+冷たい涙+





奪われてしまった。
人のものを盗むはずの自分が盗まれたなど、滑稽なこととしか思えない。
気を張って、誰にも気がつかれないように。
息を潜めて、その獲物の周りに罠を張る。
その計画的な犯行、華麗な行動自体に、心が躍る。
獲物を手に入れたことに至福の喜びを感じながら。
成功しないことなどありえないその鮮やかな盗みという行為に溺れていた。
一人きりだということに気がつかないために。
盗むという罪悪感を極力薄めるために。
人は自分が正当化されるものに無意識のうちに縋ろうとする。
悪いことをするというときも。自分勝手な行動をするときも。
人は誰しもその行動に理由をつけて、正しい道を進んでいるのだと錯覚させようとする。
怪盗をやっていることは間違っているとは思わない。
それは何度も何度も繰り返し考えて決めたことだからだ。
しかし、人間という感情を持つ人として、心のどこかに罪悪感は残る。
盗むこと。
騙すこと。
慣れてしまえばどうってことないことだ。
慣れてしまえ。慣れてしまえと心は叫ぶ。
けれども、慣れてしまうことは、ただ単にその状況に順応するのではない。
傷ついた心を隠すことも、慣れてしまうという一言で括られてしまうのだ。
一人きりで盗みをはたらくのは、どういう気持ちだか、きっと他の人にはわからない。
心を隠して、何事もなかったのように。
そうして夜の闇をまといながら、空を駆け巡る。



心の中に隠された、小さな小さな痛みは今でも消えない。



空の青のような色の瞳をした探偵に出会った。
明るい空の下は、自分には似合わない。
対照的な色を灯す、今世紀最高の名探偵。
確かに、容姿は似ていた。
しかし、その中に隠された心はまるで違う輝きを放っている。
明るい空の下が似合う名探偵と、夜の闇をまとうことでしか姿を保てない自分。
一目で欲しくなった。
綺麗な綺麗な名探偵を。
その心の中に映し出している光が見たかった。
自分が持っていないものを持っている名探偵。

毎回毎回、会うのが楽しみになっている自分がいた。
楽しみで、姿を見つけるたびに心が弾んだ。
でも、名探偵はそうは思ってくれていなかった。
会うたびに、見つけるたびに、彼は敵であるという目でしか自分を見てくれなかった。
最初は焦がれて、焦がれて、胸が張り裂けそうな程だったのに。
そのうち会うたびに衝動の方が大きくなっている自分を感じた。

こっちを向いていてほしい。
たった一人、自分だけを見て。
暖かなその光で受け止めて。
いてもたってもいられなくなった。
焦れて、焦れて、そして気がついた。



奪われたのは自分。
盗まれたのはココロ。



ねえ、新一?
怪盗が盗まれたなんて洒落にならない。
気を張って、気を張って。
気がつかれないようにしていた心を、いともたやすく奪っていった名探偵。
俺をどこまで虜にしたら気が済むの?



夜中に目を覚ました。
隣で安らかな寝息をたてて眠っているのは新一。
目の端はかすかに赤くなっている。
また、泣かせてしまった。
彼を目の前に、冷静でなんていられなくなる。
欲しいという感情は尽きることなく、どこまで求めれば気がすむのか。
暴走する感情を抑えられずに、いつも泣かせてしまう愛しい人。
快斗は小さくため息をつく。
泣かせたいわけではないのに。
その青の瞳が笑っていてくれればそれが一番いいと思う。
頭では分かりきっていることだ。
だけれども、狭いに違いない自分の心が、新一を求めて悲鳴をあげる。

俺を見つけて。
暗く狭いこの空間から、俺を連れ出して。

「ごめんね・・新一・・」

目の前のいとおしい名探偵の髪を優しく撫でる。
額にかかっている髪をかきあげて、その瞼にキスをする。

これ以上、ここにはいられない。


そして快斗は静かに、新一の家から出ていった。



頭を、冷やさなくてはならない。
大好きだからこそ、傷つけてはいけないものもある。
今にも泣き出しそうな夜空を見上げあがら、快斗は小さく笑った。

きっと、大切で、傷つけるのが怖いのは新一だけじゃない。
今まで隠してきた、心の中の小さな痛みが更に増えるのが怖いのだ。
結局、自分が傷つくことから逃げている。

快斗は再び空を見上げた。
いつもいつも見上げればそこに暗い夜の闇があった。
そして、今も。
愛しいものを手に入れたと思ったのは、自分の浅はかな考えだったのだろうか。

逃げることは何の解決にもならない。
それに、逃げていてもきっと、自分は新一を求めてしまうだろう。
触れられもしないで、それでも求めて。
狂ってしまうのではないかという恐怖感さえある。

しかし、正直怖いのだ。
あの青の瞳は誰の真実でさえも見抜く。
たった一つの真実を彼の瞳は簡単に射抜いてしまう。
それが何よりも怖いのだ。
今まで一人きりでいたこと。
一人で罪悪感に苛まれていたこと。
心の弱い部分を暴かれてしまうようで怖かった。
直視したくない部分まで、あの青い瞳で見抜かれてしまったら。

いとおしい心は時にひどい痛みを伴う。



どこにも行くところなんてなかった。
ただひたすら夜の中を彷徨い歩いた。
時折ぽつぽつと落ちる雨に、どうせなら自分がいなくなってしまうくらい、滅茶苦茶に降ってくれればいいと、そう思って。
しかし、快斗の思いとは裏腹に、雨はそれ以上強く降ることはなかった。

消えてはまた点く電灯を見上げながら、ふと愛しい人のことを思う

朝起きたら、何も言わずに出て行った自分をどう思うだろうか。
新一は悲しんでくれるのだろうか。
それとも、勝手なやつだと罵るのだろうか。

知らないところを彷徨っているはずだった。
しかし、気がついたときには快斗は新一の家の前に立っていた。
まだ、夜は明けない。
快斗の視線はただ一つ、新一の部屋の窓に注がれていた。
戻りたい。戻ってしまいたかった。
でも、それでも何も変わることはない。
そういう思いが快斗の足を留めていた。
振り切るように下を向いて、小さなため息をつく。

強く、強く惹かれたのは自分。
それを振り切ることは何か強大な力を持ってでしかできないだろう。
それほどまでに、惹かれてしまった。奪われてしまった。

自嘲の笑みを浮かべ、再び歩き出そうと快斗は新一の家に背を向けた。



そのとき、工藤家の隣の家の二階の窓に一つ、電気が灯っているのが見えた。
小さな女の子の影が、快斗のことを見下ろしている。
快斗がその女の子に向かって笑いかけると、彼女は呆れたように手を振った。
そんな行動にまた小さな笑みを浮かべて、哀の行為に甘えて、家の中へと入っていった。
夜の家に静かに忍び込むことなど、簡単なことだ。
そっと窓に手をかけて、哀の部屋へと侵入する。

「いらっしゃい、怪盗さん」

窓の横に背をもたれさせて、哀が皮肉のようにつぶやく。

「お招きいただいて光栄です、レディ」

それに負けないようにいつもの口調で返事をする。
快斗はまるで自分の家であるかのように、その広い部屋の奥へと歩いていった。
真ん中においてあるテーブルセットに軽く腰かけて、哀の方を見た。

「あなた、不器用なのね」

突然に言われた言葉に、快斗はまた笑みを浮かべてみせる。

「どうして突然そんなこと言うの、灰原さん?」

すると哀は視線を外して、窓の外を見やった。
窓の外には愛しい人の眠る家がある。
快斗はそれをなぜか直視することができなかった。

「工藤君、今ごろ泣いてるかもね」

哀がぽつりとそうつぶやく。
泣いている・・?
新一が・・?
快斗はその言葉を口の中で反芻して、その光景が頭の中に広がる。
ベッドの上で隣にいない人物を思って、新一は泣いてくれるのだろうか。

「あなた、工藤君のこと、どう思ってるの?」

「どうって・・・」

哀の言葉に返事を返しあぐねた。
そう質問する哀の真意がわからなかったのだ。

「あなたは工藤君のこと、本気なのと聞いているの」

「それは今更だと思うよ、灰原さん。俺は新一のこと、本気だよ。それは誰にも負けない」

哀の言葉に、睨むように返事を返す。
気持ちを否定されて笑っていられるほど快斗も大人ではない。
そもそも、この相手に笑顔を作ってみたところで、見抜かれてしまうのは分かっている。
そんな快斗を一瞥して、哀は再び窓の外に視線を戻した。

「あらごめんなさい。私にはそう見えなかったから聞いただけよ」

突き放すように言って、哀は口の端で小さく笑った。

「あなたは何を怖がっているのかしら?工藤君はそんなに怖い?」

まるで快斗の心を見透かすような言葉。
哀を照らす月明かりはまるで快斗をあざ笑っているようにも見える。

「自分の心を曝け出すこともできないのに、人の心のことを分かろうとするなんて無理なのよ。どんなに分かろうとしても、隠している自分の心にその相手の本心を知る鍵があったなら、あなたには相手の心なんて分からないわ。そんなことにも気がつかなかったの?」

新一の心は分からない。
何度も思いを伝え合ったはずだったのに、新一が今泣いているかさえ分からないのは、きっとそれが見せかけだけのものにすぎなかったのかもしれない。
新一は悲しんでくれているのだろうか。それとも・・。

「世紀の大怪盗さんはたしかIQ400じゃなかったかしら。その余りある知力は宝の持ち腐れってところね」

哀は窓辺から離れてゆっくりとこちらに歩いてくる。
しょうがないという顔をしながらどこか寂しげに。

「工藤君はあなたを傷つけたことがある?工藤君は名探偵よ。どんな真実も見抜こうとする。だけど、彼のいいところは、その暴かれた人を詰ることをしない。間違えて思われている真実を、正しく伝えるの。まあそれは彼の弱さとでもいうのかしら?」

快斗の腕を引っ張って椅子から立たせると、哀は背中を軽くたたいてみせた。
この少女の姿をした彼女は、人のことなど関係ないという振りをしながら、まるで春の風のように心を軽くしてくれる。

「早く帰りなさい。あなたの大切な人が待ってるわ」

哀が口の端をあげて小さく笑う。
それに快斗がいつもの花が咲かんばかりの笑顔で答えると、そのまま窓へと手をかけた。

「有り難う、小さなもう一人の名探偵さん」

窓枠から快斗の姿が消える。
一つため息をついてから、哀は窓に近づいて快斗の姿を目で追った。
ちゃんと工藤家の門へと手をかけている。
その行動に安心して、哀は一つため息をついた。

「・・全く、人騒がせな人たちね・・」




快斗は工藤家の前まできて、ためらいもせずに門を開けた。
音を立てないように気をつけながら玄関を開け、そして二階へと続く階段を上る。
先ほどまでいたはずの新一の部屋。
扉だ閉ざされていて、中の様子は伺えない。
普段よりもその扉が重そうに見えるのは、快斗の錯覚でしかないだろう。
扉に触れて、一旦また手を離す。
できれば新一がまだ寝ていることを願いながら。
快斗はドアに触れ、静かにドアを開いた。



快斗は一瞬息を飲んでその場に立ち尽くした。

新一は、泣いていた。
月に照らされ、その姿を惜しみなく現す雲を見つめながら。
雲に阻まれ、都会の光に阻まれ、満足にその美しい光を発せられない星々を見上げながら。
ベッドに座ったまま、新一はじっと泣いていた。
流れる涙はそのままに、頬を伝う雫にでさえ、新一は気がついていないのかもしれない。

扉を開く気配にも気がつかないで、新一はただ無心に空を見つめつづける。

ああ、自分は知っていたのだろうか?
新一が一人でいるときに、こういう姿をしていたのかもしれないことを。
弱さを、誰にも見せないところとか。
自分がいなくなったら、泣いてくれるということでさえも。
新一のことをちゃんと分かってあげていたのだろうか。

快斗はそっと近づいて、新一に聞こえるくらいの声で囁いた。

「・・新一・・」

ピクンと、体を震わせて、新一はゆっくりと快斗の方を向いた。
青い瞳は驚きとも悲しみともつかないような色を映しながら。
それでもしっかりと快斗の姿を捉える。

「・・・ごめんね・・・」

新一に手を伸ばして、慈しむようにその頬に触れる。
目から伝う涙を指で一筋一筋辿ってやる。
すると新一は堰をきったように涙を流し始めた。

「今までどこ・・いってたんだよ!心配・・したじゃねーか・・」

たどたどしく、それでも懸命に言葉を紡ぐ新一に、心からいとおしさがこみ上げる。

言葉という形にして、伝えなければいけなかったのだ。
こうして、形にしなければ伝わらないことだってある。
知らないことならなおさら、相手の心をどんなに察したって分からない。
伝え合っていれば、間違えもしなかった。

「うん・・ごめんね・・新一・・」

そのまま快斗は掻き抱くように新一を腕の中に閉じ込めた。
大好きな人の体温、におい、呼吸、そして存在。
その全てで快斗はどれだけ新一に依存しているのかを知る。
離れたら、生きていけない。
一人のときのことなど忘れてしまった。
新一の耳元に触れるだけのキスをする。

離れないで。
一緒にいて。
ずっとずっと幸せでいよう。

願いにも似た感情が快斗の中で渦巻いていることを知る。

新一の顔をまともに見ながら話すことなどできそうにもなかったから、快斗は新一を腕に抱きしめたままゆっくりと話し出した。

「聞いて、新一・・・。俺は怖かったんだ。こういうことを話したら、もし新一がいなくなったときに一人で生きていく自信がなかったんだ・・」

弱々しい快斗の言葉に、新一はただしっかりと抱きしめ返すことでその先を促した。

「俺はね、怪盗をしていくって決めてからずっと一人だったんだ。敵ばかりのところに飛び込んでいくときも。月の出ていない真っ暗な新月の日の夜の中も。ずっと一人で。だけどね、俺は新一を見つけた。そして新一が一緒にいてくれるようになった。俺は一人ぼっちじゃなくなったんだ。俺という人物を分かってくれる人がいる。それだけで俺は嬉しかった・・・」

思わず震えそうになる声を快斗は必死で押し殺す。
腕の中の新一は、しっかりと快斗の言葉を聞いていてくれているのだろう。

「だけど、怖くなったんだ。俺は新一が大好きで、すごく信頼もしてる。だからこれ以上頼って、心が新一なしじゃいられなくなったときに、もし新一が俺のことを嫌ったりしたらどうしようって、そう怖くなるんだよ。光が輝いていた世界から、また一人で暗い闇の中に戻るのはすごく怖い。・・かっこわるいよね、こんな奴・・」

自嘲気味に笑って、快斗は静かに目を閉じる。
聞こえる新一の鼓動。
それにこんなにも安心している自分。
もう駄目だね・・。
どんなに離れなきゃだめだと思っても、もう駄目だ。
結局は戻ってきてしまうんだ。
この光の中がふさわしい名探偵のもとへ。

「・・お前、ばっかじゃねーの?」

そんな言葉とともに、快斗の頭を温かい手が撫でていく。

「俺が離れていくとか、そういうこと勝手に決めんじゃねーよ・・」

新一の言葉の語尾が震える。
また、泣いているのかもしれない。
快斗はただ、黙ってその言葉を聞いていた。

「俺だってずっと一人だった。でもお前が来てくれたから・・。俺は一人じゃなくなった」

新一の手がそっと快斗の上着を掴む。
離れたくはないのは快斗も一緒で、ただひたすらにその背中に縋った。

「・・隣で・・お前がいなくなってて・・でも、俺・・はいつかこうなるんじゃないかって・・そういう気がしてて・・。お前の気持ち・・・、全然分かんな・・くて・・。・・死ぬかと思った。いなくて・・お前がいなくて・・。これから一人でやっていけるのか分かんなくなって・・・。このまま・・死ぬかと思った・・。」

紡ぎ出された言葉は、ひどく快斗の心を抉った。

「・・ごめんね、新一・・。ごめん・・。ちゃんと分かってなくてごめん・・」

どうか、強く。
新一の傍にいて、笑っていられるように。
守ってあげられるように。
誰にでもない祈りを捧げる。
どうかもう二度と離れないように・・。

快斗は少し腕を解いて、新一の顔を覗き込む。
やはり新一はこらえられずに涙を流していた。

「・・もう二度と離れるんじゃねーぞ・・」

祈りにも似たその言葉に、快斗は静かに口付ける。





奪われたままの恋心。
工藤新一にだけなら、渡してもかまわないと。

そう思って。