遠くに見えるは赤灯。

それは彼を追い詰めるはずの禍々しい光。
けれども彼はそれをものともせず。
追いかけられることでさえ思考を変えて、楽しむべきことと意識をすり返る。


彼の意識はどこかで欠落しているのかもしれない。
ただ一つの大切なものを守るために。





+夜空に咲く赤+





街の中にそびえ立つビルの屋上は風が強く。
生き物の匂いがしない無機質のそれはひどく心地が悪かった。
髪を揺らす風を鬱陶しく感じながら、重く音を立てて動くドアを閉める。
バタンと強い音を立てたことに、更に眉を顰めながら、屋上の、今にも飛び降りてしまいそうな程ぎりぎりの境目に立っている人物を見上げる。

月の光に照らされている彼はまるで存在自体が神々しく、神に魅入られた人間であるかのような錯覚を起こす。

けれどもそれは錯覚であるのだろうと心の奥底が訴えるのだ。



彼は作れるのだから。


その空気も、表情も、自分を彩る色彩でさえも。


では、彼を作るどれが本物だというのだろう。
彼という存在の素となっているものは一体何なのであろうか。
それを調べることはきっといい研究になるに違いない。

フェンスを一つ隔てた向こうに立つ快斗は、ビルの向こうで輝く赤い光をずっと眺めていた。
何にも心を動かすことなく、ただ規則的に動く赤い光だけを熱心に見つめている。

哀は知っていた。あの光の場所に誰がいるのかを。
そして、赤い光を通して快斗が一体誰を見ているのかも。

不器用だと思う。
こういう行動でしか自分というものを表すことができない彼を。

哀は強い風のせいでいつもより早く流れる夜空の雲を見ながら、一つため息をついた。

この場所に来たのは偶然。
博士に連れられてやってきたとある友人の部屋から見えた、目立つことのない寂れた灰色のビル。
その屋上に佇む一人の人物を見たとき、哀は近くで重大な事件があったことを知った。
近くは騒然とし、博士と現場を見にいくとそこにはあの名探偵が呼ばれていた。

回る赤い光と、現場にぐるっと張り巡らされた黄色のロープ。

何があったのかと我先に現場近くに寄ろうとする住民たち。

その騒動を必死で押さえる、青い制服を着た警官たち。

流れる血、命はないと見える被害者。


そして。


真実を見据えるあの青い瞳。


それを見たとき、博士が心配するのを承知で、ビルの上で一人静かに佇むあの人物のもとへ行こうと決めた。


雨風に晒され、塗装の剥げかけた屋上を2、3歩歩く。
けれども快斗はこちらを向くことなく、ただ愛する人のいる場所だけを眺めている。
その横顔はひどくいとおしげで、これ以上ない至福を味わっているようにも見えた。
けれどもそれは快斗のほんの一部分でしかなく、
普段見せる無邪気な『黒羽快斗』の姿を思い返すとその姿は痛々しくも思えた。

吹き付ける風は冷たく、哀は薄着で来た自分を少しだけ後悔する。

まあ、でも。
風邪でもひいたら後で治療費くらいは貰ってもかまわないだろうと考えて、思わず帰りそうになる自分の心を押し留めた。

哀は更に歩いて快斗の近くにまで寄る。
それでも快斗はこちらを気にすることなくただ一心に赤い光を見つめていた。
フェンスの傍まで寄って、体を冷たい金属に寄りかからせた。
すぐ向こうには快斗の姿があるが、哀がそこまで行く義理はない。
一人で落ちて自殺だと喚かれたのではただの笑い話になってしまう。
フェンスに体を寄りかからせて、哀は話し掛けるでもなくただ一人空に浮かぶ月を眺めた。

雲は月の傍を通り過ぎるがその姿を隠すことはなく、雲の方がその光の強さに身を引いているようにも思えた。
今日はよく月が見える。
孤独に夜の空に浮かび、人々の畏怖の象徴にもなり、美の的にもなった月は。
まるで快斗のようだといつか思ったことがあった。


どれくらい時が過ぎたのであろうか。
ふと、快斗が口を開いた。

「・・ここに来たのは偶然?それとも、知ってた?」

言葉は感情を含んでおらず、発せられたのはただの言葉の羅列であった。
快斗は心をここには置いてはいない。

「偶然、よ。近くのビルに用事があって来ていたら、貴方の姿が見えたの。それで。」

哀の言葉を聞くと、快斗は興味がないようにふうんとただ一つ言葉を発した。
心はただ、誰よりも真実を望み、強い光を有しているあの青い瞳の彼のもと。
言葉を伝えることが無意味であるような気がした。
けれども言わずにはいられないことも自覚していた。

「・・あんなことして、工藤くんに怒られないとでも思ってるの?」

工藤、という言葉に反応したのか快斗がピクリと体を震わせる。
けれどもそれも一瞬のことで。まるで光の有していない瞳が初めて哀の姿を捉えた。

「あんなことって?」

その問いには哀は答えなかった。
快斗は知っていて、わざと哀に言わせようとしているだけだ。

「どうしてあんなことしたの?」

快斗は少しだけ嬉しそうに、それでも明るさの少しもない笑顔で笑った。

「あいつが、新一のこと、狙ってたから」

思っていた通りの答えに哀は一瞬だけ瞼を閉じる。
罪もないその笑顔が痛かった。

「・・工藤くんにばれたらどうするつもり?」

この問いを快斗に向けることは危険なことだと知っていた。
秘密を知っている自分が工藤にばらしたら、と脅していることにもなりかねない。
案の定、言葉を紡いだ途端に快斗を纏う空気が変わった。
その変化に少しだけ眉間の皺を深くする。

「俺がそんなヘマをすると思う?」

フェンスの向こうにいる快斗が喉の奥で小さく笑う。
哀からは月の光が逆光になって快斗の表情はよく見えない。
けれどもその表情は、いつものように楽しそうに笑っているに違いない。
フェンスの間から快斗の指が伸びてきて、偶然のように哀の首筋に触れた。


そこは紛れもなく。頚動脈。


工藤に秘密が漏れるのだったら、その前に哀を。

街中、無残な姿で転がっていた彼のように。


哀はひどく乾いた心で快斗を見つめた。

「・・ほんと、馬鹿ね」

快斗がそんなことをしても、工藤が喜ぶはずもないのに。
けれど大切な人を守るために、自分の信念を貫くために彼は動くのだ。
そうすることでしか伝えられない。

全く。不器用で、だけど誰よりも一途で。

哀が一つため息をつくと、快斗は屈託のない笑顔で笑った。

「ひどいなあ。俺、IQは高いんだけど?」

「天才と馬鹿は紙一重っていうことよ。頭いい人ほど、怒ったときに手がつけられないわ」

「そう?」

快斗は嬉しそうに笑う。


何事もなかったように会話を続ける快斗の後ろに、遠ざかっていく赤い光が見えた。










どうか。

どうか。

このまま工藤が何も知らずにいてくれればいいと。

そう願う心は間違っているのだろうかと、孤独に佇む月を見上げた。