「お兄さん」 振り返ると、そこには葉末が立っていた。 手にはいっぱいの白とピンク色の包み紙。 「いちご飴を好きな人にあげると、『キスしてください』って意思表示なんですって」 葉末は、眩しいと思うほど無邪気で綺麗な笑顔で。 笑った。 +ストロベリーキャンディー+ 今日は厄日だ。 そうとしか思えない。 海堂は学校の廊下を教室まで歩きながら、小さくため息をついた。 ふと、制服のポケットへと手を伸ばすと、そこにはカサリと乾いた感触。 小さな包みは確かにその存在を主張している。 海堂はそれの感触を確かめてから、再びため息をついた。 ポケットの中に、滅多に持たないイチゴ飴などを入れているいきさつはこうだ。 朝、海堂家ではよほどのことがない限り、民放の番組を見ることはない。 国営放送のニュースを見て、朝のひとときを過ごす。 しかし、今日は何故か、滅多に見ることがない民法の番組が流れていて。 そしてそれに気づいたものの、海堂はわざわざチャンネルを変えることをしなかった。 それが不幸の始まりと言うべきか。 何気なくテレビ番組をそのままにしておいた。 たまにしか見ることのない番組に、少しだけ興味があったのだ。 朝の身繕いを終え、ふとテレビに目を向けたときだった。 きっと、どこの朝のテレビ番組でもやっているのだろう、占いのコーナーが流れたのだ。 もちろん、海堂は占いなどには興味がない。 大勢の人間をある固定枠に振り分けて、 その中の人間が全員が全員同じ運勢だということは信じることなどできないのだ。 突然に興味を削がれて、海堂がテレビから視線を背けた、その時だった。 『牡牛座の貴方。今日は恋愛運が絶不調〜。愛しい恋人とすれ違いになってしまうことも。 ラッキーアイテムはイチゴのキャンディー。これで運気UP!!』 それを聞いて、海堂は思わず動きを止めてしまった。 海堂は断じて占いを信じているわけではない。 けれども、ふと耳にしたものはいつまでも残ってしまうもので。 朝からひどく元気なアナウンサーの声が、頭の中で繰り返される。 ぐるぐると頭の中を回る声に、海堂は苛々と不快な気分のままで部屋に戻った。 もちろん、テレビを消すことは忘れずに。 部屋に戻り、鞄を取って、上着を着る。 しかし頭の中には先ほどの占いの言葉がこびりついて離れない。 全ての身支度を終えたところで、軽く息を吐く。 目に入ったのは、ガラステーブルの上に置かれた、お菓子ケース。 その中には昨日、葉末から貰ったたくさんのイチゴ飴。 『いちご飴を好きな人にあげると、『キスしてください』って意思表示なんですって』 『今日は恋愛運が絶不調〜。愛しい恋人とすれ違いになってしまうことも』 無視をしてしまえば、気になることでもない、ほんの些細なこと。 けれども、どうしても記憶から消してしまうことなどできずに。 海堂はケースから一つ、飴を取り、上着のポケットの中へと無造作に入れた。 「・・はよ」 教室へとたどり着き、その辺りにいた友人におざなりに声をかける。 しかしクラスメイトたちは海堂のそんな性格を心得ていて、大して気にする様子もなかった。 「どうした、海堂。元気ねぇじゃん」 鞄を机に置き、声をかけてきたクラスメイトを軽く見て、そしてすぐに逸らす。 「・・別に」 「ふぅん」 クラスメイトに話すことができるような話でもなければ、言いたくなるような話でもない。 そのクラスメイトは海堂の答えを聞いて、さっさと離れていってしまった。 しかし、耳に入ってきた会話は、更に海堂を悩ませるような話だった。 『ねぇねぇ、知ってる?』 話していたのは、クラスでも一際目立つ部類に入る女生徒の言葉で。 『えー、何?』 耳に入ってきた言葉を、無意識に追ってしまったのが運の尽き。 『テニス部の乾先輩って知ってる?』 『知ってるよー。眼鏡を外すと超美形って噂の人でしょ?』 『うん、そうそう』 耳に届いた言葉に、海堂はピクリと肩を震わせる。 自分の恋人が、クラスメイトの会話の中に登場しているのだ。 気にならない訳がない。 『でね、その乾先輩が、綺麗な女の人に、『イチゴ飴』貰ってたんだよー!!』 『えー、うそー!!ホントに?乾先輩って付き合ってる人いるって噂じゃん?』 『そうなんだけど、でも私、この目で見ちゃったんだよね。飴を受け取ってるトコ』 『え、じゃあ、その想いを受け止めたって訳??』 『そうなんじゃない?だって嬉しそうに貰ってたし・・』 耳に入ってきた言葉に、海堂の肩は意識をせずに震えていた。 何も知らずにその光景を見た人間ならば、きっとどこか体調が悪いのかと思ったに違いない。 「・・何やってんだ、あのバカ」 思わず口から彼を詰る言葉が出た。 データを好む彼が、葉末ですら知っていることを知らないわけがない。 それなのに、どうして。 思わず握ってしまう拳を見ながら、頭の中には二つの言葉が回っていた。 『いちご飴を好きな人にあげると、『キスしてください』って意思表示なんですって』 『今日は恋愛運が絶不調〜。愛しい恋人とすれ違いになってしまうことも』 ・・今日は、厄日だ。 海堂は呆けたように、授業を過ごした。 いつもならしっかりと聞いている授業も、左耳から右耳へと通過して、 脳に到達することがない。 得意な英語も頭には入らず、黒板に書かれているミミズのような文字をぼんやりと眺めていた。 噂をしていたクラスメイトは、ちゃんと自分の目でその状況を見たという。 まさか彼女が嘘の話題を作って友達に話したとしても、 彼女にとってなんのメリットにもならない。 だから、彼女の言っていることが嘘だとは思えない。 考えれば考えるほど、乾への猜疑心が湧き上がってきて、 海堂は自然と険しい表情を浮かべていた。 まるでどこかの部長のように眉間に皺を深く刻み、視線は前を向いて、動かない。 一体彼は何故。 もしかして、知らなかったのだろうか。 テニスのデータを集めることに熱中していて、有名な噂でさえも耳に届くことがなかったのか。 もしくは。 彼なりに何か考えがあって、イチゴ飴を貰ったのだろうか。 あの先輩のことだ。もしかしたら何か考えがあったのかもしれない。 ・・けれどもどんな? もう少しで唸り声を上げてしまいそうなほど頭の中にはぐるぐると、 乾とイチゴ飴をあげたというその女生徒のイメージが回っている。 「・・堂、海堂!!」 耳元で、しかも大声で自分の名前を呼ばれて、海堂ははっと意識を外の世界へと戻した。 「・・うっせーな。耳元で大きな声出すんじゃねぇよ」 「何度呼んでもお前が気がつかなかったからだろ!」 どうやら、友人は何度も何度も自分を呼んでくれていたらしい。 そんなに自分の思考の中に入り込んでしまっていたということか。 「・・わりぃ」 「お前今日どうしたんだ?授業中もずっと親の敵みたいに黒板を睨んでてさ。 先生もマジびびってたぜ」 そういえば、と海堂はあたりを見回す。 自分は英語の授業を受けていたはずであるのに。 授業はいつの間に終わっていたのだろうか。 「・・授業は?」 「・・・・」 友人は海堂の隣で大げさにため息をついた。 「とっくに終わってるよ。次は音楽。移動。俺の言ってることわかる?大丈夫か?」 馬鹿にするような口調で、友人は海堂の頭をポンと軽く殴る。 そんな行動に海堂はムッと眉を顰めた。 「ふざけんな。言われなくてもそれくらい分かってる。行くぞ」 音楽の教科書を手にして、海堂は勢いよく椅子から立ち上がった。 「・・嘘付け。」 友人はぼそっと何かを呟いたのだが、海堂は一睨みをして、友人を黙らせた。 「はいはい。早くいかねーと遅刻取られるぞ」 友人と、特別教室棟への渡り廊下を歩いていた。 教室を出るのが遅くなってしまったので、少しだけ早足で歩く。 「お前、本当にどうしたんだ?・・思春期の悩み?」 隣で友人が酷く嬉しそうに笑みを浮かべるのだが、海堂はそれを一蹴する。 「ふざけんじゃねぇ。そんな訳ないだろ」 実はそんな訳は大有りなのだが、まさか友人に言うわけにもいかない。 「ふぅん。まあお前のことなんだからどうせテニスのことなんだろ」 友人はそう勝手に納得をして、一人で頷いてみせた。 当たらずしも遠からずといったところだろうか。 乾はテニス部の先輩な訳であるし、関係が全くないということはない。 寧ろ関係は大有りな訳で。 海堂は一つため息をつく。 なんでこんなことで自分は悩まなくてはならないのだろうか。 全て乾が悪いのだと、責任を彼に擦り付けたくなる。 もし乾を好きになどなっていなければこんなことで悩む必要などなかったはずであるのに。 けれども。 海堂はふと思う。 もし自分が乾を好きになっていなかったとしたら、今の自分はない。 そう思うとどこか恐ろしくなった。 乾を知らない自分。 そして海堂のことを気にもかけない乾。 空気のように自然に傍にいてくれる乾が、自分とは違う誰かのもとにいることを想像しただけで 名前のつかない感情が海堂の中を駆け抜ける。 「海堂?」 突然黙りこくってしまった海堂に、友人は更に心配そうに声をかけた。 「・・なんでもねぇってば」 海堂は心を落ち着けるかのように、気づかれないくらいの小さな小さなため息をついた。 海堂は再び思考の海へと落ちないように、意識を歩くことに集中し始めたとき 突然友人が思いっきり海堂の腕を叩いた。 「おい、あれ乾先輩だぜ!」 友の言葉に、海堂は咄嗟に前を向く。 意識的にではなく、無意識のうちに、友から発せられた『乾』という言葉に反応していた。 体に染み付いてしまった自らの行動。 無意識に体が動くたびに、あの人に操られているのではないかと思ってしまう。 それほど、この体は素直だ。 目を向けると、そこにいたのはやはり乾だった。 あの特徴的眼鏡と長身。 他の誰と見間違うことがあるというのだろうか。 「乾先輩ってさー」 友が目元を緩め、さぞ楽しげな口調で告げる。 「今日、クラスの女子たちの間で話題になってたよな。何だか・・」 「うるせえ」 海堂はそれ以上話を続けさせることを嫌い、友人の言葉を遮った。 面白くない。 たとえそれが事実であったとしても、自分の恋人のことを軽軽しく口にされるのは気に障る。 それに。 今は友に構っている暇はない。 「そーだよなー。自分のテニス部の先輩だもんな・・。噂されたら・・っておい!!海堂!?」 友人の驚く声にも耳を傾けず、海堂は渡り廊下を歩く速度を速めた。 一、二歩後ろを歩く形になってしまった友人は慌てて歩調を上げる。 歩いていくうちに、乾が海堂に気づいた。 そして口許に僅かに笑みを浮かべる。 しかし海堂はまるでそれに気がつかないかのように、速度を速めて歩いていく。 もちろん、乾の方は全く見ようとしない。 さらに進んでいき、乾の傍へと近づく。 下を向いているためか、視界に入るのは彼の足元だけだった。 傍を通り過ぎる直前に、乾に声をかけられる。 「やあ、海堂」 目の前で、乾特有の柔らかい声が紡がれる。 いつもなら名前を呼ばれるだけで心が揺れ動く。 しかし、今日は。 かけられた優しい言葉に酷く心がぐらつく。 整理しきれない感情は、心の中で乱雑に動きまわし、そして行き場をなくす。 今すぐ乾を罵って問い詰めてやりたい。 しかしそれはひどく醜いことのように感じられて、海堂はぎゅっと唇を噛んだ。 喚いて、叫んで。 ここで痴話喧嘩を繰り広げることは得策だとは思えない。 大体。 男同士で痴情のもつれだとか、別れ話がこじれたなどと噂が広まったら、 もう二度と学校にはこられなくなるだろう。 海堂は下を向き、見えないようにきつく瞼を閉じる。 そして、何も気づかなかったかのように、早足に乾の横を通り過ぎていく。 顔は上げない。 けれども海堂が通り過ぎた後の乾の苦笑いを浮かべた顔が容易に想像できてしまって。 海堂は気がつかないうちに拳に力を込めていた。 後ろを振り向かずにどんどん歩いていき、どれくらい歩いたか分からないと感じたとき、 突然、友の声が耳に入った。 「・・、海堂」 「・・・・・。・・・なんだ?」 追いついてきた友人を横目で見ると、彼は酷く呆れた顔をしていた。 「教室。通り過ぎてるぞ」 親指で後ろの方向を指差す友人に、初めて自分がどこを歩いていたのか気がついた。 いつの間にか目的の教室の前を通り過ぎ、目の前には廊下の終点を示す壁が迫っている。 そこまで、あと15cm。 「・・・・お前、なんっっかい呼んでも気づかなかったんだからな。 壁にぶつからなかっただけ有り難いと思え!」 心底呆れたような友人から、海堂はばつの悪そうに目を逸らした。 「・・悪い」 素直に謝ると、友は一つため息をつく。 「それに乾先輩のこと無視してよかったのか?先輩、びっくりしたような顔してたぞ」 「・・・・・」 あれでよかったのかどうかは分からない。 ただ、自分は咄嗟にああいう風に行動することしかできなかった。 もし自分が菊丸や桃城のようだったならばもっと上手く振舞えただろうか。 もし自分が手塚や、不二のようだったら、上手く感情を隠せたのだろうか。 ・・改めて、自分の弱さを実感する。 「・・分かんねぇよ」 心は酷く乱れていて、思考がついていかない。 海堂は思わずその場にずるずると座り込んでしまった。 「・・海堂?」 心配そうな友の声も、もうずっと遠くに聞こえる。 もし、彼が。 本当に、とある女生徒の想いを受け止めて、自分を振るのならば、きっと。 こういうところを嫌われたのだろうかと思う。 頭が痛い。 感情が心の中を渦巻いて気持ちが悪い。 吐き気さえする。 考えなくてはいけないことが多すぎて、海堂の中の許容量はもう悲鳴をあげていた。 この醜い感情を全て吐き出せてしまえばどんなに楽だろうか。 「・・・・海堂?」 友は不思議そうに声をかけてくる。 当たり前だ。 こんなところに座り込まれても、困る。 海堂は一度頭を振り、まるで何もなかったかのように、すっと立ち上がる。 「・・悪い。行くぞ」 前に進んでいかなくてはならない。 自分は。 こんなところで立ち止まっている訳にはいかない。 強いならまだしも、弱いなら尚更。 前に進まずに解決できることなどないのだから。 立ち上がった瞬間に、カサリとポケットの中で何かが布に擦れる音がした。 海堂は無意識のうちにそれに触れた。 「・・・イチゴ飴・・か」 「ん?」 『今日は恋愛運が絶不調〜。愛しい恋人とすれ違いになってしまうことも』 『いちご飴を好きな人にあげると、『キスしてください』って意思表示なんですって』 ・・今日は厄日だ。 こんなモンに振り回されて、馬鹿みたいだ。 けれど。 「・・何でもねぇ」 こんな物でも頼ってしまいそうになる自分は、もっと馬鹿だ。 音楽の授業に向かったが、やはりまともに授業を受けられるはずもなく。 教師に何度も不審な視線を向けられながら、楽譜を隠れ蓑にしてそれを遮る。 クラスで歌っているときもそれは常ならば煩いくらいに耳に入ってくるはずであるのに、 どこか遠くで鳴っているやまびこのように海堂の耳には聞こえた。 ぼんやりとした意識のまま廊下を歩く。 しかし人間の体とは不思議なもので。 自分がそう意識はしていなくても、足は勝手に教室の方へと進んでいた。 何度も何度も教室までの道を歩いているから、脳と体が勝手にそれを覚えているのだろう。 2年7組の教室の前まで来ると、海堂は一つため息をつく。 時間はもう昼休みで、教室には半分くらいの生徒しか残っていなかった。 扉を開けて教室へと入る。 自分の席へ向かおうとして、海堂はとある異変に気がついた。 海堂の席の周りに、クラスメイトが集まっているのである。 あまりに不思議な光景に海堂は首を傾げながら自らの席へと早足で向かう。 「何これー」 「えー。海堂くん、すごいね!」 「誰だ誰だ〜、こんなことしたの〜」 クラスメイトが海堂の机を囲みながら好き勝手に話を続けている。 海堂がその輪の中に入ると、一斉にみんなの目が海堂に向けられた。 「・・なんだ、これ」 海堂が自らの机を見て呟いた第一声はこれだった。 机自体には何の変わりもない。 どこの学校にでもあるだろう、机だ。 しかし、その上に置いてあるものが問題であった。 海堂の机いっぱいに溢れんばかりに散らばったイチゴの飴。 机の真ん中にはちょこんと猫の描かれたプラスチックのコップがあり、 その中にもたくさんのイチゴ飴が詰まっている。 海堂は驚いて、その光景に目を瞠る。 けれども頭は何故かはっきりと動いていて。 こんなことをするのはあの人しかいないと。 どこかで確信にも似た思いがあった。 海堂は机の上のコップに手を伸ばした。 その一挙手一投足をクラスメイトたちがじっと見つめている。 コップを掲げて、下から底を覗く。 そこには、ひらがなで「きくまるえいじ」と書かれていて。 ああ、アノ人はわざわざ借りてきたのだろうか、だとか。 もう少し違う何かがあるはずだろう、わざわざ柄を猫にしたのは彼の趣味だろうか、だとか。 様々なことが頭の中を流れた。 そして無性に。 彼がいとおしくなった。 「ねぇねぇ海堂くん。これやった子、すっごく熱烈だね」 クラスメイトの女子が頬を僅かに上気させて海堂に言う。 「・・そんなの」 海堂は鞄を取り出して、一つずつその飴を鞄に仕舞っていく。 コップも丁寧に鞄の中に仕舞い、そうして一応残っているものがないかどうか辺りを見回した。 彼がくれた、イチゴ飴。 一つも他人にやる気は、ない。 「ずっと前から分かってるよ」 そう声に出して、海堂に言葉をかけた女子を一瞥する。 心底驚いたような顔をして海堂を見た。 そんな言葉を返すなど、思わなかったのであろう。 海堂はそのまま教室を出た。 扉を閉めた途端にざわつく教室も、海堂は気にならなかった。 分かってる。 そんなこと。 ずっと前から。 彼が前から、海堂のことを誰よりも愛してくれていたこと。 ずっと前から自分は知ってる。 海堂はふとポケットの中に手を入れた。 そこには、たった一つ。 家から持ってきたイチゴ飴。 かさりという包み紙の感触に、そういえば朝、アナウンサーはそんなことも言っていたかと。 ふと思い出した。 『ラッキーアイテムはイチゴのキャンディー。これで運気UP!!』 海堂は内心で苦笑いを零しながら、彼のもとへと足を向けた。 古ぼけた階段を上へとのぼっていく。 コンクリートが剥き出しの階段は、普段使われることはなく。 特に修理もされないまま、そこに放置してあるようであった。 日の当たらない階段の空気はひんやりと冷たく。 今にも高揚してしまいそうな海堂の心を抑えつけてくれていた。 彼がここにいるという自信があるわけではない。 ただ、そういう予感がした。 屋上へと続くドアへと手をかける。 手のひらに触れたドアノブが、冷やされたそれの温度を直に伝える。 立ち入り禁止の屋上へ続くドアの鍵は実は壊れているのだと、 教えてくれたのは、データを収集することをこよなく好む彼だった。 ドアは酷く重い音をたてて開かれる。 その先には突き抜けるような青い空。 ふわりとどこまでも飛んでいけそうな初夏の風に海堂は僅かに瞼を閉じた。 辺りを見回して、目的の人の姿を探す。 長身である彼の姿は見える範囲には見当たらない。 どこか陰にいるかもしれないと、海堂はそちらへ踏み出していこうとした。 その時。 後ろから抱き締められる感触に海堂は瞬間息を止めた。 どうしてこう彼は、人の想像のつかないことをするのだろうか。 気配を消して人に近づくなど、ひどく趣味が悪い。 「だーれだ」 新しい遊びを見つけたかのように楽しそうな乾の声に、海堂は僅かにため息をつく。 「・・馬鹿なことしないでください」 乾を詰りつつ、けれども乾の腕に抱き締められているという事実に、海堂は安心感を覚えていた。 後ろからきつく抱き締めてくる腕が嬉しくて、 海堂はそれをたとえ冗談でも邪険にすることができなかった。 中2男子としては大きい方である自分の身体を、乾は易々と抱き締めることができる。 それを不満に思うこともあるのだが、 この腕の中にいることに安心してしまっている自分がいる。 きっと温かく守られるようなこの腕の中にいつまでもいることはよくないことなのだと 自分でもわかってはいる。 しかし、いつか将来にこの腕から放れて行かなくてはいけない時が来るのならば、 今だけでいい。 この場所にいさせてほしいと強く願う。 「馬鹿?ひどいなぁ。俺、頭はいい方なんだけど?」 耳に直接響く声に海堂の心が僅かに跳ねる。 いつもよりもきつく抱き締められて、強く感じる乾の熱に、 顔へと熱が上がっていくのが分かった。 「・・天才と馬鹿は紙一重。」 小さく呟いた海堂の言葉に、乾が微かに笑う。 それさえも酷く海堂の心を揺れ動かして、 今にも乾に自分の血液が流れる音が聞かれてしまうのではないかと、懸念してしまう。 「そういえば・・あれ、見た?」 何を、と乾は明確に口にしないのだが、簡単に想像はつく。 あの、机の上に散らばった、溢れんばかりのイチゴ飴。 「・・見たからここに来たんだろ」 そう、答えれると乾は更に強く海堂を抱き締めてきた。 後ろから覆い被さるように抱き締めてくる熱に、海堂はそっと瞼を閉じる。 こうして強く。 まるで独占欲を丸出しにしているかのような抱き締められ方をされて。 もしかしたら。 彼も、 不安だったのかもしれない。 そう思うと、締め付けられるような想いでいっぱいになる。 いとおしくて、いとおしくて。 涙がでそうになる。 抱き締めてくる腕を、その存在を確かめるように触れる。 その時に、カサリと、上着のポケットに入れていた飴が、 その存在を主張するかのように鳴った。 海堂はそっとポケットの中からイチゴ飴を取り出し、そして口に含んだ。 舌でそれに触れれば、口の中に甘いイチゴの味がじわりと広がる。 「乾先輩」 海堂を抱き締めている腕を解くように乾を促す。 そして海堂は体勢を入れ替えて、乾と向かいあう。 少しだけ背伸びをするようにして、乾の唇に自分の唇を重ね合わせた。 そうして、乾の唇を開くよう促して、開いた唇の奥に、舐めていたイチゴ飴を、送り込んだ。 海堂はそれを終えるとすぐに唇を離す。 視線を上げると、僅かに驚いたような乾の表情があって。 海堂は満足げに僅かに口許を緩めた。 「ソレ、あげます」 海堂の言葉に、乾は眼鏡の奥で酷く楽しそうに笑う。 「知ってるの、海堂?それは・・」 ・・。知ってるも何も。 『いちご飴を好きな人にあげると、『キスしてください』って意思表示なんですって』 葉末の言葉が頭に浮かぶ。 今日、何度、弟の言葉を思い出したことだろうか。 乾の手が頬に海堂の頬に触れる。 輪郭を柔らかくなぞって、その手は唇にまで降りてくる。 腰を引き寄せられて、乾に強く抱き締められる。 近づいてくる乾の唇に、海堂は目を閉じる前に、乾の顔にある邪魔な眼鏡を取り上げた。 触れる、熱。 自分の全てを取り込まれてしまいそうなほど、強い熱が海堂を襲う。 「ねぇ知ってる?」 心底楽しそうな乾の声にに、海堂は僅かに目を開けてその表情をうかがう。 「その噂、葉末くんに教えたの誰だと思う?」 思いがけない言葉に、海堂は僅かに眉をしかめた。 「それと。その噂。誰が流したか知ってる?」 耳に直接流れ込む声に、海堂は再びうっとりと目を閉じる。 「君のためならなんでもするよ?」 ああ。 なんだ。 全て。 アンタの手の中で。 葉末に変な噂を吹き込んで、イチゴ飴を渡して。 わざと人前でイチゴ飴を受け取ったりもして。 馬鹿だなと言って笑ってやることもできる。 けれども余りに甘美な誘惑で。 アナタに操られるような感覚に眩暈さえする。 囁かれる声に優越感を感じずにはいられない。 口の中にはただ、ひどく甘い、けれども幸せなイチゴの味だけが広がっていた。 |
反転すると、何かが。