されている自分こそ馬鹿みたいだ。

そんな海堂に乾は眼鏡の奥優しく笑って、すっと海堂の方に手を伸ばす。


「海堂が、頑張れるおまじない」


言葉がやけに近くで聞こえるとおもったら、こめかみのあたりに熱を感じた。


キスされたと気づいたのはその2秒後のこと。


気づいた時にはもう乾は立ち上がっていて、海堂の手の届かないところにいた。



空の下で、輝かんばかりのジャージの青さが海堂の目にやけにいとおしく見えた。



子供扱いされているような乾の態度に悔しくなかったわけじゃないけれども、

乾から貰えた優しさがそれ以上に心を満たしてくれるほど嬉しかったから。


海堂は思わず乾に駆け寄って、その腕を掴んでいた。


「勝てるおまじないっす・・」


微かに唇が触れるか触れないかの位置まで唇を近づけて、そして勢いよく離れた。

面食らったような乾の表情に少しだけ優越感を感じる。


「先輩、俺、勝ちますよ。絶対。負けず嫌いっすから。」






海堂はそう小さく笑ってから、青学ベンチへと走って戻っていった。