+猫と太陽 side室町十次+





愛するという行為を考える際にはまず、『千石清純』という人間を考えなければならなかった。


千石清純という人間は。

誰にでも優しく、そして誰をも平等に扱う。

それは彼が意識をしてやっている行動なのではなく、きっと千石清純というその人自体に、

生まれたときから備わっている本能に従って行っているのだと思う。

けれども。

誰にでも明るく、優しい性格の裏側で。

彼はひどく、何かを失うことを恐れていた。



太陽というものはこの世界の大地全てを包み込む。

この地球上に生きているもの全ての命を握ることもできるほどの力を持つ太陽は。

けれどもたくさんのものを持ちすぎていて、

何か一つ大切なものを持つということができなかった。

いや、できなかったのではない。

その方法を知らなかったのかもしれない。

たくさんのものを持ちすぎている彼は。

その中のたった一つに心を預けるということも、

預けるべきものを決める手段を持ってはいなかったのだ。

たくさんのものを持ちすぎているからこそ不安定に揺れる心は。

けれども一つのものに預ける術さえ知らなく、更に足元は揺れるばかり。

彼を支える柱はどれもこれも細く。

大きく、たくさんのものを持っているはずであるのに、

いつ壊れても仕方がないかのような脆さが彼にはあった。



しかし太陽は、いつしかその中のたった一つに心を預けることを覚えたのだ。

彼の手の中にあるものの中では、ずいぶん小さく細いものであったのだけれども。

太陽は、何故だか分からないけれども、たくさんある自らの手の中から、それを選んだのだ。



それからというもの、彼の随分と細く見えていた線は、

いつしか自分の目にはっきりと映るようになり。

笑っていてもどこか遠く見えた笑顔は、随分と近くに見えるようになっていた。


そう。

彼は変わったのだ。






『ほら、来たじゃねーか』


亜久津の声に、室町は弾かれたように肩を揺らした。

彼がやってくる音が耳の奥へと響く。

震える体を止めることはできない。

彼に会うのが怖いという訳ではなかった。


ただ。

千石清純という人間を考えた後に現れてくる、室町十次という人間の想いが。

自分の感情が怖かった。


「室町くん!」


千石が屋上のドアを勢いよく開く。

そして、彼は他の何者と間違えることなく、ただ自分だけを見た。

急いできたのだろう、制服の前ボタンは止めておらず、髪の毛も寝癖がついたままだ。

千石清純の名が聞いて呆れる。



けれども。

そこまで懸命に、自分を追いかけてくれたのだろうかと思うと。

自然に心が温かくなる。



視線が合うと、千石は真っ直ぐにこちらに歩いてきた。

そうして長い引き締まった腕を室町に伸ばした。

抱き締められていると、気づいたのはその2秒後のこと。


「突然飛び出していくから・・本当に驚いたんだ・・」


まるで。

子供が母親に取り上げられた玩具を、返してもらったときのように。

室町は千石に強く抱き締められた。


「・・千石さ・・」


本当に。

思考が止まってしまうのではないかと思うほど、強く抱き締められた。

口から漏れる声は自然と、彼の名を呼び。

その声が届いたのか千石は更に室町を抱き締めた。


「何処に行ったのかって心配したんだ・・」


言葉とともに、千石の指が確かめるように室町の輪郭をなぞった。

背中を辿った指先は、腰のラインを下り、柔らかく腿に触れる。



彼が。

手にしていたたくさんのものの中から、自分を選んでくれたのだという自惚れはない。

自分はただ、きっかけを与えただけ。

何も知らず、たくさんのものを抱えている太陽に。

どうしたらその不安定な足場を支えることができるのかという術を教えたのだ。

彼が、なんでもないという顔をしながら、

けれどもどこかで怯えていたのを、

自分は知っていたから。


「ごめんね、室町くん・・。室町くんにあんなに怒られるとは思わなくて・・」


室町の首筋に顔を埋めた千石は、そのままの姿勢で言葉を紡いだ。

首の、骨の辺りに触れる唇から発せられた言葉は、直に室町の体へと響く。

自分の勘違いなのだろうか。

僅かに、千石の声が震えているような気がした。



室町は千石の背中にゆっくりと手を回し、そうして抱き締めた。

すると肩に乗る千石の頭が僅かに揺れた。

その柔らかいオレンジ色の髪にも触れて、まるで子供をあやすように頭を撫でた。

そうして。

今まで聞きたくてけれど聞けなかった問いを口にする。



「淋しかったんですか・・?」



千石が。

こうして室町をきつく抱き締める意味。


たくさんのものを抱えて立っていた千石が。

たった一つのものに心を預けることを覚えた。

けれどそんな小さなものに自分を預けるなどという経験がない千石は、

不安で不安で仕方がないのだ。

いつ、その小さなものが自分の心を捨てて逃げてしまうのだろうかと。


だからこそ千石は、こんなにも懸命に自分を追うに違いない。



「うん。置いていかれた千石さんは淋しかった。このまま捨てられたらどうしよう〜ってさ」



室町の問いに素直に答えた千石は、

もうこれ以上自分の傍から離れることは許さないとでも言いたげに、

室町の体に全身で触れた。

千石清純という人物の全てで愛されているような錯覚さえ覚えて、眩暈がする。

あまりの熱に、思考さえ奪われそうになり。

瞼の裏に込み上げる熱は、更に温度を上げる材料になってしまう。



「馬鹿ですね・・。千石さんは・・」



愛するということの前提に、千石清純というものを考える。

そうして千石清純というものに想いを馳せたとき、それに付随して必ず、

室町十次という自分が思い起こされる。

自分は。

千石清純という人間に比べたら本当にちっぽけな存在で。

彼が空に輝く真夏の太陽であるとしたならば、

自分は路地の裏で食料を求めて鳴く、痩せこけた猫にすぎない。

太陽は地球上全ての命を握り。

自分はたった一つ、自分の命さえ生かしていけるかどうかも分からないほど。



しかし猫という動物はプライドが高く、きまぐれだ。

どんなに他の存在が猫に手を差し伸べようとも、

気に入らなければ決してその手を取ることはない。


そんな我侭な猫が。

たった一つの手を取った。

それは、なんと。

地球の全てを握ってしまうほどの大きな手で。

あまりの明るさに最初は物怖じしたものだが、

けれどいつも決して弛むことなく伸ばされる手に、いつしか猫は自らの手を伸ばしていた。


彼は。

あまりに大きなものを持ちすぎていた。

自分は、ほとんど何も手にしていなかった。

彼はたくさんのものの中からたった一つを見つけ出し。

自分は何もない空間からたった一つを見つけ出した。



けれど、求めるものは同じ。

たった一つの、大切な存在。



貴方を。

そう簡単に、捨てるわけがないのに。

これでも、プライド高いんですよ。




「千石さんを捨てるはず、ないですよ」



言葉にすると、肩の上で千石が僅かに震えた。

そうして再び強く抱き締めると、千石は室町の首筋に顔を埋めているために、

くぐもった声でこう言った。


「・・うん。そっか」





彼を。

抱き締めてあげたいと。

そう思った。

この腕が何本あれば、彼を抱き締めるために事足りるだろうか。

今の自分の腕ではいくら抱き締めても、足りないと思う。

抱き締めて抱き締めて。

どんなに力一杯だきしめても、千石の全てを包んでやることはできないのだ。

室町はもどかしさを感じながらも、それでも懸命に千石の背中に腕を伸ばした。



やはり、千石は淋しかったのだと思う。

たくさんのものを抱えている分、それらに行き渡る情熱は自然と小さくならざるを得ず。

だからこそ、千石を満たすだけの想いが返ってくることはなかった。



この、痩せた細い腕で。

どこまでこの人を抱き締められるか分からないのだけれども。

千石が淋しくないと思うくらいに。

深く抱き込んであげることができればと。

そう思うのだ。



室町が懸命に手を伸ばし、片方を背に、片方を頭に置き、抱き締める。

するとやはり、千石の全てを抱き締めるには到底足りず。

それでも構わないときつく抱き締めると、千石の体が僅かに震えた。



そうして、強く抱き返された。

まるで流し込まれるかのような熱が心地よく。

どうしてこんなにもこの人の傍は心地よいのだろうかと、疑問にも思わなかった。

彼の傍にいることが何よりも自然で、安心するのだ。




「俺はそんなに甲斐性なしじゃないからさ」



千石は顔をあげ、勢いよく室町の顔を覗き込む。

室町が驚くよりも先に、千石は手際よく室町の顔を覆っていたサングラスを取った。

そうして唇に軽いキスを落とし、そうしていつものように、酷く楽しそうに笑った。

そう。

太陽のように。



「可愛い恋人が折角抱き締めてくれてるのに、何もしないなんてもったいないこと、しないよ」



千石の唇が近づいてきて、室町の耳元を掠めた。

意識的に下げられた声。

それが情事の時の、千石の声を思い起こさせて、室町は慌てた。


「千石さ・・」


頭の中に思い出された昨晩の記憶を振り払おうと、室町は微かに頭を振った。


「室町くん、体、辛いんでしょ?」


千石の問いに、室町は答えあぐねた。

彼が何を意図してこの問いを尋ねてきたのか全く分からなかったからだ。

とりあえず室町は自然に頷いてみせた。


「じゃあ帰ろう。今日は二人で学校サボろう。

 今、室町くんのこと抱きたくてしょうがない。

 早く室町くんの中に入りたくてしょうがない」


真昼間の屋上で。

一体この人は何を言い出すのだろうかと。

室町は今にも止まりそうな思考回路を懸命に働かせて、千石の言った言葉の意味を理解した。


「・・!何言ってるんですか・・!」


抵抗しようとしてみせると、千石はそれすら許さないという風に室町に告げた。


「今抱かせてくれないと死ぬ。

 学校終わるまで待ってたら俺、我慢できなくて教室で襲っちゃうよ?」


千石の言葉に、室町は言葉を返すこともできない。

やると言ったらやる。

そういう人なのだ。千石清純という人間は。


「・・・・・・・・・・」


室町がどうしていいのか分からずに数秒考え込んでいると、不意に千石のキスが降ってきた。

けれど今度のキスは軽いものではなく。

吐息さえも飲み込んでしまいそうなそれに、室町はついていくことなどできなかった。


「・・・っ・・ん」


懸命に意識を保っていようと試みるのだが、

こういう事態になって室町が千石に勝った試しなど皆無である。

次第に意識は遠のき、足は震え、膝から力が抜けていく。


カクンと膝が落ち、倒れそうになったところを、千石が腰に手を置き、支えてくれた。

そうしてそのまま。

目にもとまらぬ速さで室町を抱き上げた。


「よし、じゃあ帰ろう!」


「ちょ・・千石さん!!南部長に頼まれた仕事とかあるんですけど!」


「健ちゃんに?そんなの無視無視。俺たちの愛の時間の方が大事!」













気まぐれに。

特定の人しか愛さない猫と。

誰にでも愛される、明るい太陽のお話。