確かにそこに在ったはずの自分の場所が一瞬にして無くなってしまったことを感じたとき。

ただ自分は窓の外の青空を見上げ、嗤った。





+残照





嵐のようだった昨日の事件は、安西先生の登場というあっけない幕切れで終わった。

ただ自分たちと同じようにバスケを愛し、自由にバスケをすることができる自分たちに

嫉妬の念を覚えた昔の湘北のエースが起こした事件だった。

またバスケがしたいのだと切実に訴えたその湘北のエースは、

三年生にしてこのバスケ部に戻ってくることになった。


そのことに流川は何の感慨も覚えなかった。

自分はただバスケができればいい、そんな思いしかないのだから、

部員が変わろうが自分には何も関係がない。

ただ。

一つだけ、ほんの一つだけ気になることがあった。

誰にも優しい笑顔を向ける木暮が、三井の前でだけ、本当に綺麗に笑うのだ。

三井と木暮は昔チームメートだったという。

今三年生の代は二人しかいない。

だからこそ、増えた同級生が嬉しかったのだろうと、流川は頭の隅で考える。

しかし木暮の本当に綺麗な笑顔を見ながら、心の中に酷く醜い感情が浮かび上がってくる。

他の人間に向けられる好意が、酷く不快だ。

木暮はただ自分だけに笑いかけてくれればいいのだ、と理不尽な思いすら心をよぎる。

煮え切らない思いを抱えながら、流川は今日の練習に臨んだ。


もちろん練習中は思い切りバスケに勤しむ。

しかし湘北に入ってからその流川の行動に少しだけ変化が現れた。

バスケの他には何も映らなかった流川の視界に、無意識に入ってくる人間がいた。

何故なのか流川にも理解ができず、バスケに飽きてしまったのかと思えばそうではない。

彼のことが――木暮が気になって仕方が無いのだと気づいたのは、

自分の不可解な行動に気づいてからあまり時間も経たないうちだった。


木暮は自分より二つも年上の割りに、ひどく危なっかしい。

どうしてこの屈強で気の強い人間ばかりいるバスケ部にいるのか不思議なくらいだ。

木暮はバスケ部の中でも体の小さな方なので、よく倒される。

力負けをしてコート上に倒されることも少なくはないのだ。

だからこそ、気になる。

目が離せない。

木暮が倒されるたびに何処か打ってはいないかと心配になるし、

そういう競技だということは知っているが、

けれど木暮を倒した人間に不快感を覚えることもしばしばだ。

今まで同じチームメートにそんな感情を覚えたことは他に無く、

木暮のことが気になるけれどもどうしてそれほど気になるのかの答えはでない。

だから、意味の分からない、けれどもバスケと同じくらい心を浮かせてくれる感情に戸惑いながらも、

今日も流川は木暮を目で追ってしまうのだった。


本日の練習はディフェンス中心のメニューだった。

ディフェンスというものはもちろん木暮には向いていない練習なので、

流川も思わず彼に視線が向きがちになる。

もちろん一番目で追っているのはボールとゴールであるのだが、

その次くらいに視界に入っているのが木暮だ。


このままではいけない、と心が何処か警鐘を鳴らしながらも、抜け出せなかった。

ボールとゴールと、そして相手と、木暮を。

目の内に留めておきたいという思いを止めることはできなかった。


練習メニューがマンツーマンのディフェンスに変わった時だった。

二年生の潮崎と練習をしていた木暮が、力に押されて強くコートに叩き付けられた。

その音は体育館の中に響きわたるほどのもので、倒れ方の凄さを思い知らされる。

あまりの衝撃に倒れた木暮は動かない。

倒してしまった潮崎は倒れる木暮を見ながら呆然とするばかり。


それを誰よりも早く見つけた流川は。

他のどの部員よりも早く、木暮の元に駆け寄った。



はずだった。



「木暮!」



体育館に響き渡ったのは、流川の声ではなく、今日入ったばかりの人物の声。

一番早く木暮のもとに駆け寄っているはずだった流川の前に、三井の影が横切る。

倒れる木暮に駆け寄って、その体を抱き起こす。


「大丈夫か?」


三井が口にした言葉は流川が木暮に発すべき言葉だったはずで。


「・・三井。

 大丈夫だよ、有難う。

 俺はこんなことしょっちゅうだから、あんまり気にしないで・・」


向けられる優しい、優しい笑顔は流川に向けられるべきはずのものだった。

伸ばせなかった手を、差し出せなかった手を呆然と見つめながら、

流川は無くなった自分の居場所にただ、心の中で嗤うことしかできなかった。


その場所は、自分のものだったはずなのに。

一体、どうして。

こんなことになってしまったのか。


今まで木暮を起こす役目は自分のものであったのに。

そんなものは一瞬にしてなくなってしまうようなものであったのだと。

まるで儚い夢に似たそれに、流川自身が随分と心の比重を置いていたことに初めて気づく。


確かに存在したもの、けれど一瞬の間に無くなってしまったものはどんなに大事だったか。


三井は木暮をコートに連れ出して、そうして座らせた。

昨日はあれほど暴れていた三井が、まるで別人のようだった。

マネージャーの綾子も寄ってきては木暮の心配をする。

けれど木暮は三井の方を見ていたし、三井も綾子よりも心配した表情を見せていた。


木暮に手を差し伸べる早さが愛と比例するなどとは思わない。

けれど、幸せそうな二人を見ていると、

これから先も流川は三井に負け続けるだろうことが予想できた。



今まで流川が手を伸ばしても、あれほど綺麗な笑顔を向けてもらったことはなかった。



虚無感と、喪失感が胸のうちを走る。

自分だけのものにしたかったのに。

ただそんな思いだけが虚しく心を流れた。




流川は伸ばせなかった手を、そして無くしてしまった居場所を思って。

ただ窓の外の青空を見上げ、嗤った。