+昼下がりの想い 気がつくと見慣れない天井が目の前にあった。 ぼんやりとした頭でそれを認識しながら、ゆっくりと瞬きを繰り返す。 全身がだるく、腕一本でさえ動かすのが億劫だ。 思うままにならない自分の体を叱咤しながら動かし、神はようやく手を目元まで持ってくることができた。 額に手をあてると、そこにはよく冷やされたタオルが乗せられている。 神は一つ息を吐いた。 まだ頭がうまく回らない。 瞼が重く、このまま気を緩めればすぐにでも眠ってしまいそうな気がした。 情けない。 想いだけでは成し遂げられないこともあるのだと正面から現実を直視させられた。 見ようとしていなかった現実は、ひどく真っ直ぐに神の心に突き刺さる。 白いシーツに白い布団。天井までも白くてどこか現実感がなかった。 いっそ何も見えなえればよかったのに。 ぼんやりとしたどこか霞の中にいるかのような感覚に飲み込まれて。 自分という存在が見えなくなってしまうくらい、何も見えなくなればよかったのに。 神は額に乗せていた手を少しだけ動かし、瞼を覆うようにゆっくりと触れた。 冷やされた手が心地よい。 火照った瞼を冷やしてくれる。 神はほっと息をついた。 その手は、今にも溢れてきそうな熱い雫を冷まそうとするのに丁度よかったから。 溢れ出してきそうな思いを抑えるのは思いのほか強い心を必要とした。 次第に収まってくる瞼の奥の熱に少しだけ胸を撫で下ろしながら、 神はそのまま意識を手放そうと全身の力を抜いた。 ・・もう、何も考えたくなかった。 □ ■ □ ■ 神はふと目を覚ました。 さきほどまでの体のだるさはなく、瞼は軽く、楽に目を覚ますことができた。 2、3回瞬きをして、神はそっと窓の外を見つめる。 いつの間にか日は傾き、空は夕暮れの色を映し出していた。 どれくらい眠ってしまっていたのだろう。 ずいぶんと長いこと眠っていたのは間違いない。 神は戻ってきた思考にふと眉をしかめた。 昼の部活中、リバウンドの練習をしているときに他の部員に力負けをし、 空中でバランスを崩し、そのまま倒れこんでしまった。 運悪く頭を少し打って、保健室へと部員に支えられてやってきたのだ。 そして今に至る。 情けない。そんな想いが神の心を占めていた。 不甲斐ない自分への想いと、どうしても叶えられないはがゆい想いがひどく心を揺さぶる。 頭を打った痛みではない何かが神の心を苦しめて離さない。 きっと長いこと眠ってしまっていたのは考えたくなかったからだ。 センターに向いていないのかもしれないとか、 このままずっと試合には出られないまま3年間が終わってしまうとか、 色々なことが頭をよぎったけれども、そういうことはどうでもよかった。 ただ――― あの人と。 あの人と同じコートに立って試合をすることができないかもしれないと思うことが何よりも苦しかった。 初めて彼を見たとき、なんて強い光を持っている人なんだろうと思った。 どんな敵の攻撃にも怯まず、果敢に攻撃を仕掛けていく余裕さえ見せ。 帝王の名をそのままに、いつも彼は悠然と佇んでいた。 その中に弛むことない激しさを有しながら。 神は彼を見たとき、一目で海南の強さはこの人がいるからなのだと理解した。 常勝の海南に相応しく、隙を見せず、決して甘えを許したりはしない。 いつのまにか彼は、神の心の中の大部分を占めるようになっていた。 あの人と同じコートに立てたら。あの人と勝利の喜びを味わえたらどんなにいいだろう。 ベンチに座り、勝利に喜ぶ彼を見ながら神は心からそう願った。 でも。それも叶わないかもしれない。 どんなに辛くても練習量の多い海南の練習に耐えてきた。 いつしか彼と同じコートに立てることを信じて、不満など言わず練習に打ち込んだ。 部活の後も進んで居残りをし、自主的に練習をすることも多かった。 海南は全国大会常連校で、スタメンになるには人以上の努力をし、 並み居る強豪を押しのける必要があるのだ。 あの人と同じコートの立てるなら。だだそれだけが願いだった。 神は強く握り締めたこぶしを軽く額にあてた。 今すぐにでも泣き出してしまいそうな自分を叱咤するために。 まだ同じコートに立てないと決まったわけではないのだ。 懸命に練習をしてあの人のようにうまくなればきっと同じコートに立つことができる。 そう思っても、どうして溢れきそうな涙は収まらないのだろう・・。 理性ではそう納得しても感情がついていかない。 海南のあの強いメンバーの中で、自分がこのままメンバーになれない可能性は大きい。 やっとメンバーになれたと思っても彼が引退してしまったあとでは遅いのだ。 早く、力が欲しい。 彼と同じコートに立てるだけの技術と、体力が。 もどかしい自分に心がかき乱されそうになる。 苦しくていっそのことこんな感情など欲しくなかったと思うほどに。 抑えることのできない、この想いは何なのか。 心に焼き付いて離れない、憧れとは違うこの想いは一体何なのだろう。 神はそっと目を瞑った。 今、体育館では部活が行われているはずだ。 神などいなくても何事もなかったかのように部活は円滑に進んでいるに違いない。 それが常勝海南の練習だ。 保健室に横たわる神には、もちろん体育館に響くボールの音など聞こえない。 それが今の神には救いでもあった。 もし、軽快に響くボールの音や、威勢のいい掛け声を聞けば、ここにいるのが耐えられなかっただろう。 神はゆっくりと上体を起こす。 今日は部活に出ることは無理だろう。 早く帰って、また明日から頑張って練習に出ればいいのだ。 神がそう思ったとき、今まで人気のなかった保健室のドアが突然静かな音をたてて開いた。 保健室の先生が戻ってきたのかと思った。 迷惑をかけてしまったことを詫びるのに丁度いい。 神がそう思ってドアの方向を向いたとき、そこにいた思いがけない人物に目を丸くした。 「・・牧さん・・」 「よお」 何故牧がいるのか。 今は練習中のはずで、たいしてうまくもないたった一人の後輩のために、 牧がここに来るなど考えられなかった。 Tシャツと短パンのまま、汗をふくためのタオルを肩からかけているという、 部活中そのままの格好で牧は現れた。 「・・どうして・・」 余りの驚きでたった一言口にするだけでひどく体が疲れるような気がした。 「さあな」 牧は曖昧な表情でただ笑うだけだった。 笑う顔は部活中のそれと違い、どこか幼さを残していた。 そんな牧に神は驚きを隠せなかった。 あの強い光を持った牧が、こんな表情をするのだと全然知らなかったのだ。 牧は近くにあった椅子を引っ張ってきて、神の寝ているベッドの近くに置き、それに腰を下ろす。 「怪我は大丈夫か?」 牧の手が神の頭に触れようと伸びてくる。 あまりにためらいのないそれに、神は思わず逃げるようにしてその腕から体を遠ざけた。 神に触れる直前で牧の手がぴたっと止まる。 所在なさげなその手は少しためらったあと、牧の膝の上へと戻された。 「そっか、お前頭打ったんだよな。触られたら痛いか」 牧がすまなかったという風に笑顔を見せる。 触れられると痛いと思ったわけではない。 ただ、牧に触れられるという心の準備ができていなかったのだ。 ためらいもなく近づいてくる腕に、心がこれ以上ないほど高鳴った。 どうしようと思う前に、体は反射的にその腕から逃れようとしていた。 触れられるのが怖かった。 あのまま牧に触れられていれば、牧に聞こえてしまうくらい鼓動が大きくなっていたに違いない。 まさか牧に本当のことを言う訳にはいかず、神は曖昧に微笑んでみせた。 「ええ・・すみません」 神が笑うと牧も安心したようで、ふっと肩から力を抜いた。 「本当にすみません、心配をかけて・・」 「いや、なんともなくてよかった」 「・・部活は出られないんで、もう帰ろうと思ってたんです」 自分で発した言葉に、神は棘でも刺さったかのようにちくんと胸が痛んだ。 この人の前で、部活に出ないで帰るということは逃げているようで嫌だった。 もちろん、今日怪我をした人間が無理を押して部活に参加したとしても、それは迷惑なだけだろうけれど。 明日からまた頑張ればいい。 分かってはいるが、目の前のこの人を見ていると、自分がはがゆくてたまらなくなる。 また、自分はこの人からどんどん遠くなっていくのだろう。 どんどん遠くなって、いつかはどんなに手を伸ばしても決して手の届かない人になってしまうかもしれない。 そんな将来が容易に想像できて、神の胸の奥が深く疼く。 痛い。それなのに牧は自分が諦めることも許されないほど強く神を惹きつけてやまない。 どんなに苦しくても辛くても、それでも想いを捨てられなかったのは彼の強い存在があったからだ。 神は自分でも気づかぬうちに牧の視線から逃れるように俯いていた。 牧の前で弱さなど、必要ないものなのに。 「おい、本当に大丈夫か?」 肩に優しく手を置かれた。それを認識した途端、体がひどく震えるのが分かった。 けれども牧は手を離さなかった。 ゆっくりと顔をあげた神の瞳を真っ直ぐにのぞきこんで、揺るぎない瞳が正面から神の心を鷲掴んだ。 かたかたと震える体を抑えることができない。 牧を怯えているかのように見える神の様子に、牧は何を思っているのだろう。 不意に、牧の手が神の背中に回り、強く抱きしめられた。 思ってもみなかった牧の行動に、体を震わせたまま息を詰まらせた。 心も体も縛られたように動けなくなる。 命は全て牧の手の中にあるような錯覚を覚えて、 生きるか死ぬかの判決を待っている罪人のように高い感情の波が押し寄せてくる。 「大丈夫だ」 牧の声が優しく耳元で響く。 それを聞いて、ほっと口から安堵の息が漏れる。 力の抜けた体は牧に縋るように委ねられている。 牧の手がそっと神の背中をあやすように撫でると、 絶えず震えていた体が、すっと波がひくように元に戻っていった。 自分の呼吸を取り戻して、頭を甘えるように牧の肩に寄りかからせる。 「・・お前は・・どうしてだかほっとけない」 突然の牧の言葉に、神の体はまた強張る。 しかし牧が優しく背中を摩ってくれると、その強張りは不思議なほど自然に解けていった。 「俺がここに来た理由だ。お前は目の届く範囲にいないと不安でしょうがない」 牧の言葉に咄嗟に何も返すことができなかった。 何か大切なことを言われているはずなのに、頭の中に入ってこない。 心が暖かいもので満たされて、機能が止まってしまったかのように。 掠れそうな声で言うことができたのは、たったこれだけだった。 「・・俺、そんなに牧さんに迷惑かけてますか?」 きっと的外れなことを言ったのだろう。 牧は苦笑いといった風に小さく笑った。 「そうだな。迷惑かけてるっていえばかけてるな。 ・・俺から目を離せなくさせてるだろ」 信じられないくらい心臓が早鐘を打っているのが分かる。 抱きしめられているのだからもちろん牧にもそれは伝わっているのだろう。 牧が何を言っているのか分からなかった。 どうしてそれを神に言ってくれているのかも分からなかった。 今にも逃げ出したいくらいの動悸に襲われながら、それでも牧の腕を放すことなどできない。 想いに潰されてしまいそうだ。 不意に牧の手が神の髪に触れる。 「お前は自分で思ってるより強いやつだ。 お前以上に強い奴なんていないくらいにな。 ・・だから自信を持て」 牧の言葉が優しく神の心に響く。 「海南には天才なんていない。だけど、うちが一番だ。努力してる奴が勝つんだ。 俺はお前が誰よりも努力しているのを知ってる。 だからもっと自信を持て。前を見ろ・・」 ゆっくりと一言ずつ語られる言葉は、柔らかい羽のように神の心の中に積もっていく。 「早く俺のところに来い。お前が来るのを待っているんだ・・」 傍に行くことを肯定してくれるのだろうか。 自分は牧と同じコートに立つことができるとそう言ってくれているのだろうか。 きっと今の牧の瞳にも揺るぐことのない強い光が灯っているのだろう。 牧はありもしないことを軽々と口にするような人物ではないから。 神は言われた通りに顔をあげ、前を向いてみた。 そこにはやはり瞳に強い光を湛えたままの牧がいる。 「・・牧さん・・俺・・」 ゆっくりと牧の唇が近づいてくる。 神はためらうことなくゆっくりと瞼を閉じて、その感触を待った。 どこか強引な、触れるだけのキス。 でもそれが牧らしいと神は思う。 「俺、・・絶対に牧さんと同じコートに立ってみせます」 「ああ、お前ならできるよ」 頬に触れられて、目を閉じるとそこにはもう見失うことのない強い光があった。 「絶対にな」 想いは強く。 たとえ目の前に困難な道があったとしても。 |