その時の千石さんは、普段には見られないほどの謙虚さと、自信がないような表情と、 縋るような態度をしていた。 けれどそこに演技なんかではない、計り知れない愛を感じ。 ただ自分は、千石さんの言葉に頷くことしかできなかった。 +10月30日 考えてみれば、今日朝会ったときから何処かおかしかった。 あの人の行動がおかしいことなど今に始まったことではないのだけれども、 それでもいつも見せる底なしの無邪気さだとか、 誰をも魅了する光を纏った彼の姿はそこにはなかった。 どこかぎこちなく、けれどもいつも以上の慈しみを持った視線を千石さんは自分に向けてきた。 何かおかしい、とは思ったけれども、自分に実害がある訳ではなく、 問いたださなくてはならないほど重大な出来事が起こった訳ではなさそうだからと、 敢えて深く追求することはなく、――そして今に至る。 部活を終えた帰り道、普段よりも言葉が少ない千石さんを横目で見ながら、 何があったのだろうと推測をする。 いつもは騒がしいほどの部活中も、今日は時々何処かあらぬ方向を向いていることもしばしばで。 太一が千石さんに打ったボールに、全く反応を示さなかったなんていう出来事もあったくらいだ。 その度に南部長に怒られていたけれど、いつもと違う千石さんに部長も気づいていたみたいで、 素直に謝る千石さんを見て、部活に出てきているだけましかと、そのうち怒るのをやめてしまった。 一体。 何があったのかと思う。 でも、何か傷ついたことがあった訳ではないのだろう。 この人はとてもとても甘えたがりやで、何かあればすぐに自分のところへ来ては、 鬱陶しいくらいに纏わりついてきて、 『室町くーん、千石さんは傷ついたよ』 と、言いながら室町に抱きついてくるのがいつものことだ。 だから、何か胸のうちに抱えていることがあるのだろうけれども、言ってこないのだから、 聞けない。 そんな弱い自分に腹が立つけれども、それでもいいと室町を甘やかしてきたのは他でもない、 この人なのだ。 室町が何も言わなくともそれを察し、まるで手に取るかのように気持ちを読み取られてしまう。 彼から与えられる想いに溺れて、満足をして。 自分から動けなくなったのは千石さんのせいだ。 けれども。 どこかでそんな自分を苦々しく思っている心もある。 室町は歩きながら、隣を一緒に歩いている彼を見た。 その視線を察したのか、千石さんは凄く優しい瞳をして室町に笑顔を返してくれる。 ほら。 まただ。 自分が何か行動を起こす前に全て彼に読み取られ、 まるで自分の気持ちは読み取られているかのよう。 柔らかい布の中に包まれて、それこそ壊れ物を扱うみたいに大事にしてくれる。 いつもはふざけてばかりいるけれども、その言動・行動の一つ一つに、 これ以上ないほど自分を大事にするという思いが含まれている。 それに気づくとき、自分はいつも千石さんに申し訳ないという気持ちでいっぱいになるのだ。 室町は僅かに目を伏せた。 このままでは何も前に進まないことなんて分かっている。 けれども踏み出す勇気が見つからない。 今までずっと、甘やかされてきたから、いざという時にその一歩が踏み出せない。 躊躇う気持ちと、前に進まなくてはという気持ちが心の中でぶつかり合う。 千石さんを見て。 『何があったんですか?』 いいかけて、けれども言葉にはならずに目を伏せて。 その、繰り返し。 踏み出せなかった思いが次第に心に積もっていき、苦しさは増していく。 こんな時に、強く思う。 あと少し。 ほんの少しだけでもいいから、もっと自分が素直だったら。 こんな思いをせずに済んだのに。 「室町くん・・どうかした?」 突然頭の上からかけられた声に、驚く。 「何かさっきから考えごとしてるみたいだけど、何かあった?」 逆に。 自分が今まさに尋ねようとしていたことを聞かれてしまった。 室町が何度も躊躇って言えなかった言葉を、彼はこんなにも簡単に言ってみせる。 尋ねた千石さんも、何て顔してるんですかって聞きたいほど、酷い顔してるっていうのに。 ごめんなさい、と心の中で思う。 素直じゃなくてごめんなさい。 勇気がなくてごめんなさい。 もちろんそんなこと、口に出しては言えないから、 俯きながら、隣にいる千石さんの制服の裾を僅かに握ってみせた。 小さく呼吸をして、そうしてやっとこのことで言葉を口に出す。 「千石さん・・今日何かおかしかったけど、何があったんですか?」 言えたことにひとまずは安心したのだけれども、それでも顔が上げられなくて、 俯いたままただ千石さんの制服の裾を握っていた。 数秒経って、聞こえてきたのは自嘲のような笑い声だった。 「やっぱりばれてるよね」 躊躇うようなその言葉に、やっぱり言いたくないことだったのかと、室町は僅かに緊張する。 これで自分には関係ないなどと言われたら、やはり少し傷つく。 室町はただ死刑宣告を待つ罪人のように千石の言葉を待った。 けれども発せられるべき言葉はなく、室町は突然――腕を引かれた。 行き着いた先は千石さんの腕の中で、突然の出来事に何も出来ず、大人しくその腕の中に収まった。 「室町くん――お願いがあるんだ」 耳元で囁かれた言葉に、ここが公道であるということは頭の中から抜け落ちた。 なんて、情けない声をしているのだろうと思った。 これがあの千石清純か、と。 まるでいつもとは違う声音に、彼の想いを知る。 「・・何ですか?」 内容を聞いてみないと分からない、というようなニュアンスを含ませて問い返す。 最も、千石さんのお願いを断る気など、今の自分は全くなかったのだけれども。 「室町くんの明日一日を俺にください」 千石の言葉に、室町は僅かに驚く。 「明日・・ですか?」 明日といえば、自分の生まれた日だ。 それくらい千石さんも分かっているのだろう。 前々から自分の誕生日が来ると皆に言いふらしていたくらいなのだから。 その一日を、千石さんはくれという。 「うん、明日」 千石さんが何を思っているのか分からなくて、室町は顔を見ようと首を上げようとする。 けれども千石さんの腕がしっかりと自分を抱き締めたので、それはできなくなった。 大人しく再び腕の中に収まると、顔は見られないけれども押し付けられた胸のあたりから、 いつもより僅かに早い鼓動が聞こえてくる。 緊張しているのだ、と気づいた途端、室町は僅かに顔を伏せた。 「室町くんのこと、信用してない訳じゃないんだけど。 でもね、室町くんの持っているもので、誰にもあげてないものが欲しいんだ」 そう、彼は言った。 回される腕は熱く、制服越しにその熱が伝わってくるかのようだった。 「室町くんにとって一番大切な日を。 君が生まれたその日を。 一日全部じゃなくてもいい。 その中の、俺が室町くんを占める時間が一番だったらそれでいいから。 だから・・ 明日、室町くんの一番大切な日をください」 思わず、泣きそうになった。 愛しいこの人に、ごめんなさいと何度も謝りたかった。 千石さんはずっと自分を甘やかしてくれていた。 溢れるほどの愛情を与えてくれて、けれども室町に返ってくる愛を強いていた訳ではなかった。 けれどもそこまで強い訳でもなくって。 臆病な自分を守ってくれていた千石さんは、代わりに外の殻で傷ついていたのだと思う。 多分きっと、千石さんはどこかで不安に思っていたのだろう。 ごめんなさい、と。 心の中で何度も謝る。 好きだと言ってくれる貴方に甘えて、優しく守ってくれる貴方に溺れるだけだった。 与えてくれたものは大きすぎて、こんな少しなもので返せるとは思えないけれども。 それでも千石さんが欲しいというのならばいくらだってあげようと思う。 「・・いいですよ。 ・・・・・でも。 ちゃんと俺のことも貰ってくださいね」 千石さんの背中に腕を回し、暗に誕生日の時間だけではなく室町ごと貰ってほしい、と告げたら、 ぱぁっと、目に見えて分かるほど千石の纏う空気が変わった。 「うん、うん!もちろんだよ〜v 室町くんは残さず頂くよ!覚悟しててね!」 なんて宣戦布告を受けて少しだけ後悔をしたけれども、やっと千石さんらしさが戻ってきたので、 まぁいいかと思う。 やっぱり笑っていてくれる千石さんの方が好きだ。 勇気のない自分はもちろん口に出して言うことなどできないけれども、 明日は彼と自分だけなのだから、少しだけ勇気を出して、告げてみるのもいいかと思う。 「このまま家くる?」 千石さんに腕を掴まれて促される。 もちろん、断る理由なんて何処にもなかった。 一つ頷くと、千石さんは頭に花が咲いたかのように喜んだ。 もう抱きかかえんばかりの勢いで、千石さんの家まで引っ張っていく。 そんな千石さんを見て一つ溜息をついて。 だけれども本当にただ愛しくて思わず口からこんな言葉が飛び出した。 「・・俺、明日学校行くつもりないですから・・。 千石さんの方こそ覚悟しておいてくださいね」 千石さんは、一瞬だけさっきまでの情けない表情に戻り、室町を見た。 けれども直ぐにこれ以上ない笑顔になって、今度こそ千石さんに抱きかかえられて、 千石さんの家までの二百メートルを運ばれていった。 「室町くんからそんなことを言って貰えるなんて明日大雨かなぁ・・」 その声は、それはもう嬉しそうで、頭の上に花の咲いた千石さんを見て、 室町も幸せそうに笑ってみせたのだった。 Happy Birthday dear Toji Muromachi ! |