+蜻蛉+




月があまりにも綺麗だったから、窓から外へと飛び出してみた。
新一の部屋から、窓の傍に生えている木の枝の上を渡り、そこに腰を下ろす。
窓へと続く枝が、まるで新一を誘う橋のように思えたのだ。



続く建物の波と、光の洪水。
街の中に住んでいて、それを見えなくするのは難しいだろうけど。
たとえ全ての光を隠さなくても、月はまがうことなく輝き続ける。



昼の、あまりにもまばゆい光の中では姿を見せない虫たち。
彼らは夜の闇の中で初めて光を求める。
臆病なのではない。
強い光を彼らは好まず、より神秘的な美しい光を求めて彷徨うのだ。



街灯を虫たちはまるで、月であるかのように求め続ける。
それは月ではないのに。
夜の闇の中に輝くそれは、簡単に手の届くところにないから。
月を求める虫たちは、耐え切れなくなって近くにある光に群がるのだ。



新一は頭上で輝き続ける月を見上げた。



月は寂しいのかもしれない。

あんなにも泣きそうにおぼろげに輝くのは、きっと寂しいからなのだ。



遠くでたった一人で光を発することは、どれだけ苦しいことだろう。

誰にも触れられず、ただ遠くから地球の闇を見続けながら。

ただ静かに。



姿を変えて、表情を変えても、その寂しさは埋まることはない。

掴み所がないように見せながら、実はその中に隠しようのない寂しさを抱えている。



寂しい、月。



地球の中のほんのちっぽけな虫が、遠くの遠くの月を求めて夜空を目指したら、あなたの寂しさは埋まるのでしょうか?


あんなにも近くに見える光を、たどり着けないものと知らないで、懸命に空に向かって飛び立つ虫をあなたは笑うでしょうか?





新一は、涙を流す術も知らない愛すべき月にそっと手を伸ばした。

届きそうで届かない距離。


寂しいくせにその感情を隠してしまうところとか、表情を変えてその寂しさを隠すところとか。
あのうるさいくらいにまとわりついてくる人物と同じだ。



新一はふと口もとに小さく笑みを浮かべた。


でも。

あいつならきっと、手を伸ばせば嬉しそうに握り返してくれる。

あいつならきっと、追いかければ、馬鹿だねと言いながらしっかりとその腕の中に抱きしめてくれる。


新一は独りで輝く月を目に映しながら、ゆっくりと瞼を閉じた。



俺は哀れな虫のように、遠くの月までお前を追いかけることはできないけど。

ここで待ってるから。

ずっとお前を。

お前が疲れてここに帰ってきても、笑って『お帰り』と言えるように。

気兼ねすることなくここに『ただいま』と帰ってこられるように。

ここで静かに待っているから。

お前が安らげる場所を、作ってあげられたらいいと思う。

独りは寂しいから。誰よりも分かっていると自負しているから。

誰よりも大切なお前が傷つかないように。

自分なりの方法でお前を求めていると表す。



独りで夜の空に浮かぶ月は、何を思っているのだろう。



木の葉がさらさらと新一の耳元で揺れる。
頬を掠めていく夏の風が人恋しさを誘う。
夜の闇とともに次第に消えていく都会の喧騒や活気溢れる生活感。

目を閉じていても色々なことが分かるのだと、新一は改めて気づかされた。

そこに一陣の風が新一の周りを取り囲む。
目を開かなくてもそこに誰がいるのか分かる。
それほど、優しくて柔らかい風。


「・・こんなところに寝ていたら危ないですよ、名探偵」


声をかけられて、新一はやっと目を開く。


真っ白に輝くその姿は、どこか穢れてしまえば脆くも崩れ去ってしまうような危うさを秘めていた。
気がついていないかもしれない。
けれど、きっとあの月は穢れを知らない。


そう思った次の瞬間、新一の体は抱きかかえられて宙を浮いていた。
背中にあたる柔らかい感触と、ふわりとした香りが新一を包む。
新一の体は部屋のベッドへと下ろされていた。

今度は意識的に瞼を閉じる。
2秒後、唇へ降ってきた暖かい感触とともに、再び目を開けた。


「お帰り、快斗」


さっきまでまとっていた光のような白を脱ぎ捨て、目の前の人物はにっこりと微笑んだ。


「ただいま、新一v」


そんな快斗に元気よく抱きしめられて、新一もつられるように笑ってしまう。


「今日は遅かったじゃないか・・」


心配するような声色の新一に、快斗は嬉しそうに答える。


「心配してくれるの、新一?嬉しいなあv何にもないよ。今日はちょっと遊んじゃっただけ」


快斗の答えに、新一は心の中でほっと息をつく。


「心配なんかしてねーよ」


「はいはい。新一くんはいつも快斗くんのことを心配してます、と」


笑って受け流されて、新一は呆れるように窓の外に視線を向けた。
そんな新一の髪を、快斗は優しく撫でてくれる。



心の中で思っていることとは裏腹に、いつも悪態をついてしまうのは新一の悪い癖だ。


本当に言いたいことを言うことができない。
こんな自分を損な性格だと思ったことも幾度かある。
もう少し、素直に言葉を紡ぐことができたなら。
快斗にこの思いを伝えることができるのに。

心とは反対のことを言ってしまう新一を、いつも勘のいい快斗が敏感に察知してくれる。

だから今日くらいは、ちょっとだけでも素直になれたらいいと。

そう思った。


「そういえば、何で新一はあんなところにいたの?俺、びっくりしちゃった」


不思議そうな快斗の問いに、新一は窓の外の月を見つめたまま、心を決めるかのようにひとつ息を吐いた。


そして、目の前の真っ白で、寂しがりやの彼に真っ直ぐに手を伸ばす。
近くにいる、触れられる位置にいる彼に喜びを覚えながら。





「・・俺、いつも待ってることしかできないから・・


 木の上の方がお前が帰ってくるのが早く見つけられるような気がして・・・」





消え入るような声でつぶやいたそれはしっかりと快斗の耳に届いたようだ。
新一の言葉に驚いたように目を見開いて、そして柔らかく微笑んだ。




「・・・やだなあ・・。最近俺、仕事の間でも新一のことばっかり頭の中にあるんだ・・。

 ・・それなのに俺の心のなかをもっと新一でいっぱいにしないでよ・・」




快斗が苦しいくらい強く、新一の体を抱きしめる。

囁く声はどこか震えているような気がした。












独りだったから、恐れているのは、きっと別れ。

深入りしてしまったら、もう戻ることはできない。

もし離れてしまうことがあったら?

再び襲う孤独な夜に、寂しい月は耐えることができずに。

そのまま輝きを失ってしまうのだろう。







独りで空に浮かぶ月。

やっぱり君は寂しかったんだね。

手を伸ばして、触れる体は冷たく。

まるで心の中の熱を隠すように。




腕の中の寂しい月と、焦がれるように求める虫。

ただ与えられる熱だけが、いとおしいほどに暖かかった。